現代霊性論
釈徹宗さんという浄土真宗の僧侶と内田樹さんとが合同で講義した内容を編集して一冊の本にした。いいよなぁ、こんな授業が大学であるんか。この大学の学生さんはずいぶんとラッキーな。そもそも霊というタームをタイトルに冠した授業が存在する自体がにわかに信じられない。もちろん、それはぼくの常識感からであって、僕自身は「そんなものがあったら絶対受講する」のだけど、ぼくが通っていた大学にはなかったし、今でもないだろうし、あり得ない(だろう)。それって、普通の人の社会(というか、いわゆる世間)の感覚に近いのではないかと思うので、おおかたの人がどんな気持ちで手にするのか知りたいものである。 「霊を感じる」と発言したとき、そこの運命予測のようなものをイメージするのか。幽霊とは違う。霊である。古い神社の境内の雰囲気を想像すればよい。見えるものは普通のものしかない。でも、なんか雰囲気があるようなぁ。それが霊である(と思っている)。心霊・幽霊の方は雑誌やテレビ番組の人気コーナーにもなる。占いもそれに入るかもししれない。両方ともに宗教に関係があるのは確かだけど、霊は芸術などを論じるにも必要となる。ならば心理学や芸術を調べていけば避けて通れないものが霊であるとすれば、そのテーマで授業は成立する。なるほど。さほどおかしな主張でもない講義になりそうだ。 本書を読んでいて、なるほど、と合点したものがあった。それはこの本とは直接関係はないが、連想でヒラメキ、そして理解したわけだ。「意志あるところに道は開ける」という言葉について。 通常であれば「どんな困難であっても、自分のやる気があれば成功するものだよ」という精神的主義の解説がつくだろう。あるいは、困難を乗り越えた勝者の回想をまとめるのに便利かもしれない。要するに、がんばれ、ということである。 今は違う意味で考えている。それは、対偶を考えてみれば良い。つまり、道が開かなかったならば意志はなかったのだ、ということ。 意志があるとかないとかは、自分が主張することが普通である。意志があるかないかを唯一知る事ができるのは自分である。そう考えるのは普通の発想。 しかしそれは誤りで、実は自分に意志があるかないかを知る術はないのかもしれない。やる気といったものは気分でしかなく、意志とは違うものかもしれない。もっといえば、なぜだかわからないが、やってしまうことがあるとしたら、それは自分に意志があるからであり、その意志を直接自分が知覚することはできないがゆえに、自分の意図とは関係なく身体が動くように感じるのかもしれない。 なんだかわからないけど、何かある。たとえば物理を学んでいない人からみたら、世の中不思議なことが多い。電気工学をしらないと、携帯電話は魔法としか思えないはずだが、それでも使えてるようになってしまう。そして、それに人生を依存してしまうことまである。 存在することはわかっていて、そのメカニズムについてはさっぱりだけど、自分の人生を賭けてしまうというようなことは、オカルトにかかわらず、古くからある宗教でなくとも、ごく普通に起きていることではないか。なんてことはない、現代霊性論というものは、それでいいような気もする。もっとも、この本にある内容の深さに遠く及ばない妄想でしかないけれど。 |
