「CO2・25%削減」で日本人の年収は半減する
文句なしの一冊。読んでいて、良い気分には全く慣れない、つまり「反省」や「懐疑」や「疑問」が頭の中を渦巻いてくる。それらはすべて国とマスコミに対して向けれたもの。科学技術立国なのに、国もマスコミもどうして現実に立脚しないで「自分たちが不幸になる物語」や「外国人礼賛」の心理に乗っ取った政策をとり報道をするんだろうか、と腹立たしくなる。むらむらとしてくる。 もしも武田邦彦さんが一連の著作を発表していなかったら、ぼくの現在の生活はずいぶんと「どうでもいいもの」に気を使っていたことだろう。ぼくだってマジメな市民だから、きっと分別したりマイバックをもったりしていたことだろう。考えもしないで、自分でできることをやろうとしただろうな。なかなかこういうところを根底から考えようとはしないものだから。 普通の人が考えるチャンスを奪われる状況には型があるように思える。戦前ならば「東大教授」と「役人」が国民に有無を言わせないような社会だったはずで、それが一つの型だ。太平洋戦争突入までの社会の推移と現代とはさすがに違うルートをとっているが、その最大の理由は、圧倒的におかしな報道をする人たちに対抗する「まともな人」が著作を表してくれていること。NHKをはじめ、マスコミ連中が「温暖化の国教化」活動をしているなか、武田邦彦さんのように市井の人にもわかりやすい形で著作を表し、それを出版してくれる世の中の仕組みは、かろうじてだけど日本にはまだ存在している。正直、よかったよなぁと思う。 だからといって、ぼくは悲観していないわけではない。日本人の集団愚をあなどってはいない。温暖化については、おそらくこのままマスコミがねじ伏せてくるだろう。お雇い帝大教授の数もことかかないし、かららの「無謬性」は役人とどうよう治らないだろう。ならば、多かれ少なかれ日本は衰退、しかもある時点で衰退するだろう。そう確信する。つまんない世の中になるだろうな、棲んでいる人は不幸なところになる。ならば、自分の子供をここに住ませたいなどとは思わない。 仕事で役人と接した人ならば、彼らの無謬性や他人を見下す性質を体感しているはず。霞が関に魔法があるかのように、面白いように誰もがそうなっている。どうしてなんだろうな、と当時考えたのだが、小さい頃から「俺は偉い」を成就するために試験勉強に励み、東大を卒業してきた過程で「おれらは常人とは違う」という信憑を受け入れ、役所に入ってからは「国民などどうでもよい」と仕事の本来の意味を忘れた人たちが群がっているからだろうと思う。これはもう、治んない。 地球温暖化問題については、「クリミネート・ゲート事件」によって世界のマスコミのスタンスは大きく変わるだろう。ただ、日本はどうだろうか。間違ったことをしたと絶対に認めない役人やマスコミが、その本質的な性質である無謬性を破って、クリミネート・事件を取り上げたりするのだろうか。期待薄である。だから日本の政策はそんなに変わらない。それどころか、逆ギレして議場仕分けで「温暖化対策」が優先されるようになるかもしれない。 結局、日本の場合は、まともな情報は少数の有識者が自身の著作を出版することで、水面下で広がっていくことでしかないのだろう。とすれば、そういう本は自分で探して集めるよりない。テレビ番組を見る事で一気に知る方が効率が高いのだが、この国では期待出来ない。 新聞社が出版している本なのか。だったら、新聞で報道すればいいのに・・・。 |
