ケルトを巡る旅
人の住む地方地方には神話というものがある。 ケルトといえばドルイド教じゃないか。 ケルトの神話って、森の中でひっそりと生き残っているのかもしれない。 河合隼雄さんが旅してみると、文字を持たなかったドルイド教は消滅してしまっていたということだった。 ちなみにドルイド教については、「たぶんこうだっただろう」という推定しかない。 儀式に参加する人は、当然だが、それでいいと思ってやっている。 儀式は切断されたものだから、元の形ではないけれど。 |
人の住む地方地方には神話というものがある。 ケルトといえばドルイド教じゃないか。 ケルトの神話って、森の中でひっそりと生き残っているのかもしれない。 河合隼雄さんが旅してみると、文字を持たなかったドルイド教は消滅してしまっていたということだった。 ちなみにドルイド教については、「たぶんこうだっただろう」という推定しかない。 儀式に参加する人は、当然だが、それでいいと思ってやっている。 儀式は切断されたものだから、元の形ではないけれど。 |
風土記という言葉に魅かれた。その地方の地理、歴史、特産物、人々の性格について、あれこれ書かれた本なのだろうと想像した。著者は井沢元彦さんなので、『街道をゆく』とは違った切り口の考察や発見があるだろうと期待していた。 500ページを越える量で、一応日本全部について語っている。旅雑誌に数年に渡り連載されたものをまとめた本だから、読み切りを束ねて結果的にこのボリュームになったようだが、電車で読むには本が重くてかわない。 ページ数に比例した読みがいがあるのだろうかと問われると、必ずしもイエスとは言えない。というのは、地方すべてを網羅してはいるが、内容の濃さは明らかにまちまちで、どの地方に興味があるかで読みごたえが変わるから。 どの地方もそれなりに歴史はあるのだが、日本史のイベント、それもよく知られたものを中心に語れば、面白い地域、そうでもない地域とがでてくるのは当然である。その場合、地理や特産物などでカバーすればよいのだが、いかんせん著者は日本通史どっぷりの人だからから、日本史を話題したときのようにはいかないようで、重複なども結構見受けらる。そんなことから、結果的にはもうひとつの本になっている。なんだかな。 日本の通史を書くためにいろいろ勉強すると、派生的なものがいろいろでてくるのは確かだ。こうやって、人は物知りになっていくのだろう。 |
旅の思い出を数ページの短編でまとめてある読み物なので、たぶん雑誌などの連載だったものだろう。単行本なので挿し絵が入っており、それがなんとも味のある線画で、ちょっとレトロな趣がある。寝る前の静かな時間、紅茶をすすりながら読み進めると「今」の束縛をすっかり忘れてしまう。 それぞれの話は、以前どこかで読んだことがあるものがいくつかある。ぼくは森本哲郎さんの出版されている本ならば3/4は読破したはず。これはバクダットのホテルの話だとか、ヘッセの通った学校のエッセイを読んだことがあるとか、そういう過去のことも思い浮かんできて、なんとも楽しい。 旅の思い出話は、聞いている人よりもしている人の方が楽しいはずだ。締切りのある原稿を書くことは著者にとって「仕事」なのかもしれないが、書いているときは思い出を語っているに違いなく、思い出しながら楽しんでいるはず。現在のようなお気楽パック旅行が当たり前ではなかった時代、昔はさぞかし大変だったのだろうけど、旅に伴う大変さや不愉快さなどは過ぎてしまえば楽しかった思い出でしかないので、読者には辛さが微塵も伝わってこない。文中たまにイライラして怒ったというような記述があるが、それはそのあとにつづく面白い出来事の前振りでしかない。読んでいる方としては、結局旅っていいなと思うだけである。 全く単純な思いだが、ぼくも森本哲郎さんのように旅をしたい。いや、したかった。そうするためにはいろんな偶然が必要になるとわかっている。一つ前に読んだ本で森本哲郎さんの生立ちについて知ったけれど、旅を楽しむために必要な「支払い」を前半の人生でしてきたんだとしった。じゃぁ、ぼくはできたかどうか。戦前の教育だし、赤紙で徴兵されたりと、未来がどうなるかわからないで僕は生きられたのかはわかない。そう思うと、結局はこの本をベッドで読み「あぁ、ぼくもこんな旅をしたいなぁ」と思いながら寝てしまうという生活がぼくにはあっているかもしれない。 友達や家族から旅行の話を聞いたところで、ちっとも楽しくないものだが、どうして森本哲郎さんの旅行記は面白いのだろうか。それは、起きた事をどう理解しているかによるし、不愉快なももの扱い方にあるし、楽しかったことの表現方法にあるだろう。「楽しかった、ビックリしちゃった」という言葉をいくら繋げても相手にその思いは通じない。疑問と回答の連鎖、そして、ある種の運命的な(オーバーだが)偶然をどう放り込み、そして、お話としてどうやって伏線をカバーし、最後に落ちを付けるか。結局、面白い旅行記というのは、思い白い話になっているはずで、森本哲郎さんならば旅行記でなくても面白く物語れる技術をもっているのだろう。 自分の体験を種にして、いかに面白く物語ればいいのか。旅行に行った時は、どういう行動をとれば楽しいことにぶち当たるのか。そんなことのヒントにしてみようと思いながらしみじみと読んでしまった。 |
2005年に刊行された森本哲郎さんの旅行みやげ物の図鑑。いろんなものがあるが、それはみな実用品ではなく観賞品である。写真つきでそれらを購入したときの思い出がエッセイで綴られている。エッセイであっても、かならず文明論とリンクしているところが森本哲郎さんの本なのである。おみやげものを前に文明を思索できるなんて、なんて幸せな能力なのだろう。うらやましく思いながら読んでいると至福の時間を過ごせる。世の中にあまたいる哲学者や文明批評家は机上の空論の世界の人であるが、森本哲郎さんは文字通り世界中を歩いた人であり、だからこそ書き得るエッセイなのだ。この本の出版は森本哲郎が80歳のときのものである。ぼくが昨日まで読んでいた1970年代の文章ととくに変わったところはない。年齢というものが文章に存在していない。森本哲郎さんの思索があるだけ。年齢不詳になれるのが、文章を書くことの素晴らしさの一つなんだと納得する。 数カ国でいいならば普通の人は旅行したことがあるだろう。ぼくもある。しかしお土産というものをあまり買わないできた。逆に、実用品ではないものを買ってしまう人を「旅慣れていない」と見下してしまうところがあった。だから手元にはデジカメで撮影した画像ファイルがたくさんあるだけ。手で触れることができるおみやげ物は数少ない。これがスマートな旅行なのだと思っていたが、実は間違っていたようだと気がついた。なぜなら、旅のことを思い出すには、いちいちパソコンを立ち上げる必要があるからだ。それがおっくうになったり、ファイルがどこかへ消えてしまったりすると旅の記憶が風化してしまう。いくつか手元に物体が残っていたら、そんなことにはならないだろう。 初めて海外旅行に行ったときは無分別にいろいろとおみやげを購入した。置物が多かった。自宅に戻ると置き場所にこまった。陳列棚などを用意できないし。かさばるだけで面倒なものだ、これは無駄遣いだったのだと反省し、それ以後あまり買わなくなった。しかし、この本を読んで見ると、この分別がぼくの人生を実につまらないものにしてくれたようだ。ちょっと値段がはっても、品質が良くなくても、おみやげものを買うときに躊躇してはいけない。品質などおみやげものの「機能」とは関係がないからだ。 この本を眺めていたら、ここ15年くらいの旅でほとんどみやげを買っていないことに気づき、ひどく後悔した。なんで土産を買わなかったのだろうか!! 他人に「なんでそんなもの買うの?」と言われても、全部無視しなければならない。どこへ置こうか、などと考える必要はない。置くところは工夫すれば必ずある。しかし記憶は失ったらどうにもならない。みやげものがあれば(それはなんでもいい)記憶どんどんたぐり寄せることができる。そして、それこそが本当の人生の資産なのだ。みやげものを買わないほうが一見旅慣れたスマートな振るまいに思えるが、自分の記憶を過信しすぎた愚かな行いだったと後々後悔することになるだろう。食べ物は消えてしまうが、使い道がないおみやげものでも「これはいい」と思ったものを苦労して手に入れること。これが旅を自分の人生の資産にするコツだと言えるのだろう。 ぼくの手元にはソクラテスのミニチュア胸像がある。アテネに行ったときに小ぶりのものを購入したのだ。普段ならば買うことはなかったはずだが、森本哲郎さんの何かの文章で、書斎の机にはアテネで買ったソクラテスの石像の土産が置いてある、というもの読み、いいなぁと思ってマネしたのだ。アテネに一泊だけしたとき何はさておきソクラテス像を探して回って買い求めた。 なんだか旅にでたくなった。土産物屋を漁って見たくなった。よし、今年も旅行に行こう。そして、じっくりと土産物を見て回ることにしよう。アテネとイタリア、そして南フランスあたりがいい。各都市に2日くらいずついて、うろうろし、土産を漁る。ワクワクしてきた。こういう気分にさせてくれるから森本哲郎さんの本は大好きなのである。 |
気がつくと森本哲郎の本を読んでいる。それも古い本。古びた本だとブックオフには並ばないので、神田にある古本屋のワゴンセールス品の中から見つけてくるか、アマゾンマーケットプレースかで手に入れる。偶然に出会うとその日は一日ニコニコできる。 この本の内容は旅での思索である。巡る場所は有名な観光地のときもあるし、60年代、70年代ではおいそれとはいけなかったような中東やアフリカの街のこともある。今ではマラケシュやカサブランカといった場所は森本哲郎さんの読者であるぼくには気がしれた場所になっている。フランス語ができないから、実際行ったらひどい目にあうだろうけど。それでもダマスカスの宿や砂漠を走るバスのなかで風景を見ながらぼんやりと考える、なんてことはいつかはやって見たいのだ。森本哲郎さんのように、そんな場所で歴史であり哲学や文明論をずっと思索してみたい。 何かを考えるには、それなりのきっかけが必要である。妄想にだって必要だろう。森本哲郎さんの旅は、そのきっかけを見つけるための行為といえるかもしれない。文献では気づけない「その土地の人の生活」のなかにあるものを求めているのかもしれない。旅先では感受性の感度はギリギリまで高まるだろうし、世界史も世界文学も頭の中にあり、英語とフランス語が日常会話レベルで話すことができれば現地で弾き出せる情報量は普通の人の観光旅行よりも遥かに多いだろう。なにせ、現地の人と話せるのだから。 旅の思い出を綴るのは、自宅の書斎であろう。緊張感などはもう記憶の中であり、感じることは難しいはずだ。それなのに、この本での思索はその場所でなされているような気がするから不思議なのだ。思索についても、書斎で膨らませて図書館で資料を確認したりしているのはと想像する。だから、実際の旅以上に実りの多い旅行記になっているのであろう。こんな旅をして見たい。ハラハラどきどきや冒険などは他の人に任せておき、ぼくは思索の旅をして見たいものだと未来に思いをはせるのである。 |
古代遺跡に興味がある。とくに、中東やヨーロッパのものは大好きで、それらに訪れてそこで時間を過ごし、何かを考えるというのがぼくの人生の後半の楽しみでもある。まぁ実際のところ相当難しいだろうけれど。 恩田陸さんの文章は読みやすい。ならば紀行文も読みやすいだろう。確かにそうだったが、一方で期待外れなところもあった。というのは、思索がないことだ。それに、なんだかよくわからないような箇所が多数あり、想像のしようがないものがあった。あの場所へ行って、この場所へ行った。そういう記述ならば、むしろ無い方がいい。そんなことよりも、旅の途中のフッとしたことを語ってくれたほうがいいのではないかと思ったりした。 この本を読んで良かったことは、本文中にNHKの『未来への遺産』について言及してくれたところと、森本哲郎の愛読者だったことを教えてくれたところだ。ぼくも大の森本哲郎さんのファンである。その紀行文を読むのが大好きなのだが、なんと恩田陸さんもそうだったとは。なんともうれしい。それとNHKのDVDは早速アマゾンで購入して見たのが、本の中で説明しているように確かに素晴らしいできの番組である。 |
日本美術について知りたい気がする。あくまでも、気がするという程度のことであって、めらめらと意欲が湧いているようなことはない。知っててもいいかな。そう感じている。正確に言えば、この本を見たときにそう思った。だから衝動買いしたのだ。 |
これまでの旅先の写真に文章を添えた旅の記録。ただし、どこどこへ行ったという事実が主題ではなく、また、本人しか味わえない感傷がつづられているのでもなく、読んでいる自分がその場所で目、思索しているような気分にさせてくれる森本本の良さが残っている。結構な冊数の森本本を読んできたせいで、この本に掲載された写真と同時期に取られた別の写真が思い浮かぶ。これは、あの本から取ってきたのか、これはあの旅先のあのガイドなのかな。冊数をこなすと既に読んだ別の本との関係が頭の中に起きていて、単にこの本を一冊読んだ以上に味わい深いものを感じてしまう。これが一人の著者の本を読破していく楽しさでもある。 それにしても、掲載されている写真は上手だ。被写界深度が浅いものばかりだが、よく撮れたなぁこれと、撮影時の様子を想像してみて俺では無理だなと、少し悔しい気がする。誰かに教わったのだろうか。 |
『ぼくの旅の手帖』『四季の旅』『音楽への旅』の三冊が1冊になっている。これは全集のようなものを意図したシリーズのようで、こういうシリーズがあることをぼくは知らなかった。3冊買うよりも安いだろう。マーケットプレースでは送料がネックになるから1冊になっていると助かる。ただし、文庫本や全集だと表紙や口絵や扉、挿し絵のようなものがないというデメリットがある。森本哲郎の本はその写真も味わいがあるので、できるならば全集は避けたほうがいいかもしれない。まぁ、これは本棚や購入可能な本があるかどうかの問題であろう。 音楽への旅は、音楽を主題とした旅の思い出である。音楽を言葉で語るのは無理である。だから、結果的に森本エッセイのいいところが出せずじまいで終わっているなという気がした。また、四季の旅は日本が主題になっているため、ぼくが森本エッセイに求めるとは微妙にちがっている。結局、3作のなかでは僕の旅の手帖が気に入ったものだった。 パリのカフェに席をとり、往来の人を眺める。何かを探すでもなく、歴史や芸術に思いをはせるわけでもない。どういうわけか、ぼーっとしてしまう。何をするわけでもなく眺めた風景や聞こえた往来の音は、緊張しながら記憶に刻もうとしたものよりも「より心に」残るそうである。無防備で心を街にさらしていることが理由かもしれない。 パリのカフェの話から、イタリヤ、ギリシャ、イラク、アフリカ、中米、アメリカと世界中旅した場所での思いでが語られる。読んでいるとその場の風景などが思い浮かぶ。しかし、この読んでいる行為そのものは、パリのカフェでぼーっとしているとき森本の心に浮かんでいるものなのかもしれない。そういうモノを無意識に楽しむ。いわゆる夢。 |
世界の名作を読み、その場所へ行ってみる。世界名作の旅という新聞日曜版の記事をまとめ一冊にした本である。 動機は単純なものだ。今ならばテレビ番組でいくらでも見ることができるような企画である。しかし、この本の企画が組まれた時代は1960年台。海外旅行など普通の人が行くには大変だった時代であろう。だから、普通の人には珍しい事柄を森本哲郎の記事をもとに想像する。舞台のだいたいの設定は世界の名差になっているお話である。 なんだ、じゃぁテレビで見たことあるようなところだし、知識も少しあるし、旅行で立ち寄ったことがある。読まなくていいか、と思ってはいけない。森本哲郎が行った時代と比べて、情報という切り口でこの本を評価したら、確かに当時よりも見劣りするかもしれない。しかし、いくらアイドルやアナウンサーや芸能人が名作の場所にいって建物や人の世界を紹介したところで、この森本哲郎の本には遠く及ばないものがある。それが、思索。おそらく誰もマネできない。 名作を読み、その場所に行ってみる。そこで見たもの体験したことをエッセイとしてまとめる。実に単純な企画である。しかし、魅かれる。本当に魅かれる。このエッセイを読んでいると、自分も森本哲郎と同じ視点に立てる気がする。そして、同じように考えるような気がする。ソファーでゆったり座り読んでいると、自分が体験したようなきになるエッセイなのだ。 いつか行って見たい。あるいは、紹介された本を読んで見たい。ぼくも、そんな旅行ができるのではないかと勘違いして、実際やってみるとビックリするくらい、思索なんかする余裕がないことに気付く。よっぱり、この本は読んでいるほうがいいや。 |
どれでも一冊100円と表示がある段ボールが道端にだしてあった。覗くとわりとよい本が入っていた。司馬遼太郎のものが何冊かあり、ぼくのお気に入りもあった。持っている本を買ってもしかたないなぁと思っていたところ、この本が目に付いた。ちょっと前に恩田陸のエッセイを読んだのだが、イギリス旅行中に読んだのはこの本だけだったということだ。そういう記憶が頭によぎった。ぱらぱらとめくれば、ロンドンやリバプールのことがそれなりに書いてある。これは買いだなと思って、店の人に2百円払った。神保町にも安い本は結構でているのだが、100円まで値段を下げたものにはあまりよい本はない。ブックオフじゃないから、そういう商売ではないのだ。このあたりの本屋さんも結構なりふりかまっていられなくなったのかな、などとと思った。 エッセイだ。読んでいて心地よい。上手だというものをこえて、日本語を読む喜びというものを感じる。そういえばときたま「いい日本語が読みたいな」と思うことがあり、そういうときは結局司馬遼太郎を読んでいる。もはやストーリがどうのこうのいう問題ではない。好きな音楽は繰り返し聞いても楽しい。ぼくにとって良い日本語を読むのは、その感覚に近い。好きな絵を見るも音楽を聴くのもエッセイを読むのも、結局同じような快感を求めているのだろう。 話をこのエッセイに戻す。イギリスには3ヶ月滞在した経験があり、週末必ずロンドンへ通っていた。だから街の風景や空気について、少しは知っている。そして、好きな街である。司馬遼太郎がどんな感じを持ったのか、その辺りを読むは面白い。へぇそうなんだ、という気分にもなるので楽しい。もちろん、バックボーンとなる知識があるから楽しめる話もあり、そういうものをぼくはこういう本を読んで知る。次にロンドンへ行った時楽しめるように。 リバプールの話のところで、ビートルズに触れている。司馬遼太郎はビートルズについて日本で調べる段階で何をしたのかというと、文献をたくさん読んでいるだけで済ましている。音楽は聴かないということだ。音楽で世界に名をはせた人たちについて知るのに音楽を一切聞かないという方法もありえる、ということだ。そのなかでビートルズのメンバのメンタリティーついて語っている。彼らのあるインタビューだ。 『ビートルズ』に、アメリカ公演したときの記者会見の一問一答が掲げられている。そのなかで、記者が、コドモのようなこの連中に愚弄されているのである。たとえば、記者が、「ベートーヴェンをどう思う?」ときく。ばかな質問である。 四人のなかのリンゴ・スターが答える。かれも、アイルランド系である。「いいね」と大きくうなづき「とくにかれの詩がね」。 久々に大笑いしてしまった。なるほどビートルズについて音楽から攻めないと、こういう方法で彼らの人を知ることになるのか。なるほど。 |
旅がしたくなる。砂漠とか古代遺跡とか。そういうところを歩き回る。暑くて外にでれないときは昼寝をし、寒くてくらい場所では凍えないがら風景をみる。その場所にあるものを見ながら、世界史や文学について学んだことを思い出す。あぁ、それはここだったのか。 なんてことはない、街道をゆく、みたいなものである。日本史に興味があるならばそれもいい。読むことがおいしい飲み物を飲むかのような気分になれる司馬遼太郎の文章もよいだろう。 しかし、ぼくは砂漠や遺跡のほうに興味を持ち続けている。だから、森本哲郎の方が断然好きである。砂漠の場面では風紋が海岸では波の音が聞こえてくる。自宅でねっ転がっているのに、古代遺跡を前に佇んでいる気分になれる。アクロポリスやモヘンジョ=ダロにいるような気分になれる。今ではレバノンやイラクには行けないから、想像の中で楽しむよりない。 この本で訪れる場所は、サハラ、クノッソス、インダス、ペルセポリス、ピラミッド、イースター、クメールというキーワードでかたれる場所。「謎」というテーマのテレビ番組で放送されつくしている感があるので、今どきの人は「もういいよ」というのかもしれない。実際、激しく観光地化されているだろうし。だから、実際行ったところで楽しくないだろう。 しかし、森本哲郎が訪れているのは60年代、70年代、そして80年代。いまみたいにディスティネーションツーリズムが儲かるビジネスとしてはさほど認識されていなかった時代。だから、廃虚が廃虚なりにわびしい感がただよっている。そういうものを読むのが、なんともわびしい気分になれて、つい読んてしまう。 読んでいて楽しいけれど、一方で勉強しなくっちゃとも思う。今から勉強してもなぁと思っているくらいだったら勉強したほうがいいや。世界史や世界文学を知らなすぎるのだ、だいたいぼくは。そういう蓄積があるから、旅をしても楽しいんだろうな。 ただ、そういう旅は頭の中の旅になってしまうような気がする。現物をみいるのに、頭の中の知識を参照してばかりになってしまうかも。そういうときはどうするか。 現地の普通の人がいく食堂で飯を食うことだ。現実にそこで「接地」することになるから。 まだ、森本節郎の本で読んでいないものはある。そういうものを古本でちまちま探していく。今はネットがるから簡単に入手できるし。 |
旅のフォトエッセイ。新たに旅をした、というのではなくそもそも著者はいろんなところを旅しているので、過去の旅から「道」に関する思い出と写真とから構成された本である。なので、森本哲郎さんの他の本を読んでいると、あの時の写真だろうな、などと察することができる。さすがに印象深い写真は同じものが多いけれど、とくに「再編集」感がただようことはなかった。 写真はプロの方がとったものと著者がとったものとあるのだろう。結構被写界深度が浅いものがある。コンパクトカメラではなく一眼レフでとっているのだろうか。よく見ると、すごい画角だったりする。こういうものはプロの人がとったんだろうな、などと想像する。自分でも興味がてら写真をとりはじめると、「上手だなぁ」「なるほど、こうやるのか」「どういうレンズなんだろうか」などと違う視点を持てるものである。以前のぼくならば、単にエッセイの方ばかり目がいってしまうだろうけど、写真もエッセイも同時に楽しめた。 ただし、なんだかちょっと物足りない。おそらく、雑誌かなにかの連載だったのだろう、エッセイ分は導入と本論とがどうにも物足りないものがおおい。ぼくが著者の他の本を結構読んでいるせいだと思うが、エッセイが説明的するぎる気がする。週末の夜にお酒でも飲みながらゆっくり観賞しようかと思っていたが、そこまで不快感じを味わうことはできなったのがちょっと残念だ。 |
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入江敦彦 「イケズの構造」の著者はイギリスに住んでいるということだったが、その人が書いたエッセイを見つけた。入江さんは頭がよくて、醒めた視点をみっているなので、これまでの「イギリスよいしょ」のエッセイとは違った情報がはいるだろう。そう思ったのだ。 内容は「イギリスの生活」におけるイギリスの核のようなものを紹介してから、入江さんの興味あることを「細々」と教えてくれている。まぁ、店だの植物園だの映画だの演劇だの、よく研究しているなぁという感想をもつ。私の普段の生活においても、これだけ説明したくなるようなものは持っていないので、「オレの人生って、貧弱なんですかねぇ。結構楽しい毎日だけどな」と思ってしまいます。紹介が細かいし、普通のガイド本の著者さんいよりも審美眼が信頼できるので、この本はイギリスに持っていこうと思いました。 |
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三澤春彦 ロンドンでの生活経験者からロンドン旅行者・生活者へ送るちょっとした知識、TIPS集のようです。内容は良いも悪いも無く、「へぇー」という雑誌とは違う感じの話題が中心で、病院なども紹介されていますので、読んで損はないです。こういう本では情報よりも「語り口」が大切で、この本は合格ですね。ただし、これを読んだとしても、イギリスで生活するための情報源としてはいろいろ心配は残りますが。 |
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内田百けん 「鉄」のエッセイである。第一阿房列車が良かったので、続編として読んでみた。実に不思議なエッセイである。内容があるわけはない。人の機微を知ることもない。鉄のおっさんと、その鞄持ちの車中記でしかない。内容は「鉄道」そのもの記述は少ないのがおかしい。結局、登場人物のキャラクターやそれに見合った行動を面白く書いているだけである。 文士という言葉が幅を利かせていた時代である。その時代でも、読んでいるときに楽しめる「音楽」のような読み物があったのだなぁ、と感心する。文章そのものは、さすがに悪くない。漱石の弟子ですから。 |
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村上春樹 別段外国語論が展開されているわけでもないです。外国で生活するなかで書いたエッセイ。立派なことが書いてあるわけではないのだけど、つい読んでしまう。事件もない。ただ、妄想のように考えていたことが言葉によって輪郭を与えられ、なるほどそうか、となる。上手ですね。 |
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紅山雪夫 ローマのガイドブック。お店やレストラン、宿については全く書かれていない。歴史をもとにした遺跡、史跡の紹介である。杓子定規な解説文ではない。著者自身の愛情が感じられる「読みやすい、短い、といってもはずしていない」良質な記事を束ねたエッセイ集と史跡案内。本人が好きで歩いて、好きで解説している、という態度が見て取れる。写真が古いのが、ちょっと興味深い。何故だろうか。 私は一度ローマに行った。7日程、毎日毎日歩いた。案内されている場所にはだいたい行っている。だから、説明が適切であることを知っている。ただし、この本に描かれているちょっとしたものを見落としていることがわかったので、是非このガイドブックをもとにもう一度歩いてみたい。6月ならば、最高だろう。 |