時間をあけて同じ本を読み返すと、まったく違ったものが見えてくる。
改めてこの文庫本を読んで、過去に単行本でこれを読んだとき何を読んでいたのか、と情けない気分を覚えた。
どの文章も初めて読むような気がした。
情報を吸い上げようと読み始めても、文章の力によって次第に「真面目に」株式会社の問題を考えている自分に気づく。
本を読むことによって、「ぼくも」一緒の考えているのだ。
すごい。
平川さんに「考える」ということを教わっているような気分になる。
すでに一度読んだことがあると思えないのは、ぼくの頭はまだアホだったのだろうか。
それがここ数年で少しはよくなったのかもしれない。
なにせ、内容を覚えていなかったのだから。
とはいえ、全て忘れたわけではない。
ところどころ記憶には残っていて、例えば落語芝浜のCDをなぜ買ったのかの理由がこの本にあったのかと再発見した。
ぼくは株式会社に務めたことがなく、また株式会社に務めている人と接触する(会話をする)機会は殆ど無い。
だから、会社といえばドラマの中のサラリーマンを思い浮かべるよりない。
あるいは、ニュースで紹介される経済犯罪の舞台であり主犯となる対象でしかない。
どっちもあまり関わりたくないイメージである。
本書では株式会社というものがこの先どうなるのか、何が起きるのかを考察している。
コンプライアンスとかコーポレイトガバナンスとか、そういう言葉が飛び交うようになっているが、その後で何が起きるか。
株式会社の幾つく先について、考えている。
株式会社の発祥は大航海時代のイギリスである。
人類の組織や政治の歴史に比べれば、つまり王政とか民主制とかいうものと比較すれば、株式会社はつい最近現れたものに過ぎない。
その発生当初から「良い面」と「悪い面」とあり、イギリスでは「法的に禁止」されていた時期もあったそうだ。
産業革命時代の資本家と労働者の関係のように、極度な社会的分離を生じさせ、共産主義革命というものが発明され実験に供されることの発端となったのは株式会社であろう。
その実験に失敗してソ連は倒れたが、同じようなことが資本主義社会に起こらないとも限らないわけだ。
会社を株主、経営者、そして従業員に分けてしまったことが問題の発端のように思える。
株主は、株を買い株の値を上げ、それを売って儲けること「だけ」が目的である。
そのために株主に雇われているのが経営者で、経営者のもとで働くのが従業員である。
経営者に不満があれば、株主はすげ替えることができるわけだ。
人が働くことは太古から当然あり、集団で何かをするということもそころから行われてきた。
人が集まって仕事をし、給料をもらうというような仕組みが株式会社ならではのものではない。
人が自分のために、社会に役立つものを作り出して売る。
その規模が大きくなると、管理という機能が必要なるので、経営というものを作りだした。
その段階では、会社は働く人のための道具であり制度的工夫でしかなかった。
しかし、株主というものを設定したが故に、ある種の「王政」が引かれてしまった。
結果的に従業員は奴隷になった。
もし株主の欲望を止めるものがなければ、会社の製品や環境への影響などは無視されていくのは当然だ。
環境だけでなく、奴隷としての従業員について考えることもないだろう。
自分がどこに立っているのか。
これに気づかななくなったとき、無自覚に無意識に「欲望」の方程式に沿って人は行動する。
それが、いろいろな社会悪を生み出すが、一方で商売としては成功するわけだ。
例えば、毎日のようにタイの洪水の話や、円高の話がニュースで流れている。
そのニュースでは「コレコレの理由で工場を移す」と「さらっと」言っている。
そうしないと、儲けが少なくなるから、ということだ。
しかし、これ、従業員から考えると「人生がガラっと変わる」ような発言なのだ。
別のところに移動したら、今働いている人はいらない、ということだから。
この本を読んで、こういうニュースの背後になることななんなのか、少し気づくにようになってきた。
人が集まって働くことが目的だったのに、いつのまにやら「奴隷」になっている。
派遣労働者の問題は現代の奴隷制を言っているに過ぎないし。
とはいえ、この先も社会はこのままで動くだろう、しばらくは。
怖いものだ。
今まで通り、なれべく近寄らないようにしよう。