風が変えた世界史
何もわからない状況で航路を探すってのは、実に勇敢で無謀なことだ。
あるいは、なぜ「カリブの海賊」というものが有名になったのか。
以前読んだ、ツヴァイクのマゼランを読み返してみたら、以前にもまして感動するかもしれない。 歴史に疎いぼくではある。 歴史は世界史もあるし日本史もあるし、地理などの知識は造山運動や氷河期などの影響なども絡みあってくる。 そうか、これが「勉強」の底なしの面白さなんだ。 |
何もわからない状況で航路を探すってのは、実に勇敢で無謀なことだ。
あるいは、なぜ「カリブの海賊」というものが有名になったのか。
以前読んだ、ツヴァイクのマゼランを読み返してみたら、以前にもまして感動するかもしれない。 歴史に疎いぼくではある。 歴史は世界史もあるし日本史もあるし、地理などの知識は造山運動や氷河期などの影響なども絡みあってくる。 そうか、これが「勉強」の底なしの面白さなんだ。 |
世界経済がおかしくなるんじゃないか。 人は生まれたときは記憶ゼロである。 世界史というとなんだが、企業が話題に登る事件をみていれば、似たような問題が何度も起きていることがわかる。 ある程度世界史なりを知っている人がいれば、現在ドルやユーロの不信の問題や、中東で発生している革命などを見て、いろいろな不安と過去の出来事が重なりあい、未来に対する不安が予想するかもしれない。
じゃぁ、というのでまずこの本を読んでみた。 この本は「なにがどうしてどうなった」を解説するとまえがきにある。 読んでいるときはなるほどなぁ、と思った。 まぁ一言で言えば、必要としないものをたくさん作れば、まぁ、駄目だよね。 もうちょっと勉強しないと、この本の意味もよく把握できないのかもしれない。 |
網野善彦さんと阿部謹也さんの対談。 しかし内容としてはよくなかった。 ヨーロッパ中世ではこうです。 前書きを読むと、そういう本になってしまったという断り書きがある。 |
半年ぶりにシリーズ続刊が出版され、続きを読んでみた。今回はルイ16世がパリから逃亡する物語。ヴァレンヌ事件について。有名なものなのだろうか、フランス革命についてそもそも知らないので、そんなことがあったのか、へぇという気分で読んだ。 佐藤賢一さんの小説の特徴だけど、小説の語りの視点はくるくる移動して、へんな気分になる。一体だれの思考過程を読んでいるか、という混乱はしない程に上手に語られているが、気を許すとなんだかわからなくなる。 今回はルイ16世の話だから、多くはルイ16世の思考をだとっている。彼は「おれは偉いのだ」ということを心の支えにして思考し、行動した。この本はそう伝えている。が、果たして本当はどうだったのかなどは全くっわからんだろう。人の心の中など、現代の人でも家族でもよくわからないもの。ならば、ルイ16世のことについて想像はトンチンカンだろうよ、ということではない。思考の裏付けを行動から追っているから。ルイの思考過程を想像し、感情の起伏を小説にするはありである。当然だが、教科書よりは遥かに面白いし、キーとなるイベントも記憶できてしまう。 佐藤賢一さんの書くような小説って、面白いけれど、司馬遼太郎さんのものとはまた違った意味で不安になるところもある。なんといえばいいか、人物が「軽く」なっているような気がする。言葉遣いが軽い部分は、考えているなかでのものに限定されているが、実際のところはどうなんだろう。言葉遣いがキレイな人の思考もキレイな言葉で構成され、進行しているのだろうか。 |
気になっていた興亡の世界史シリーズに青柳正規さんの巻が出版されていた。人類文明の始原を扱っているようで、となるとラスコー洞窟絵画やシュメールなんかが書かれているはず。そのあたりは世界史のなかでぼくが一番興味のあるところ。 出張先での楽しみとしてホテルで読んだのだが、実にがっかりするできであった。というのは「黎明と暮れ方」というわりにその説明がなかったからだ。 ある文明がなぜ栄え、なぜ衰退するのかについての記述が明確でないのは、そもそも明確に語れるものではないのかもしれないが、だとしても「反映した理由が衰退の原因になる」という一般的な主張だけしないのであれば、なにも一冊かくことないじゃんと思うのは仕方ないだろう。それってここであえて持ち出さなくてもいいようなことじゃないか。 反映の理由が衰退の理由でもある。まぁ、それはそれで正しかろうとは思うので、気分を換えて偉い先生の視点からみた興亡の風景をみてみよう。その見方を感じる事ができればよしとしよう。そう思って読みすすめたのだが、結果的に著者が主張したいところは「多様性の強調」くらいだった。なんとも不完全燃焼。 なるほど、これだとこのシリーズは売れないだろう。それは読書する人の数の問題でも知的好奇心の衰退でもなく、作る側に問題があるような気がする。 いや、まぁ、たかだか400ページの本ならば、新書で3冊程度の分量だから、あれこれ集めて、しかも自分のローマの発掘を入れたいとなると、こういう出来になるのは仕方ないのかもしれない。 本から何を読み取れるか。それは読者次第という考え方がある。いい事が書いてあってもそれを読み取れなければ仕方ない。頭の良い人には良い本であるかもしれないが、普通の人には普通の本であり、ダメな人にはダメな本になるという考え方である。 この本が良いと思えないならば、それはぼくが出来の悪い人間だということだろう。そう言われればそうかもしれない。ヨーロッパの知識人向けの本ならば、そういう態度もありだと思うが、ここは日本なんだ。 この本のダメな理由を挙げるとすれば、結局は物語性がないこと。事実を事実として記載することが歴史を研究する人の役目だというスタンスを貫くならばそれはそれで仕方がないが、それではあまり普通の人の役にはたたない。それは、一般の書店で販売する上では問題がある。 歴史は言葉で語るよりない。ならば原理的に著者の視点や興味に縛られる。客観的という行為は不可能になる。何が事実なのか、などということを求めても語ること語らないことの選択がある以上、事実全体などを求めることは無理な相談である。だから、面白く物語ることは必要だ。そのためには、自分の業績をいちいち挟み込む必要はない。それをするとテーマがぼける。そうしなければならないようならば、その著者である必要はない。もっと適したテーマで書けばいいのに。 そんなわけで、おそらくこのシリーズはあまり期待できないような気がする。 |
非常に面白い。人が論争し始めると必ず生じる「右」と「左」という立場について、フランス革命の中での実例を描きながら、読者に「本質的に面倒なこと」を「面倒なままの形」で示してくれている本である。いかにして議論すればよいか。このテーマを扱う本は数多く出版されているが、人類史の大イベントのただ中で行動していた人たちをモデルとし、歴史小説の形で提示してくれているものが外にどのくらいあるのだろうか。日本語で、しかも面白いものが読みたいならばこの本しかないはずだろう。 ぼくは世界史が不勉強のままで、フランス革命については簡単な穴埋め問題程度の知識しかないけれど、知識のありなしなどはこの本を楽しむのに無関係である。また、この本を読んだからといって、世界史の勉強になるとも思えない。この本の目的は、要するにこうだろう。これまでと考え方ががらっと変わるという状況におかれた人々はどんな行動をとるのか。なんだか面倒そうなテーマだが、実際フランス革命ただ中に居合せてしまった人々の行動を渦中で覗き見することで、このテーマについて考えることになる。 とはいえ、ちょっとしたフランス革命についての蘊蓄も自然と頭に入り込む。例えばこんなこと。どんな話題でもそうだが、何かを変えようとするときに必ず「保守:右」と「革新:左」との意見がでてくる。なぜ右と左となのだろうか。これはこの小説においての中心舞台となる議会における議員の座り方に由来する。向かって左側に座っている議員は「とにかく革命、国民が主権。王侯貴族はどうでもいい」という集団、右側はその逆の王制を懐かしむ人か聖職者であったのだ。そして、その間は意見もその間ということになっている。さらにそれらの席は階段上になっており、上に座る人ほど意見が過激になっている。なるほど、知識も仕入れられる。 右でも左でも、それらの意見を過激なまでに支持する人は「原理主義者」である。つまり、自分たちが提案している考え方(意見なのだが)が「とにかく素晴らしいもの」であって、それを曲げる必要ないという態度だ。当然、自分の主張が相手に100%受け入れられないということを認めない。右も左もそういう態度であれば、決着はつかない。それどころか、非難合戦、中傷合戦、さらには暴力合戦になり、議会から去るか議会が破綻して終わりになる。そして、中間部にいる人は両者ともに極端だと思って賛同できないと思っているうちに自分の居場所が消えてしまう。原理主義の人たちだけでは議会は機能しないし、そもそも話し合いというものが無意味になる。 タイトルにある「聖者」とはキリスト教の僧侶のことである。中世において力をもちつづけていたキリスト教聖職者はフランス革命後にどう扱われるようになるのか、国家の大権である戦争開始の権限は誰にあるのかということで議会がもめにもめる。とくに右の集団は既得権確保、左の集団は革命が革命であることの意味を追求することになる。両者ともに妥協せず、かつ譲らないのであれば、なんてことはない、議会が破綻する。 こういう状況は世間によくある話である。互いに相手をバカだといいくるめるか、それとも二度と会わないようにするか。ぼくだってそのどちらかを選ぶが「自然」な心の方法なのだ。この本でぼくが唸ったのはミラボーの解決案と議論の着地の仕方である。右と左の間で平行線を辿るような話し合いのなかで着地の模索する。よくよく考えてみれば自分の身の回りにもよくある風景ではないかと気づく。仕事上での議論や政治ニュースでは、この繰り返しなのだ。そんなことに気づくと、俄然この小説が面白くなる。フランス革命はある意味、「ひとごと」ではないのだ。 こういう場合、どうやってものごとを収集するか。フランス革命では一番上手に立ち回る役にミラボーがいた。なるほど、彼は右と左との妥協点を探し、それに向けて根回しをし、みんなを着地させようとする。右の人も左の人も不満ながらも受け入れるよりないと気づき、どちらでもない人は妥協案に賛成することになる。そう、なんてことはない、痛み分けの構図なのである。結論だけ聞くと当たり前で面白みがない。それに原理主義者たちは妥協するくらいならば放棄するのではないかという疑問も残る。この小説はミラボーの視点、右や左の人物の視点になることで、なぜ彼らが「妥協に至ることができたのか」、その過程を体験できる。それは論理ではなく心情、心境の変化からの理解なのだ。「なるほど、そういうわけか。」読みながら何度もつぶやいてしまった。 妥協という言葉に嫌悪感を持つ人はこの小説を読むとよい。おそらくそれで未来が読めるから。例えば、先日の選挙での論点、八ッ場ダムでの争いなどは一体どうやって着地させるのか。両者の妥協点はどこか。どちらかが一方的に勝利すれば、その場は決着したかのように見えてもいずれ氾濫が起きる。長期的に見れば失敗案になっているのである。 妥協案を探すことは、両者を足して2で割るというものではない。どんな妥協を探すのかは、ある種の芸術ではないかと思ってしまう。 |
ここのところ昔読んだ本のうち気になるものを読み返している。といっても内田樹さんの本が多いのだけど。先日、養老孟司さんと内田樹さんの対談を読み返し、その中でこの本についてが話題になっていた。この本は一昨年の暮れに読んでいるのだが、中身全般について今でも理解しているとは言い難い状態だったので、早速読み返してみた。 気軽に読めるタイプの本ではないだけに、つっかえつっかえ読み、ところどころ面白いなと思う場所を発見しつつ読み進めた。しかし残念なことに、この本一冊を「うわぁわかった」というレベルで理解することができなかった。というのは、面白くないところはどうしてもじっくり読む気がしないのである。説明の論理も語彙もぼくの理解の範疇内にあるから、文章のレベルでわからないところはない。よくある哲学書や法律文書のような意味不明さは全くない。にもかかわらず、まぁこの部分はぼくはよく知らなくてもいいや、と飛ばしてしまうのである。そんなことをやってるので、この本全体を俯瞰したときに、ところどころに島がぽつぽつ顔を出している程度で、あとは海の底。そんな感じである。 この本は内田樹さんが教鞭をとられている女子大での講義が元になっているそうである。女子大と一口でいっても、ずいぶんとレベルの高いことをやっているところもあるのだなと感心する。すくなくとも、ぼくがいた理系大学でこういう講義を開講していた先生はいなかった気がする。選択科目として受講できる一般教養には存在しなかった。専門分野の講義としてはあったかもしれないが、それはぼくにはわからない。 この本を全部が理解できない自分が情けない。人は何にもしなくても歳だけ取っていくが、それと賢くなることとは別だ。勉強しないでも何かの知見を得られるなどメッタに起きないのだ。 ではこの本の元になったような講義を今から受講すればいいのか。そうでもないだろう。学ぶのに適した年齢と方法があるはずで、単純に受講すればいいというものではない。まぁ仕方ない。しばらくして再度読んでみて、それでも理解できる範囲が限られていたら、自分のアホさ加減を嘆くとしよう。 |
言葉だけは聞いた事があるスペイン戦争、スペイン内戦。スペイン戦争についてどうしても知りたいと思って読んだわけではない。どちらかといえば無意識に近い状態で本書を購入し、読んでしまったのである。世界史でも日本史も近代史については無知(というか、歴史については無知なんだが)なので、ピカソのゲルニカで表現したものはこういう歴史背景があったのかなどと多くのことを知った。フランコ、ムッソリーニ、ヒットラーという人のやったことは、なるほど「こりゃひでぇや」とわかった。なんと歴史を知らなかったのかと、自分に呆れてしまった。 第二次世界大戦に関係することは旧日本軍の失敗とリンクしているようなことばかりなので、ある種の自虐感と絶望感を持って読むよりない。だから好きではない。山本七平さんの著作は勉強になるものばかりで多くのものを読んだのだが、日本軍についての考察も結構ある。それらを読めば読むほど日本軍ってろくな存在じゃないと確信するし、今の日本にも当てはまる事が多いと気づく。勉強になるが、読んでも楽しくない。暗い気分は御免なので、近代史については具体的な必要がないかぎりこれまで読まないできた。そういう人は結構いるだろう。 不思議なことに、知ったら知ったで興味がでてくるものである。楽しくはない内容だが、日本もダメだったがスペインもダメだったのだなという気分である。となると勉強してみようか。 古代ローマ史や古代文明について、ぼくはこれまで本を結構買って読んでいた。イラクやパキスタンなどの遺跡を訪ねるわけにも行かないから、想像で楽しむよりないが、それでも結構楽しい。 一方で近代史ならば観光地としてもメジャーなヨーロッパ都市を回るだけでなんとかなる。第二次世界大戦というのはヨーロッパも散々な目にあったのだとわかる。なるほど市民が直接関係しなかった国はアメリカくらいなものか。 自分は全く知らないと気づき、それに興味をもつ。これはよいことだ。なぜなら興味をもったことについて本を読むことで楽しめる時間を持てるから。勉強ではなく娯楽として楽しい。本の値段など食事や外出と較べれば断然安いから家計が助かる。今年の冬あたりは、第二次世界大戦前後の世界史についていろいろ学んでみたい。ヒットラー、ムッソリーニ、フランコ。あるいは蒋介石や毛沢東。名前と歴史的な評価くらいしか知らないものについて、それらがなぜ権力を持ち、世界史をどう動かしたのか。こんなことを考えてみよう。信頼できる面白い作家の本が見つかればいいけど、ちゃんとした本を上手に探す方法もあるだろう。よくできたマンガでもいいかもしれない。 そんな活動の入り口として良い本だった。前書きには「スペインへ行ったことがない」と著者が言っているで、大丈夫かと心配したが、入門書としては問題ない。 |
内容は、正直なところこれといって「新しい」というところはない。どころか、70年代の本なのだからむしろ古いようなところもあるだろう。ぼくは専門家でもマニアでもないので、これといって「この情報は間違っている」というところは見極められなかった。ただ、取材場所は2度の湾岸戦争の後の現在からみれば、危なくていけないところが増えたのだろうというものばかりで、あぁ行って見たなぁというため息ができることばかりであった。 こんな具合でこの本を読み、そして「未来への遺産」のDVDを見る。まったくもって、ぼくは一体いつを生きているのだろうかと思ってしまう。ちょうど自分の父親がそうしていたかもしれないのだよなぁと考えてしまう。題材が古代遺跡だから、数年、数十年経ったからといって何が変わるわけでもない。新しいとか古いとかあまり関係がない。ただ、昔の人の「工夫」に関心し、ぼくがその時代にいたらどうやっていただろうか、という想像を楽しむだけである。 |
ハプスブルグについて調べている。難しい本や事実の羅列だけの本はなかなか読み通せないので、入門書であり記述に一定の視点があるものを探している。 読む前にどうやってそういう内容の本を探すのか。ハプスブルグについてよく知っている友人はいないので、インターネットでの評判か、過去読んだ本のうち面白いと思ったものの巻末にある参考文献をみて探すよりない。アマゾンで「ハプスブルグ」で検索し、その評価をみて選んだ一冊としてこの本がある。 歴史書を書くには、人に着目する、時間順に出来事を書く、地政学的に成り行きを解釈するという方法が挙げられる。世界史に場合、地政学的な視点が欲しい。なぜそんなことが起きたのか。この疑問について最終的な回答の骨子は環境適応になるであろうとぼくは思っている。 ハプスブルグは歴史の一とピックにすぎなくとも、そんな構成は可能であろう。「それはなぜか、どのようにして実現されたのか。」こういった問いを感じない歴史の本は面白くない。同一のテーマを扱ったらでてくるであろう安直さはこの本にはない。しかし、テーマは同じだから仕方ないが、どの本でも書いてあるようなことばかり書いてあるような気がする。 読んでいるときに気をつけたことは、著者はどいうところに立って何を知りたがって、結局何を知り得たのか、である。ただ、この本ではそれが今一つはっきりしていない。その意味で実はあまり良い本とは思えなかった。NHKブックスには良い本が多いと思うが、最近の新書と同様に玉石混合になってきたのかもしれない。選書にもおいそれと手が出せない。NHKブックスだからということで購入したが、なかなか厳しい時代になったものである。 |
自分でもびっくりするくらい泣けしまった。10ページ毎に涙が溢れそうで、読むのを中断するしかなかった。何せ、読んでいるのは通勤電車の中だから、へんな乗客になってしまう。とはいえ、誰にも迷惑をかけていないのならば、べつのどうだっていいような気はする。 pya!というサイトでフラッシュの映画をみたことがある。明治草創期にトルコの船が日本近海で沈没し、それを周辺の人が総出で助け、生存者を軍艦でトルコまで送ったという事件。その後、この行為のお礼が湾岸戦争のときにイランから脱出し遅れた人に対しての突然トルコ政府からの支援という形で行われたというものである。人類の行為として、時間が経っても朽ちない感謝の連鎖というものにぼくは感動してしまうのである。 この話がこの本の冒頭にあった。その他にも杉浦千畝のビザのことがのっている。ナチに捕らえられる前に日本経由で国外へ脱出するためのビザを個人の判断で発行し続けたというものである。シンドラーのリストのようなもの。 この本のタイトルにある「世界」は文字通りの世界ではないかもしれないし、愛されているというわけでもないかもしれない。それでも、日本にも個人としてまともな判断ができる人々は結構いるなぁとあらためて感心する。それはどの国であっても同じだろうが、こういうことがきちんと報道されないし、また、教えられないからこそ、こういう本の役割は大きいだろうなと思う。ある種の司馬遼太郎が書く世界を外側から覗いたようなものだと思えばいいのかもしれない。 |
ここ一月ほど阿部謹也さんの本を何冊か読んだ。中世のヨーロッパについてぼくにとっては新しい発見がつづいた。そんなことはこれまでなーんにも勉強してこなかったので、読めば読んだだけ「へぇ」を発する連続だった。研究論文に近い本だと、難しい内容が多くなるせいでちょっと辛くなる。そしてこの本は研究論文的なものが束ねられているので読むのに時間がかかってしまった。そして、なんだかもう中世はいいかな、という気分になった。 本を読むこことで知識は増えるが、それが楽しみなのではない。知識ではなく、新しい視点が獲得が楽しいのだ。たとえば中世ヨーロッパの普通の人についていろいろな知識を得たが、そのなかで次の事実は、中世や過去の人々についていろいろなことが想像できるようになる。それは、中世の人がもっていた人体についての知識である。現代ならば人体の基本的な構造やメカニズムについて概略知っている。理科が大嫌いだった人でも、人体について「未知で恐れ多きもの」という感覚を持ってないだろう。人の骨格や内蔵について絵を見たことがあるだろうし、食べ物を消化してエネルギーを得ることや、呼吸について栄養分についてなど、断片的であったとしても「人体にはメカニズムがある」という考え方に違和感はないはずだ。 なるほど、言われて見ればそうだろう。ぼくはそんな発想をぼくはしたことがなった。ならば、当時の人の考えたこと(伝説なり、風習なり)について、その当時の感情的な根拠や必然性を全く理解できるはずはない。指揮者の概説を聴いてそんなもんかなと思うだけで、それは自分とは関係のないものでしかなった。自分の「当たり前だろう、それ」ということに気づかなければ、過去について知ったとしても意味がない。「当たり前だろう」と思っている知識や前提は、それがない状況での考え方や感じ方を想像することは難しい。だからだろう、大抵のの人は過去の人たちのことを「幼稚な」人たちのこととしか思ってない。 現時点の自分が当然のことだと思っていることを知らないとしたら、自分は何を考え何を感じるのだろうか。この気づき、それにつづく想像なくして過去を学ぶことは不毛である。 この本を読んだ成果は、中世世界を見る視点である。そして、その視点は中世ヨーロッパだけでなく、過去一般にも適用できるし、現在の外国や、自分とは違う感覚の人々の風習理解にも適用できるだろう。世界を想像するときにも見通しが効くようになるかもしれない。 |
賎民と呼ばれるひとたちがいる。中世ヨーロッパの歴史には記録にとどめられていないらしい。書き留める理由は価値があるからだろうから、マイナスの価値の人々が記載される可能性は低い。しかし、記録にないからといって、社会に影響を与えなかったわけでもないし、その影響が現在にまで波及していないということはない。いやむしろ、意識の水面下に追いやった人々の存在が、歴史的事件のような形ではなく、通奏低音として社会の方向を決めてきたかもしれない。 この本を読んだからといって、なにか高尚なことを知ることにはならないが、中世の「世の中」というものはなるほどそいうことなのかと知ることはできる。頭の片隅でもやもやしていることが晴れるかもしれない。中世はなぜ暗黒なのかだ。必ずしも魔女裁判が怖いのではない。恐怖がどういう形で人の生活に影響するかを知ることが出来るのだ。例えば学校でのいじめはいろいろと問題になるし、社会においても下流などという言葉が流行するくらい実質的に差別的な嫌悪は現在でもあるのだから、中世では無知からくる恐怖心のはけ口に賎民史された社会的立場が弱い人たちは、さぞかし損な暮らしぶりだったのだろう。そして、この本を読めば、実際そうだったとわかる。 この賎民を生み出す心理メカニズムは、中世特有なものではない。現代においても普通に発生しうることである。興味が蔑みに変化することなどよくある。この種のいじめはオトナの社会、たとえば会社内でも適用できるだろう。中世を学ぶことは、もう過ぎ去ってしまった社会についてを知ることでもあるが、表面的にな知識層の下にまで達すれば、今の社会でも十分適用可能な人についても学ぶことができるのである。そのような理解へと達する道筋は、テストで点取りを目標とした学校教育でも誰も教えてくれない。 |
ハーメルンの笛吹き男の童話は、おそらくはグリム童話で読んだのだと思うが、ハーメルンという街の名前と結びついている唯一の情報だ。普通の日本人ならばそうだろう。笛を吹いてネズミの大群を河に引き出して退治し、退治料を街から拒否された復習に街の子どもたちをねずみと同じ要領で笛を吹いて集めて集め、どこかへ引き連れて行ってしまうというお話。教訓とといえそうなものは、正直であれとか約束は守れとか、そういうたぐいのことしか思い浮かばない。もっとも、童話が必ずしも子供への教えから生まれたものではない。単に面白い話なだけかもしれないし、実話がもとネタとしてあるのかもしれない。この話を聞いたとき、笛を吹くだけで子供を集められるだろうかが気にかかった。でも娯楽がない時代ならばありえるのかもしれない。日本にだって戦後しばらくまではちんどん屋があったのだから、子供が歩く距離にもよるが、子供を集めて引き連れることは可能だったのかもしれない。まぁ、ぼくを含めてたいての人の感想はこんなところではないだろうか。 この本は読み物というよりも論文のような内容である。この本を読む人がまず惹きつけられるのは「子供は何処へ消えた」というミステリーの面白さだろう。著者の最初の動機もそうなはず。ただし、単なる謎解きではしつこく考えることはないだろう。その人の代表的な研究成果というものは、単なる興味が動機ではなく、研究者自身の存在を問うような問題であるはずだ。例えば、このハーメルンの問題について東ヨーロッパ移住説を唱えている人がいる。それらの研究成果のうち代表的なものを考察した人は研究者自身が東ヨーロッパ出身であり、その人がハーメルンから移住してきた人たちの子孫かもしれないと考えられる人だったりする。自分の問題だから、どういう結果になろうと考えてしまうのだろう。頭がいい人が調べ考えた結論よりも、自分の問題として探究した人の結果のほうが、魅力を感じてしまうことがあるようだ。 最後まで読んだ感想は、結論がない、である。ハーメルンの笛吹き男についての背景(社会、歴史、他の研究)についてはとてもよく調べられている。必要なものは原著や原資料を当たっているし、当時の世界についても、歴史的資料がほとんどない普通の人(農家、賎民)のものにいたるまで調べられている。ハーメルンだけでなく、ドイツ全体についても調査が行われている。しかし、それらを検討した結果、「で一体何なのさ?」にあたる結論がない。すくなくとも、ぼくはよみとれなかった。ぼくの期待したものは著者の説である。研究であるからには、なんらかの結論、著者オリジナルの結論がいると思うのだが、それがない。なんだか腑に落ちない。13世紀のしかも記録がないことについての「新説」などは、考えて見れば意味がないかもしれない。子どもたちは何処へいったのか、とか、実は嘘だったとか、そんな説を新たに生み出すことは意味がないということは理解できる。だからといって、著者なりの結論がないというのはどうも受け入れがたい。研究所とよりより、ハーメルンの伝説にまつわる歴史のようなものだとするよりない。そして、それは解説であって、研究ではないような気がする。 |
加藤雅彦さんの本を集中的に読んでみることにした。amazonで古本をかき集めてみた。まずは手軽な新書から。タイトルはライン河。『ドナウ河紀行』という新書もでているが、そちらを後にまわす。 |
ハプスブルグ家と音楽の歴史について知る必要があり、何かよい参考書はないかと探していて、アマゾンで検索結果からよさげなこの本が目にとまった。ワルツの歴史を主題にしているけれど、同時に世界史、とくに中欧について知ることができた。出版社の解説文には、「会議は踊る」や「美しき青いドナウ」というキーワードがあったから決めたのだけど、結果的にこの本はとてもよかった。。 この本を読んで思ったこと。 音楽について考えていくと社会の動きを知る必要がでてくるのだ。それは気取って言っているわけでも、頭がよさそうなことを言いたいわけでもなく、そうなってしまうのだ。音楽以外の社会の動きが音楽への要望に関係するから、結果的に世界史や技術史も視野に入れざるを得なくなる。結局、人の活動は人の活動全体に影響を受けているのだと悟のである。 |
塩野七生や司馬遼太郎のような作家の作品で、ヨーロッパの歴史を扱ったものが読みたい。そう思っていたら、佐藤賢一という人を知った。朝カルで受講していた茂木健一郎の講義の中で、この人の本を薦めていたのだ。なんでも直木賞を取った人らしいから世間では知られた人なのかと思っていたが、エンタメ系の作家ではないためか書店での扱いが少ない。当然ブックオフでも冊数が少ない。 |
茂木健一郎の講義で佐藤賢一の対談についての話があった。雑談のなかでのちょっとした一言に近かった。なんでも、佐藤賢一と対談したときに、フランス革命についての話を聞いたそうだ。そして、その中で歴史を小説として書く理由について教えてもらったと。 |
ハプスブルク。もう、さっぱり。学生時代から世界史は基本的に敬遠してきたので、ヨーロッパ史についてはピンと来ない。がために、オトナになってから自分で面白く読めた本の中で扱われた時代以外は、全くの闇の中なのだ。興味があれば自然と単語が頭にへばりつくし、関連する街の映像も心に残る。だから、女の人だとヨーロッパに旅行へ行く人が多い(と思っている)だろうから、この辺りの歴史についてはぼくよりよく知っているだろう。それに、ヨーロッパ王朝のきらびやかなイメージは、色々な機会で映像を目にするので、そういうものを通して親近感を持つ女性が多くてもおかしくない。ぼくにはそういう機会はない。 この本はいわゆる旅行記である。ハプスブルクの歴史において事件があったり、関係者の出身地だったりする、どちらかといえば田舎の場所を淡々と訪ねたときのエッセイである。ぼくはこの著者の訳でカフカを読んでいるので、文章そのものにも取っつきやすい。旅をするときの視点もぼくには親しみやすい。ただし、読んだからといってぼくの本来の目的を果たす事にはならなかった。オーストリア帝国というものが栄え、そして消えていき、突然に近いかたちで消えてしまったために帝国のあったところの人々も文化も、スパッと切り替えができないままずるずると現在に至る。そういう、土地なんだなということしか分からなかった。しかし、まぁ、ハプスブルクの最初の入門としてはこれでいいかな。 |
アラビアのロレンスって、一体なんなのだろうか? 昔、映画をちらっとみたことがあるが、対して面白いとは思わなかった。しかし、その映画は評判が高く、生誕100年でなにやらイベントが開催されることもあるらしい。 この本を購入したのは、サブタイトルに「アラブ・イスラエル紛争前夜をゆく」というものだったからで、中東問題の一エピソードのようなものを期待しからである。もちろん、著者の名を知っているし、たぶん内容におかしなところはないだろうということもあった。何れにせよ、ブックオフで100円だから、迷うくらいならば買ってしまう。 で、結論だけど、アラビアのロレンスというのは、実在した人だけど、映画で描かれたような活動はしてない、ということらしい。つまり、アラブ側について闘ったというような事実はなく、あれはアメリカ人の何とかいう人がロレンスの話を手がかりに作ったおとぎ話なんだそうだ。それを大々的に持ち上げて生誕100周年なんてのをやっているところが、西洋人のというか普通の人の実におっちょこちょいなところだと思う。 英雄って欲しいんですよね、だれしも。アラブ側について闘った金髪碧眼の若者ってきいただけでエキゾチックな感じがします。夢がかってに膨らんでしまう。それに、ヨーロッパ側を打ち負かしたような戦術はアラブ人にはできるはずはなく、背後にヨーロッパ人がいるはずだという気分もあったのだと思う。その2つがミックスされ、現実とはかけ離れた「ローレンス像」ができたということだ。実に分かりやすい結論で、歴史家ってのはたまにはそういうことも言わないといけない。 アラビアのローレンス像は、当然日本の女学生にも人気があるそうで、この著者の大学の学生には、「卒論にはアラビアのローレンスにアタックしたい」という希望をもってやって来る人がいるのだということです。目的意識をもってやって来る学生というのは、本当にメッタにお会いできないので、そういう人がいる学校があると聞いてちょっとほっとした気分になりますが、と同時に、アラビアのローレンスを卒論のテーマにするって、一体どいう卒論なんだろうかという気分もしてきます。まったく、文科系おそるべし。 |
5年くらい前に一度読んだ本である。今回、ロードス島で開催される学会に参加するために、この本を携えていった。行きの飛行機で読む時間はなかったので、現地のホテルでぱらぱらと読んでいた。 学会も終わり、半日ほど自由行動をする時間がとれた。ならばこの本をその現場で読もうと、ロードスシティーの城壁内へ足を伸ばした。金曜日の午後。騎士団長の館は3時でしまるのだが、その30分前くらいに滑り込むことができた。広い中庭の橋にある日陰に座り、ペットボトルの水を飲みながらこの本を読んでいた。時間がないから仕方なくの行動だったのだが、いざやってみるとこんな贅沢はなかなかできるものではないものだ。その後、小説のシーンが進むたびにその現場まで歩いていき、そこでその部分を読むという行動を繰り返していた。人生、こういう経験はなかなかできんだろうと思いながら。 この本もどこかの修道院にあった古文書を参考した物語なのだろうと思うが、眼前の風景をもとに想像力を働かせながらの体験にはちょうどよいと思う。ある意味、これはツアーになりえるかもしれない、などと思ったのだ。 |
マリー・アントワネットといえば「パンがなければ、ケーキを食べればいいのに」というセリフ。あとは、断頭台の露と消えたという事実くらい。周辺の歴史などについては、実は知らない。市民革命前夜の世界だから、世界史で勉強したことになっているのかもしれないが、そもそもろくに授業を聞いていなかったので、妙な単語や人名「ロペス・ピエール」というようなものを覚えている。が、それらはストーリーをなさないという人は、実は多いのだろう。 そう思っていたら、実はちがう。年齢層によるのだろうけど、「オスカルさまぁ」というセリフとともに、少女マンガ風の人を知っている人は結構いて、よく読んでいたらしい。ベルばらである。私は、ちっとも興味はなかった。キャンディ・キャンディーならば読んだのだけど・・・。 急な新年会の出し物で寸劇をすることになり、ちょっとしたベルばらだった(ズラをかぶったりして・・)。で、さすがに状況をしらないと知ったかぶりがバレると思っていたところ、本箱にあったのをみつけた。「ののちゃん」の藤原ひとみではなく、藤本ひとみが著者だった。嫁さんいわく、「塩野七生を目指したようなところがあるが、でも、めちゃくちゃ軽いからすぐ読めるよ」ということだった。なるほど。新年会の前夜、寝る前に読んだが少し夜更かししたが読めた。週刊誌や新聞向きのレベルの解説だと思えば良い。もうちょっと、読者を楽しませようといているが、いかんせん、底が浅い。調べたのかもしれないけど、どうにもならない「軽い」文章であって、すごみがまったくない。よく言えば、府連ドーリーだ。「じゃ、またね」と言いたくなるような気分がした。 取りあえず用をなしたので助かった。しかし、別の本を買って読みたいかといえば、そのつもりはない。 |
イタリアの歴史の物語といえば塩野七生さんの一連の著書が有名で、それ以外は教科書か研究所だからつまらんものばかりだったのだけど、この本の「物語」はかなり面白く読めた。なぜだろう。ハドリアヌスからカラバッジョまでと扱うタイムスケールが長いのでそもそも出来事の記述になりようがない。となると、ときどきにスポットをあてた人について語るよりない。 古代ローマについては塩野さんの作品が頭にある。キリスト教が影響力を強めていく時代にキーになったのは「アンブロシウス」ということで、コンスタンティヌスのあたりにの記述を覚えている。この本hで、それよりもう少し後の「グレゴリウス」に光を当てている。なるほど、キリスト教のターニングポイントの一つを仕掛けた人なのだとわかる。 さて、どうしてこの本が面白いのだろうか、ともう一度考えてみた。特定の自分物にスポットを当てるという方式の記述は過去にもあっただろうけど、この本は少し違う。読んでいてわかったのは、視点の問題だ。 現在から過去の人物の行動を記述しているのだから、その自分が判断を行うときその結果を私たちは知っている。それが良かったのか悪かったのか、そのとき他の場所では何が起きていたのか。歴史が好きな人はそれを知っているし、それを説明したがる。 しかし、それは物語にならない。その登場人物がどういう状態にいて、何を知っていて、どういうことをしたかったのか。読者がその人の視点を共有できるように記述されていれば、読者も一緒にワクワクできる。しかも、その登場人物を仲間のように師匠ののように感じることができる。おそらくは、面白い物語になるかならないかは、それに係っているのだろう。そう思って塩野七生さんの本をみると、ちゃんとそういう視点で書かれていることに気付く。 |
この本も『街場の中国論』と同様、大学での演習を一冊にしたものである。大学では結構面白いことをしているのだなぁと感心する。講義は学校名ではなく教授名できめたほうがいい。 アメリカ論に入る前に、歴史についての講義がある。アメリカ論自体よりも、この歴史を学ぶときのアドバイスのほうがずっと面白かった。
基本定理の前に、単語と数値を覚えるようなもの。いろいろなところでいろいろなことが起きるが、それらが互いにどういう位置づけになっているのかをまず知る必要がある。
年号以外にももっと考えることがある。
まるほど。前半部分はこのような歴史についての講義があって、後半のアメリカ論よりも私は気に入りました。しかし、こういうことを幼い人に話しても理解してくれるかどうかはわからないので、そのまま歴史の授業で語っても効果がどのくらいあるのかは不明です。 |
大学のゼミ?での講義演習内容をテーマの背景説明とコメントを一冊にまとめた本である。実際、大学生たちがどのような発表をしたのかはわからないが、テーマそのものについての解説はわかりやすい。この本では中国を扱っているが、著者も演習参加者にも中国を専門とする人はいないので、それぞれの「’常識」に照しての中国論になっているのが、市井の私にもとっつきやすい原因であろう。 内容は、中国の現代史と現代での自治トピックである。文化大革命は国共合作という、言葉だけはきいたことがあるが、それが何を意味するのはよくよくしらべたことがない私にはうってつけのものだった。なるほどと。 ただし、中国そのものには、ユニクロなどの製造業社やこれらのエネルギーや食料輸入大国としてのポテンシャルということにしか興味がなく、それらも「どうしようもないんだろう」なぁ、程度の理解したもっていない。だから、この本以上に突っ込んで調べてみようとはいまのところなっていない。 著者は「思い白い本になった」と言っているが、私にはピンとこない。結局、中国に興味をもっていないし、興味もわかなかったということだろう。 |
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ツヴァイク ヨーロッパから南アメリカをまわりマゼラン海峡を経て太平洋を渡り、フィリッピン、アフリカ、そしてヨーロッパへ至る世界一周に初めて成功した人の物語。 マゼラン海峡、マゼラン星雲という名前は子供の頃から知っているが、マゼランについての伝記は読んだことがない。なんでもそうだが、世界初のことをするのは「死ぬほど」大変なのだろう。そう、漠然と考えている人ならば、この本を読んでみる価値はある。英雄を仕立て上げる冒険活劇がそこにあるわけではないが、普通の人を率いて「抽象的」にしか説明できない偉業を成し遂げるための一例が見て取れる。目的に対してどのような技術、知識、行動パターンを身に付けるべきか、どのように機会を待つべきか。どうやって一緒に行く人を束ねていくか。とはいえ、読んだところでとてもマネできないのではあるのだが。 ツヴァイクの記述は一人称なので、ドキュメンタリーのナレーションのような物だと思えばよい。解説ではあるのだが、ある出来事の原因(過去)と結果(未来)とを繋ぎ合わせてくれるヒントをくれるので、推理小説のような快感はないかもしれないが、どの時点でもナルホドと思わせてくれる。主人公の視点から離れ、その時点での世界情勢の歴史における意味を教えてくれる方法が上手である。言ってみれば、塩野七生のローマ人のような感じである。いや、実際はその逆ですが。 読むだけならば30分程度の苦労の連続だが、想像すれば長い期間の我慢の末マゼラン海峡を発見し、そこを通過する。そして、太平洋へ出る。生き残った人の手記が元になっているとはいえ、ツヴァイクの想像力には頭が下がる。素直に海峡が浮かぶ。パタゴニアの風景などろくに見たことがないのに、感動的な情景が浮かんでくる。 世界についての新しい知識がざくざく集まってくる時代、その冒険の最前線にたつのは面白いだろう。けれど、実際は飢餓や死と隣り合わせ。人の感覚に対して両極端な世界はゆっくりと生きていくのになれてしまった人には本での物語として読むほうが楽しいでしょう。 もう一人のアメリゴについては短い歴史的勘違いの説明。アメリカ大陸はコロンブスが発見した。おそらく誰でも知っている。しかし、アメリカ大陸のアメリカは「アメリゴ・ベスプッチ」に由来しているということを知っている人もいるだろう。ではなぜ、「アメリカ」であって「コロンビア」でないのか。アメリゴ・ベスプッチはたった30ページ程度の新大陸の話を書いた作者である。冒険なんてしていない。その理由は、いろいろな勘違いと偶然が重なって「新世界=アメリゴ」ということになってしまった。当時の本の編集とその売れ行きが、アメリゴが紹介してくれた新大陸、という考えを世の中に広めてしまった。当時だから、訂正なんてできない。その、一風変わった歴史について短く解説してくれている。
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