キリストを世界宗教へと押上げたといわれているパオロが旅した道を歩きながら思索する森本本。キリスト教の内容についてどうこういうのではなく、古代ローマという時代、ヘブライ、ユダヤ人の特殊な宗教がどうやって世界化していったのか、どのような状態でどういうことをパオロはしたのだろうか。それをなるべくパオロが歩いたと言われる道をたどりながら考えていく。
キリスト教徒の人とキリスト教徒に反対する人にはこの本を楽しめないだろう。砂漠に心魅かれる人、古代オリエント(今でいう中東)、古代ローマについて興味を持っている人ならばのめり込むだろう。あるいは、旅行に興味がある人もこういう旅行者のような行動に憧れるかもしれない。ぼくは、たいして旅行経験もない普通の社会人であって、森本哲郎の本と古代ローマ・オリエント史に興味を持っている人である。その視点からみれば、いつか自分もこのような旅をしてみたいなとため息をつくだろう。もっとも、旅は可能だろうがその行程で思索が行えるのかと言われれば多分無理だろうから、結果的にはこの本をソファーに座ってゆったり読みながら想像する方がずっと幸せ度が高いことは間違いない。
この本を読むのは2度目なのだが、内容は忘れてしまったことが多く、初めて読むような気分がした。ただし、初めて読んだ時よりも古代ローマ・オリエントについて何冊か(実は何十冊だが・・)素人として楽しみながら本を読んでいるので、背景となる場所や出来事について思い当たることが多いので、より楽しく読めた。勉強はしたもんがちだとつくづく思う。
宗教が世界化するとはどういうことか。ナルホドと思う記述がある。通常の宗教であれば何らかの掟があり、ともかくもそれを守るということが必要になる。その宗教に帰依している場合の最低条件であろうと思うことがあるだろう。そういうルールは、その地域に住んでいる人が歴史的に得たモノであることが多く、その地域にいれば当然であるものだが、そうではない人から見れば「意味不明」なものに見える。なんで安息日に働いてはいけないのか。割礼がなぜ必要なのか。これは「決まっているものは守れ」という態度が、その掟の発祥の地にいれば当然に感じる。つまり、大抵の宗教はそういう「個別性・特殊性」がある。一方で、世界化するにはその掟の特殊性を外の世界に納得してもらう必要があるが、当然無理である。住んでいる場所が違うのだから。住んでいる場所が違えば考え方が違ってくるのだから。だから、普通宗教は世界化しない。では、キリスト教はどうして世界化したのか。
森本哲郎は哲学の人だから、「アウフヘーベン」という相対立する考え方を止揚することだと見ている。宗教は個別、世界化は普遍。この考えを一つ上のレベルに上がって解決すればよい。感嘆に言えば、パオロはそれをやったのだと言っている。この本では、その過程を色々想像しているのだ。小説という方法ではなく、思索と言う方法で。
なぜ、キリスト教が世界宗教化したのか。同じテーマを塩野七生もローマ人の物語で扱っている。すこし視点が違うようである。それを社会の人々の必要性にどうマッチさせたかという戦略的な発想で説明されていたと思う。パオロの苦悩というより、エンブロシウスの知性による勝利という物語になっていた。どっちの話も成立するし、お互い矛盾しない。扱っている時期が違うし、いろんな人がいたのだろうし。まぁ、世界化のフェーズが違うのだから当然だろう。
さて、パオロの考えた止揚だが、つぎのような一文で理解でると思う。
互いに愛し合うことの外は、何人も借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全(まっと)うするのである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣の人を愛せよ」というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはならない。だから、愛は律法を完成するものである。(「ローマ人への手紙」)
実に上手にアウフヘーベンしてある。民族の掟だった十戒のいくつかを隣人を愛せよでまとめてしまった。これならば、「そりゃそうだろう」という気になるだろうから、ユダヤ人じゃなくともなっともできるし、キリスト教徒でなくとも「いいこというね」と納得してもえるだろう。お釈迦様だって異論はないだろう。
もっとも、こっから先は思うように行かないのも歴史を振り返ってみれば理解できる。愛の定義、隣人の定義が状況によって変わるし、生命として自分を守る必要があるだろうし、隣人におかしな人がでてきたらどうするのか、蛮族があれくるってきたらどうなるのか、という色々な「想定外」の環境にさらされるとこの行動指針がどの程度有効なのかがはっきりしてしまう。たぶんそれは、ケースバイケースになるのだろう。まったく、世の中は単純ではないのだ。
旅をしながらこんなことを考えていく。最後にこういうアイデアにたどり着く。そんな旅は、旅のしがいがありすぎる。大抵は、もっとつまんないことに注意をとられて思索を深めることなどできないものだと思う。ぼくの場合はそうだった。そして、もっと修業をつめば森本哲郎のように考えることができるかもしれないと淡い期待をしながら次の旅の計画をするのが、一つの道楽になっている。
最近、本を読めていなかったので久々にさっぱりした幸せ感を味わえた。読書は時間も空間も越えられる。想像力だから実際の生活には直接御利益がないかもしれないが、それでも読んでいる時間は実に充実したものになる。さて、また古本をアサリに行くかな。