おがたQ、という女
読み終わって不思議と感動した。哀しさというか切なさというか、なにに感動しているのか、にわかにはわからないのだ。ストーリに驚いたとか、登場人物が可哀相で泣けてくるとかではない。原因不明で感動している。 この小説のなにに感動したのか。そんなことを分析的に述べたりすると「文学青年」になってしまうような気がする。ぼくは文学的なことを読み解くような訓練もしていないし技もない。そもそもそんなことをする必要も感じていない。単に好きで本を読んでいるだけで、しかも数多くを読みこなしたわけではない。だから文学評論とは無縁である。 そう思っていても、藤谷治さんが「おがたQ」という女性に託したものについてぼやっと考えてしまうのである。 主人公のおがたQという女性、この人は著者、藤谷治のことではないか。いや、ちょっとちがう。おがたQ=著者ではなく、著者がながい間考え続けてきた人物=おがたQというべきか。長い時間、ある人のことをずっと考えていると、その人と自分との垣根がぼやけてくるとぼくは思っている。その意味で、おがたQ=著者ではないか。 あるいは、おがたQは人物ではなく、「心ここにあらず」というときの妄想のようなものか。あるいは、哀しさ切なさの寓意(アレゴリー)としてのキャラクターかもしれない。 さらに考える。この作品では、男性の小説家が女性の主人公を描き、そのなかで「女心がわらないのね」などと発言させている。小説に夢中で読んでいるときならばとくに気にはならない箇所だが、今こうして考えてみると、なんでそんなことが言えるのか不思議である。だって、おめぇ男だろう。しかも、それ想像上の人じゃないか。そう自然と疑問になる。 男に女ごごろがわかるのか。知識としての「女ごころ」ではない。その場合は、同じ感情を著者は体験できているのだろうか疑問になる。こう想像する。小説家くらいになれば、想像というものが単なる視覚体験ではなく、感情体験まのでが可能なのだろう。だからこを女心がわかると言えるのだろう。 あるいは、とさらに想像する。著者はとりあえず男であることを忘れ、「人」という存在になって想像しているのかもしれない。自分が何者かなどは無視し、「女ごごろ」を考えているのではないのか。そんなレベルで考えることができないと、いや感じることができないと、つまり、「自分」という枠から外に出て考えられないととても小説なんてかけないんだろう。 小説に登場する男性や女性は、あれは人間としての男性や女性ではないと思うようになった。著者が表現したいなぁと思っている感覚、感傷、感情を男性なり女性なりの衣をまとわせた寓意なんだろう。だからその役は、なにか行動の主体であることよりも結果的にそのキャラクターが読者に感じさせたい「感覚」あるいは「心情」なんだ。 なんでまたこんな感想をもったのだろうか。それくらい、不思議な寓話なのだ。帯に書かれた「逆・シンデレラ」の意味は全くわからないまま読み終えた。この作家には何か不思議なものを感じる。それがいいものなのか、悪いものなのかはわからない。ただ、数年後に『船に乗れ』という傑作を生む事になるのだけど、その作品とはだいぶ感覚が違う。 |
