« 逆立ち日本人論 | メイン | ルーブル美術館の楽しみ方 »

聖者の戦い

佐藤賢一
集英社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 非常に面白い。人が論争し始めると必ず生じる「右」と「左」という立場について、フランス革命の中での実例を描きながら、読者に「本質的に面倒なこと」を「面倒なままの形」で示してくれている本である。いかにして議論すればよいか。このテーマを扱う本は数多く出版されているが、人類史の大イベントのただ中で行動していた人たちをモデルとし、歴史小説の形で提示してくれているものが外にどのくらいあるのだろうか。日本語で、しかも面白いものが読みたいならばこの本しかないはずだろう。

 ぼくは世界史が不勉強のままで、フランス革命については簡単な穴埋め問題程度の知識しかないけれど、知識のありなしなどはこの本を楽しむのに無関係である。また、この本を読んだからといって、世界史の勉強になるとも思えない。この本の目的は、要するにこうだろう。これまでと考え方ががらっと変わるという状況におかれた人々はどんな行動をとるのか。なんだか面倒そうなテーマだが、実際フランス革命ただ中に居合せてしまった人々の行動を渦中で覗き見することで、このテーマについて考えることになる。

 とはいえ、ちょっとしたフランス革命についての蘊蓄も自然と頭に入り込む。例えばこんなこと。どんな話題でもそうだが、何かを変えようとするときに必ず「保守:右」と「革新:左」との意見がでてくる。なぜ右と左となのだろうか。これはこの小説においての中心舞台となる議会における議員の座り方に由来する。向かって左側に座っている議員は「とにかく革命、国民が主権。王侯貴族はどうでもいい」という集団、右側はその逆の王制を懐かしむ人か聖職者であったのだ。そして、その間は意見もその間ということになっている。さらにそれらの席は階段上になっており、上に座る人ほど意見が過激になっている。なるほど、知識も仕入れられる。

 右でも左でも、それらの意見を過激なまでに支持する人は「原理主義者」である。つまり、自分たちが提案している考え方(意見なのだが)が「とにかく素晴らしいもの」であって、それを曲げる必要ないという態度だ。当然、自分の主張が相手に100%受け入れられないということを認めない。右も左もそういう態度であれば、決着はつかない。それどころか、非難合戦、中傷合戦、さらには暴力合戦になり、議会から去るか議会が破綻して終わりになる。そして、中間部にいる人は両者ともに極端だと思って賛同できないと思っているうちに自分の居場所が消えてしまう。原理主義の人たちだけでは議会は機能しないし、そもそも話し合いというものが無意味になる。

 タイトルにある「聖者」とはキリスト教の僧侶のことである。中世において力をもちつづけていたキリスト教聖職者はフランス革命後にどう扱われるようになるのか、国家の大権である戦争開始の権限は誰にあるのかということで議会がもめにもめる。とくに右の集団は既得権確保、左の集団は革命が革命であることの意味を追求することになる。両者ともに妥協せず、かつ譲らないのであれば、なんてことはない、議会が破綻する。

 こういう状況は世間によくある話である。互いに相手をバカだといいくるめるか、それとも二度と会わないようにするか。ぼくだってそのどちらかを選ぶが「自然」な心の方法なのだ。この本でぼくが唸ったのはミラボーの解決案と議論の着地の仕方である。右と左の間で平行線を辿るような話し合いのなかで着地の模索する。よくよく考えてみれば自分の身の回りにもよくある風景ではないかと気づく。仕事上での議論や政治ニュースでは、この繰り返しなのだ。そんなことに気づくと、俄然この小説が面白くなる。フランス革命はある意味、「ひとごと」ではないのだ。

 こういう場合、どうやってものごとを収集するか。フランス革命では一番上手に立ち回る役にミラボーがいた。なるほど、彼は右と左との妥協点を探し、それに向けて根回しをし、みんなを着地させようとする。右の人も左の人も不満ながらも受け入れるよりないと気づき、どちらでもない人は妥協案に賛成することになる。そう、なんてことはない、痛み分けの構図なのである。結論だけ聞くと当たり前で面白みがない。それに原理主義者たちは妥協するくらいならば放棄するのではないかという疑問も残る。この小説はミラボーの視点、右や左の人物の視点になることで、なぜ彼らが「妥協に至ることができたのか」、その過程を体験できる。それは論理ではなく心情、心境の変化からの理解なのだ。「なるほど、そういうわけか。」読みながら何度もつぶやいてしまった。

 妥協という言葉に嫌悪感を持つ人はこの小説を読むとよい。おそらくそれで未来が読めるから。例えば、先日の選挙での論点、八ッ場ダムでの争いなどは一体どうやって着地させるのか。両者の妥協点はどこか。どちらかが一方的に勝利すれば、その場は決着したかのように見えてもいずれ氾濫が起きる。長期的に見れば失敗案になっているのである。

 妥協案を探すことは、両者を足して2で割るというものではない。どんな妥協を探すのかは、ある種の芸術ではないかと思ってしまう。