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1Q84 Book3

村上春樹
新潮社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 へぇ、続きがあったんだ。

 そう思って読んでいたら気がついた。Book2で、この小説は終わりようがなかったのか。もしもあそこで終わっていたら、ぼくにはなんだかわからないままだった。登場人物もストーリーも、なんだか宙ぶらりんで終了しているなぁと感じていたが、巨匠がそれでいいということならば仕方ないと素直に考えていた。

 とはいえ、「続編があるかもしれない」とは思った人はどのくらいいたのだろう。1Q84はBook3まで読まないと、いろんな意味で「落ちない」。

 良い感想なり解説なりがあるとすれば、それを読んだことが本編を読むこと(あるいは読んだ事)に全く影響を与えないものだろう。自分が読んで感じたことや気がついたことがあるとして、それを「あやまりだった」などと指摘するような解説はいらない。

 これからいろいろな評論やら感想やら、その派生やらが公になり、良いものは出版されるのだろう。小説にはいろんなメタファーがあるから、解釈によってどうにでもなる。何か言いたい人は1Q84にそれを託すのだろうなぁ。

 本編のストーリーとは関係なく、読んでいて気になったことがある。それは、どういうときに過去形を使い、どういうときに現在形を使うのかの基準である。

 単純に考えれば、思い出して語るときは過去形を使うというもの。例えば、朝食はラー油かけご飯「だった」。そういうたぐいである。

 この小説では、読者の視点で使い分けがあった。つまり、読者が「見ているもの」と読者の側にあるもので、現在形と過去形が使い分けられていた。

 目の前の天吾の行動を牛河が言葉にするとき(思考しているとき・認識しているとき)は過去形が使われている。一方で、青豆が自分の行動を言葉にするとき(考えるとき・認識するとき)は現在形。時制での使い分けではない。例えそれが読者の視点からすれば「過去」にも関わらず現在形なのだ。

 「生き生きとした表現」を狙って、過去のことでも現在形で表現することがある。そんな単純な方法では分類できないような使い方があるようだ。まぁ、そりゃそうなんだけど。

 上手な小説ほど、そういう使い分けがキレイにできているのだろうか。文学の芸術としてしての「部品」は、そういうものなのだろう。