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寝ながら学べる構造主義

内田樹
文春新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

 何度読んでも感心する本がある。この本はその筆頭だろう。

 通勤電車でもう何度も読んだ。海外出張先での夜にでも読み進めればきっと愉快だろう。そう思ってカバンに入れてきた。

 で、実際読み進めると、もう何度も読んでいるのに、知っているはずのことを憶えていない。まいったなぁと気づく。

 本なんてものは、一回読んだだけでは何もわかっておらんものだ。つくづくそう実感する。

 正直にいえば、ぼくはこの歳になってそれに気がついた。

 何を今さらという感もあるが、本は何度も読むべきだ。

 読んでいくほどに、本全体の構成が見えてくる。最初に読んでいるときは、一時限的な展開としてしか把握できないものである。

 解説であったとしても、物語のように過去と現在と未来があるように読んでしまう。そして全部読み終わったところで、すべてか過去になる。その時点で話の展開など一切をひっくりめたものが「過去」のこととして頭に残る。

 それを「知識」と呼んできた。


 だから思い出すとしても、思い出した場所を本の位置を頼りに探しだすことになる。全体ではなく、冒頭からの距離のようなものを指標としているから。つまり、話の展開を頭のなかで再現して、時間順に目的の場所へと到達するわけである。これだと思い出すのに時間がかかるし、初めのほうを忘れると終わりの方は思い出せないことになる。

 しかし何度も同じ本を読んでいると、話を全体として把握できるようになる。最初と最後という一次元的な流れでの理解ではなく、全体を全体のまま。これが結構面白い。

 とはいえ、だからといって「内容を理解した」とはとても言えない。やっぱり本を読んだくらいで、何かがわかるようになどなるはずはないから、仕方ないけど。

 そう言葉にしてみてから、疑問が思い浮かぶ。
一体、なにをどうすれば「理解した」と言えるんだろうか。

 理系の判断基準ならばさほどむずかしくないが、文系のこういうテーマにについては、「理解した」とは一体何をさすのだろうかなぁ。