砂漠の修道院
砂漠の修道院。空想が広がっていく。砂漠だから暑くて水がなくて風が吹いていて、見わたす限り砂なんだろう。夜は寒いんだろう。生きていくための水が確保されれば、自給自足の生活ができればだが、生活はシンプルになるはずだ。そんな場所では欲望を持とうにもその対象がないし、そもそも修道院なんだから。きっと、思い煩うことが減って、生きていることを確認するだけの毎日になる。そんなことを考えて、ちょっぴりだが憧れる。 今自分が生活しているところと全く別の環境には、まったく別の論理やまったく別の当たり前があるんだろう。奇妙に思えるような習慣があるとしても、それはその場所、その環境、その週間に根ざしているものだから、自分がそういう場所で生活すれば「なるほど、それは当たり前だ」と気づくはず。そして、今現在の自分の「当たり前」が実に奇妙に思えてくる。そんな心境の変化があるかもしれない。 宗教とは関係なく、幸せな生活をしている人でも「違う自分」について思い浮かべることがあるだろう。中国には仙人がいたし、日本にだって岩山の上の修業場というものは存在していたし。要するに、砂漠に行きたいと思っている人は、何らかの意味で一端死に、そして、生まれ変わることを希望しているのかもしれない。ただし、死ぬ前後の記憶はすべて保持したままという条件つきなんだろうけど。 砂漠のなかの修道院の生活がどういうものか、どんな人がどういう動機で修道士になるのか。この本はエッセイの形を借りた実地調査のメモ書きである。実際に取材したことが書かれている。コプト教を信じるエジプト人という、およそぼくには想像できない習慣や基準のなかで生きている人たちが語る修道士になった理由を読むに、日本人とたいして変わらない、想像できる範囲のものだなと思う。人って、同じように考えるものなんだなと実感した。 |
