歴史研究者にとって目の上のたんこぶであろう司馬遼太郎さんと塩野七生さんとを相手取り、歴史学とは何かを説明している序盤は読みごたえがあった。
歴史学であるならば、そこでの言明には根拠を示さなければという態度をとる。
歴史書ならばその方法で書かれている。
そうぼくは理解した。
なるほど実に分かりやすい切り口である。
もしこれが講義なり講演なりで説明されたのならば、ぼくはすかさず手をあげて質問しただろう。
(問一)というこは、ヘロドトスの『歴史』や司馬遷の『史記』なんかは歴史書ではないのですね?
(問二)すくなくとも、彼らは二人とも歴史家には入らないと考えていいですね?
(問三)日本書紀なんてのもとてもとても歴書ではないという理解でよいですね?
資料ではあるが、歴史書ではない。そう考えて良いですね?
多分全部YESであろう。
本書では歴史学を科学としてるが、そこへも質問したいところである。
言葉の定義の問題なのだが、実験で確かめられない、ただの文章である歴史は、さすがに科学ではないでしょう?
哲学の仲間には入ると思いますが・・・。
作者はどう理解しての発言なのだろう。
司馬遼太郎さんも塩野七生さんも「歴史書」を書こうと意図していないし、また、それを読む読者にとっても「歴史書」を読みたいなどと思っていない。
大衆であるぼくらは、そもそも「歴史書」を必要としていないから。
そうではなく、物語を必要としているのだと。
さすがにそこはこの本の著者も理解されているだろう。
そもそも作家の意図していることは、作家にとっての「アウトプット」であり、資料を総合した最終段(最上段)である「作品」である。
歴史学者の出力は、次の世代が利用するための「資料」であり、それらが改編されることを望んでいるわけである。
つまり、そもそも比較にならない。
なぜ学者が作家の作品を「それは歴史ではない」といちいち宣言してまわるのか、ぼくは
つねづね疑問だった。
それに対する身も蓋もない答えは、単なる「ねたみ」である。
なぜ、作家の本が売れて、作家が有名になって、作家が文化勲章までもらってしまえるのだろうか。
そういう、面倒くさいひがみなのである。
だいたい歴史は大学の教授ということになり、みんなから睥睨されることを当然と考える人たちだから仕方ないことなのかもしれないけど。
歴史家さんたち、世間を気にせずそれぞれの分野でしごとすりゃいいじゃねぇかよ、と思うわけである。
逆に、作家が歴史家を悪くいっている例はあまりない。
彼らが頼りにする資料を編纂する人たちだから、大切にしてくれるはず。
いや、あった、井沢元彦さん。
だからといって、学者が学者の仕事をしているのを邪魔はしない。
一般の人も先生がたの邪魔はしない。
先生がたの出力がそのまま多数の人にとっての文化財となるためには、優れた作家がコンパイルしないとダメだよ、ということでしかない。
本当にそれだけの問題なのに、なぜ学者はいつまでもそんなこといっているのだろうなぁ。
この本によれば、歴史学の人のかくものは、「真実」を追求しているのだそうだ。
となれば、古いことについてはどんなに資料を集めたって「わからないこと」の方が多いはずだ。
そのくせ、歴史学者は「センス・オブ・ワンダー」の漂うようなものを書きたいそうである。
さらに凄いことに、セーガンの疑似科学の話を持ってきている。
コンテキスト無視なんだなぁ。
うーん、歴史家は変な人たちだとつくづく感心する。
真実の追求だとか、科学だとか、なんだか面倒なことを主張しているのだけど、動機が透けて見える。
自分たちの成果物を使って、自分たちよりも遥か上に舞い上がる人たちにいちいちケチ付けて回っている、ということ。
なんだか、救われない人たちなんだなぁ。
自分が良く知っていることから想像すると、じつは歴史家のやっている資料批判もかなり怪しいところがある。
それは、未来において歴史資料となるはずの現在の資料について、ぼくはそもそもからして「事実ではない」ことがしゃーしゃーと書かれていることを知っているから。
新聞になった記事はファンタジーであるし、本人の手記も「嘘っぱち」であることを結構目にする。
こういうものを一級資料として「真実を追究する」とおっしゃる未来の歴史家の人は、なんとも勘違いパーソンなのだろうか。
だったら現代の歴史家もそういう目にあっているだろう。
実験出来ないのだから、歴史が科学だなんていう看板は降ろしてもらいたい。
自然科学と科学は違うなどといって拒否するだろうけど、彼らの言う科学は「自然科学」であることをミスリーディングさせる意図で使われているのだから、どっちでもいいけどね。