« 須賀敦子のフランス | メイン | 45分でわかる! 新型インフルエンザの基礎知識 »

差別と日本人

野中広務+辛淑玉
角川oneテーマ21
お勧め指数 □□□□■ (4)

 この新書は書店で平積みされているのを見かけたときから気にはなっていたのだけど、手にする事はなかった。差別についての本なのに結構売れているのはなぜだろうと少し不思議な感じがしていた。
 例によって通勤電車の乗り換え駅で時間がないとき急いで手にしたのはこの本。選択する時間がないときは、以前から気になっていた本を取り上げるものだ。つまりは平積みも宣伝効果があるということである。差別問題を切実に感じる世界にいないぼくにはあまりピンと来ないない内容だろうと思っていたが、読んでみて初めて問題の糸口がわかったような気がする。

 ぼくは東京生まれで東京育ちである。社会科の勉強のなかで差別だの朝鮮だの同和だのの用語を耳にしたことはある。教科書には「やってはいけないことです」などと強調されていたはずだ。いやしかし、ぼくの周りにはそんなものはなかった。だから「一体、何言っているのだろうか。」子供の頃はそうもっていた。成長するにつれ関西にはそういう問題があるらしいと知るようになったが、それでも「一部の右翼的な人」がそうしているに過ぎないことだろうと思っていた。

 ところが現在でも結構あるようである。なぜそんなものが残っているのかはわからない。自分の近くにないからだろう。それにしても、アナクロニズムな世界が未だに残っているのが信じがたい。

 差別は「感情」である。論理ではない。なぜメロンが好きなのか、なぜ生のタマネギが嫌いなのか。そんな理由はいくら自分を探ってもわからない。仮にわかったからといって、好き嫌いがなくなるわけではない。好きなものは好きで、嫌いなものは嫌い。これは、子供のときに憶えることであって、どうして憶えたのかの経緯は不明であることが多いだろう。それであってもちゃんと心に刻まれている。万引きが悪い事です。そういうのと同じで、子供の頃からやっている人にはいくら教えても無駄なのだ。差別という感覚も子供の時に憶えたかどうかで決まるのだろうと思っている。

 ならば、子供の時にこの本で取り上げられた差別が身の回りになかった人は、大人になっても「差別する感覚」は存在しない。ある種の演技は可能かもしれないが、心情としては湧いてこないだろう。一方で、子供の時にあった人は、大人になってもあるだろう。それは論理で教えても無駄なものである。つまり、関西で育った人は「お気の毒様」ということである。日本人が反ユダヤ主義と無縁なように、関東人はこの種の差別とは無縁なのである。

 東京に生まれて良かったことはなにか。それは、この本にある差別は現代の関東にいれば関わらないですむということだ。関東人ならば差別がないのかといえば、そうではない。その対象が違う。差別と同根のいじめは東京でも盛んに行われている。

 人というハードウエアは日本全国どこでも同じだ。差別には物理的実体はない。いわばソフトウエアだ。ハードウエアとは関係がない。ならば差別の理由などない。差別しなければならない環境があるだけだ。環境がないところには差別も存在しない。この本のタイトルの「日本人」は言い過ぎだろう。差別の種類によって地域性があり限定的なことでしかないのに、まるで日本全国この問題があるような雰囲気になってしまう。もっとも、対象は変われどなんらかの差別は程度の違いはあれ必ず存在するものである。違いが「ある」のだから。