さよならドビュッシー
このミス大賞受賞作は毎年買って読む。新人なのになんでこんなもんがかけるんだろうか。そういう驚きがあるから。物書きになる人はスタート地点からして普通の人とは違うようだ。どうしてこれが「最初」の本なんだろうか。つくづく不思議な思いがする。信じられない技を軽々とこなす天才少年少女をマのあたりした普通の驚きである。 職業として物書きを選ぶ。いくつもある選択肢から迷った揚げ句にそれを選ぶ。そういうドラマは実際にはないのかもしれない。単に不安と希望を天秤に架けはしたが、応募した作品が賞をとれたので作家になってしまった、ということで、苦悩なんてないんだろう。要するに、有る技術に秀でるかどうかなどは、自分でどうにかなるものではなく、周りの人がいかに後押しするかで決まってしまうのかもしれない。ある種の運命を帯びた仕事なんだろう。ちょっと、親鸞的な考え方過ぎるだおるか。 ところでこの著者は音楽にどの程度詳しいのだろう。子供の頃に音楽の教育を受け、途中で違う道に来てしまった人なのだろうか。『船に乗れ』の藤谷治さんのように。それならば話はわかる。でも一方で、『のだめ』の作者のように『平成よっぱらい研究所』を書いていたような人が何かのきっかけで書いたのかもしれない。ぼくにはわからない。 そもそも音楽家や音楽を学んだ人がどう音楽を聴いているのかは、ぼくのような素人から想像もできない。『のだめ』を見るとそうおもう。凄いなぁと。この作品でも、ドビッシーやショパンの曲の説明がある。曲が生まれた背景、作曲家の自伝、あるいは世界史における位置づけなどを演奏者はまず頭に入れて、それを理解した上でどう演奏するか、どう観賞するかという方法が示されている。いい曲悪い曲好きな曲ぱっとしない曲という心理的な状態で曲を判定してしまうぼくなどには想像すらできないことを裏でやっているわけである。 音楽の道に進む人はさぞかし大変だろう。ただ好きでピアノが弾けるわけではない。この小説はミステリー小説なのだが、殺人のトリックだけでなく、音楽の道にいる主人公の音楽の捕らえ方も立派にコンテンツになっている。『のだめ』と同じだ。へぇ、そうなんだ、そんなものかな。ミステリーの謎ときよりもこっちのほうに比重を置いてぼくは読んだ。この説明に素人にも想像できるようにリアリティーがあれば、そして、それが説得力をもち読者にそんなもんなんかねと思わせることができれば、ミステリー自体の印象も良い方へと引張あげられるだろう。 小説はあくまでも「お話」であって、読み終わってしまうとそれで終わりである。もちろん余韻やら面白かった感想やら小説のパターンやらは頭に残るが、かといって「勉強しちゃった」という気分にはならない。 本を読む事=勉強じゃないし、読書で何かの役に立つ勉強をしなければいけない理由などないのだから、音楽を聴くように小説を読めればいいはずだ。 そう思ったが、ひょっとしたら音楽家が音楽を楽しむためにいろいろ勉強するように、本を書く人、読む人にもいろいろ勉強することがあるのかもしれない。 この小説はある種の成長ドラマだ。解説に「宗方コーチ」という例えがあったが、見方を変えれば確かにそうで、面白い「話」の方向性はだいたい世の中に知られているものばかりなのかもしれない。単に楽しむだけで済ませてくると、そのうち飽きる。だから、いろいろな勉強があるのだろう。 |
