日本人へ 国家と歴史篇
雑誌掲載エッセイの後編にあたる新書である 政治以外の話題が半分以上しめている。 政治エッセイとローマ生活エッセイを2冊並べて販売するとしよう。 塩野七生さんのエッセイは政治を扱っているものが多い。 この巻の内容で、楽しかったのはローマのワインバーの話、ブランド品の製作者は中国人集団であるという話、そしてローマの歴史遺跡散歩。 |
雑誌掲載エッセイの後編にあたる新書である 政治以外の話題が半分以上しめている。 政治エッセイとローマ生活エッセイを2冊並べて販売するとしよう。 塩野七生さんのエッセイは政治を扱っているものが多い。 この巻の内容で、楽しかったのはローマのワインバーの話、ブランド品の製作者は中国人集団であるという話、そしてローマの歴史遺跡散歩。 |
結局、内田樹さんの文庫本を買い直して読んでしまった。この本で全部である。 これらは全部単行本で購入し、読んでいる。ところが今こうして読んでみると、内容を結構忘れている。だから面白い。 電車の中では文庫本の方が楽なので、文庫文を買い直すことは悪い買い物ではない。ただ、少し引っかかりはする。 この本もブログからトピックを選択し、内容を書き直して本として出版されたものだそうである。いつもの内田樹さんのエッセイ本。 不思議。どうしてブログのエントリーを寄せ集めて本ができてしまうのだろう。よっぽど元になったブログが本を目指して書かれたものなのだろうか。 もっともっとエッセイが読みたくて、最近は内田樹さんのブログを読んでいる。 内容の長さはまちまちで、話題は時事問題から合気道や哲学、文学の話が、そのときの思いつきでとびとびである。章立てなんて、当然あるわけではない。 ブログは個人が生活のメモをつけるためのもの。だから、内容は薄い。そう思っていた。 だからこうして出版に堪えられるようなものはあまりない。日本でとてもレアな物書きだということになる。プロであるアマの物書きなのだから。 内田樹さんのブログを「出版してしまえ」と考えた人は相当の目利きだろう。 ブログが始まった当時から面白かったのだと思うが、その面白さは口コミで広まったのだろう。 それが本に。 そういう出版って、前例がなかったんじゃないか。よく決めた。偉い。そう思う。 内田樹さんがブログを書きはじめた当時は、出版するなんて意図はなかったはずだ。 考えた事を言葉にして人に伝える。 職業意識からでた自然な行動が、ネットワーク環境を利用して実現したわけだ。 出版のチャンスがないだけで、実に面白い事を書ける人はいるはずなのか。もっといろいろ出てこないものか。 ではなぜ内田さんしかいないのか。 結局はお金の問題をどう考えるかだろう。 内田樹さんは、ブログの内容は自由に使っていいという態度をとっている。だれがコピーして使っても良く、さらには、他人の名前で発表してもいいと宣言している。 この態度がレアなのだ。 知に働けば蔵が建つ。 なるほど。上手な生き方だと思う。 |
この本の装幀はとても良い。手触り感の暖かい和紙がふんだんに使われ、同じ紙質のしおりがはさんである。今どき珍しい箱入りのエッセイ集。古本で購入した。30年前の本のようだ。今ではもう出版されていないタイプの本だろう。 安野光雅さんや永沢まことさんような印象の挿し絵がついている。ダイヤモンド社はビジネス書しか出版しないのかと思っていたが、昔は「良い本」を出版していたようだ。ちょっとした発見。 この本の内容自体は、森本哲郎さんの作品集で読んだことがある。だが、この本の方がずっと良い気分でエッセイを味わえる。 本あるいは文章を情報として扱うだけならば装幀なんてどうでもいいと考えるのも無理はない。しかし、本を読む行為の目的にアートにたいする憧れがあるならば、つまり、気持ちを揺さぶるかどうかを目的としているならば、装幀は大切だろう。本を読むときに直接触るの「紙」だし、紙質は手触りだけでなく常に見えているものだから。 コンピュータなどの電子媒体で本を読もうとする人は、作品というものを「情報」としてしか考えていないのだろう。映画をYouTubeでみて事足りると「信じている」ような人みたいに。 昔は旅に出るという感覚が大分ちがっていたようだ。よく、世界を股にかけるという表現があるが、それはスーツケース片手に商用で世界各国に出張する商社マンに当てはまる。そういう人と森本哲郎さんとはまったく別のタイプの人。もっとも森本哲郎さんが世界各地を出掛けるようになった要因は、新聞記者として「記事」を書くためだったらしい。しかしその後の放浪癖は仕事としてではなく、漂白の想いに誘われているとしか思えない。中東やサハラの砂漠、世界名作文学の舞台や世界史の中でのビックイベントが起きた現場に佇み、思索ことなどは、ぼくのような学もチャンスもない人からみれると夢そのものである。ため息をつくよりない。 そんな森本哲郎さんの行動のなかで唯一マネできそうなのは、外国にでかけ街中のカフェでお茶を飲むことである。タバコを吸わないぼくとしては、そんなことをしても間が持たないのだが。 実際にカフェで時間をつぶす機会は何度もあるのだが、なかなかカフェでお茶を飲むことはしない。なんだかこっぱずあしいし、高そうだし、ぼくみたいな言葉も不自由な人はウェーターさんに相手にされないか、カモられるかのどっちかのような気がする。それでも楽しく時間を過ごす事ができたカフェでお茶を飲んだ経験は、今でも宝の物のように輝いている思い出になっている。 英語とフランス語が話せるといいだろうなと思う。あるいはイタリア語。どんなとこおでも言葉の不安なしに旅したいよ、ホント。あるいは中東もいいし、北アフリカもいいな。夢だけは広がっていく。 それが実現できるかどうかはどうでもよく、たんに旅情をかき立てられるような本、ぼくにとっては宝物である。それはいつも森本哲郎さんの本なんだけど。 |
内田樹さんの著作は何度読んでも面白い。同じ本を読むのをぼくは避けてるが、内田さんの本は話が別で、読みたいナと思ったら迷わず読むことにしている。この本もすでに一度読み、読書メモも書いている。が、また読んで、またメモをつけることことにした。普通の新刊を読むよりも面白かった。 印象深いところはいくつもあったが、日本語がもつメタメッセージ送信の部分の記述には感心する。いや、もう感動する。 私たちの国の政治家や評論家たちは政策論争において、対立者に対して「情理を尽くして、自分の政策や政治理念を理解してもらう」ということはあまり(ほとんど)努力を向けません。それよりはまず相手を小馬鹿にしたような態度を取ろうとする。テレビの政策論議番組を見ていると、どちらが「上位者」であるかの「組み手争い」がしばしば実質的な政策論議よりも先行する。うっかりすると、どちらが当該論件について、より「事情通」であるか、そのポジション取り争いだけで議論が終わってしまうことさえあります。自分の方が「上位者」であることを誇示するためには、いかにもうんざりしたように相手の質問を鼻先であしらって、「問題はそんなところにあるんじゃないんだ」と議論の設定をひっくり返すことが効果的であるということをみんな知っているので、「誰がいちばん『うんざり』しているように見えるか」を競うようになる。お互いに相手の話の腰を折って、「だから」とか「あのね」とかいう「しかたなしに専門的知見を素人にもわかるように言ってあげる上位者の常套句」を挟もうとする。 なるほど、本当にそうだ。 この方法はあまりにも効果的なので、政治家や評論家ではない人も使っている。自分だって、使ったかもしれない。他人がぼくの専門についてとやかく言ってきたときなど、実際に使った記憶はないが、こういう論法で「うんざり」した顔で、ようするに「だまれ」ということを言ったことはきっとあるだろう。 内田樹さんの指摘は心理メカニズムのすぐれた物理学のようなものだ。もう、ぐうの音もでない。当たっている、ホント。自分の感じ方や行動理由の自覚していない理由を内田樹さんから教えてもらっている。 さて、メタメッセージについての話に戻る。一度「上位者になるためのコツ」を知ったら、何にでも使いたくなるもの。それは誰でも同じだろう。自分についてはなんとか気をつけるにしても、他人からの挑戦には巻き込まれたくない。あとは以下にして、この状況に入り込まないかがぼくの考えることだろう。そしてそれは生き方ということになるのだろう。 |
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この人に会いたかった:森毅さん。 タイトルに魅かれて薄手の本(というより、冊子)を手にし、そのまま買ってしまった。 森毅さんはこの対談が行われた後、たしか去年の初めの頃に、料理をしていたら自分の服を焼いてしまうという事故に遭い、そのままやけどで入院したというニュースを目にした。そのあとどうなったのだろうか。高齢だから何にせよ治るには時間がかかるだろう。良くなっているといいのだけど。 |
タイトルに期待して購入したのだけど、これはエッセイ集だったためか、ぼくが求めるような考察は書かれていなかった。世界は分けてもわからない。生科学を極めつつあった人が従来の分析・解析手法の行き詰まりを語るとうようなストーリーならば良かったんだけど。 とはいえ、エッセイは悪くない。それどころか、須賀敦子さんのエッセイを引きながら自分の考察を加え、まして「でもね、須賀さん」などと呼びかけてしまうところがグッとくる。ぼくもそんな風に過去の賢人に話しかけ、質問してみたい。だけど許される雰囲気にない。やっぱり、それなりのことをなした人でないと偉人に話しかけられないような気がするから。 後半部分は、ある科学者のインチキについての物語である。その科学者があれよあれよという間に成果を挙げていくのを横目で見る同僚?視点からかかれている。ぼくは学者の世界にどっぷり浸かった事はなく、またそういった競争にも興味はないからピンと来ないといえば来ないけれど、それでも不思議な場面に立ち会ったような気分になれた。福岡伸一さんはかなり上手な語り手なんだとわかった。 今後も研究の合間にいろいろなものを書いてもらいたいと思っているが、気になるのは調子に乗りすぎて対談などのお気楽な方法に走ってしまうことである。斎藤孝さんや茂木健一郎さんのような方向へは走って欲しくない。 |
英語の長文読解で読んだようなエッセイを再編した小冊である。岩波文庫の新刊だけど、中身は100年前のもの。いいものは長生きするのだ。それも、ただ長生きするのではなく、それを初めて読んだ人の喫緊の問題がその本で扱われていたりする。今読んでも新鮮とは、単に自分が不勉強だと言うのと同時に、時代が違っても、多くの人が抱えている変わらない問題を扱っているということだ。 この本の内容は難しくない。Oヘンリの短編は小説で、この本はエッセイなのだが、おなじような印象を受ける。日々の生活で「そうそう、そういうことあるよ」ということが話の発端になっている。高所から訓示を垂れる本ではない。だから寝っころがって読んでもいい。
母国語の人はこういうエッセイをどのくらい読むのだろう。中学高校の教科書に載っているのだろうか。決めの文句などは、だれでも口ずさめるのだろうか。日本で言えば小林秀雄や加藤周一のようなものか。いや、難しい内容ではないから、新聞のエッセイなのだろう。日本語で描かれた新聞のエッセイに、こういう読み物はあるんだろうか。
岩波文庫はさすが、というのが感想である。 |
ラ・フォル・ジュルネ関連の本として出版された旅行記である。茂木健一郎さんは忙しい人だから(本文でも1年間で休みは1日だけだったと言っている)、バッハ、ドイツを巡るこの旅行記も一気に書いているのだろう。だから、フォントは大きくて余枠も広い、ちょっと損した感がある本である。いくら新書とはいえ、これは無いんじゃないかと思うのだが、バッハについて少し知りたい都合から、買ってしまった。当然だが読みやすい。写真は茂木健一郎さんが撮影したものを使っているため、手ブレやあまいピントのものが多い。本というより、良くできたブログという出来である。もうちょっと整理したどうかとも思うが、それだともっと書き足さないとダメで、おそらくはそんな時間はないから出版出来なくなってしまうのだろう。本、とくに新書だから新刊よりも息が長いはずなのだが、あとで出版社も後悔するんじゃないかと思う。 |
パオロさんの新刊が出たので購入してみる。前作の『コドモダマシ』がもう一つだったけに少し不安だったが、この本もダメだったら次は読まないことにしよう。また面白さが復活していることを期待して読み進める。 |
JALの車内誌に連載されていたエッセイがまとめられた本である。結構長いこと続いていたようだ。さすがJALともなれば車内誌に養老孟司が登場するのかと感心する。 養老孟司さんのエッセイを何冊も読んでいくうちに、これまでの来歴を何となく知ってしまう。家族のことから、学生時代のこと、就職して教員になり、退職していろんな活動をしはじめるところなど、特に憶えようとしないのに憶えてしまっている。だから、このエッセイを読むと既に知っていることが語られているところに出会う。ただ、そのトピックが挿入されている文脈は色々なので、もう知っているよ、と思うことはない。語れている内容そのものよりも、なぜそのトピックがそこで登場するのか、その繋がりを読んでいるから、それはそれで面白いのだ。文章を楽しむというレベルではなく、文脈を楽しむ読書になっているのかもしれない。たくさん本を読む効用が、こういう現れ方をしているのかもしれない。 養老孟司さんの本を読むようになり、養老孟司さんの対談だの書評だのを読むうちに、気づけば茂木健一郎さん、内田樹さん、池田清彦さん、甲野善紀さんなどの本もよく読むようになった。どの人の本も同じように楽しめる。彼らは現実の世界でも中がいいのだろうと思う。 もう何冊読んだのだろうか、と思う。でも、新刊がでたらまた買ってしまうだろう。本屋さんにとってはちょろい客になってしまっている。 |
上手なエッセイを読みたいなと思っていたところ、日本の名随筆集というシリーズの存在を知った。数十冊のシリーズであり、一冊毎にテーマが決まっており、そのテーマにあった名随筆をそのテーマの一人者が選定して編んである。タイトルと著者とから判断すれば、この本は相当すばらしくうなってしまうようなエッセイがありそうだと思ってしまう。だから古本で購入してみた。 |
マージャンの世界ではとても知られた通称雀鬼と甲野善紀さんとの対談。 |
村上春樹さんのエッセイ。ちょっととぼけたおじさんの挿し絵がぴったりで、著者のキャラクターがただよってくるような、気楽な読み物になっている。 このエッセイの中の話でちょっと気になるところがあって、インターネットでそれを調べて見た。差別だの部落だのという話である。神戸育ちの著者はそういう話を中学生になるまでまったく知らなかったという。ぼくは東京向島育ちで、そういう話に全くピント来ないのは同じ。なんかあるらしいけど、今の東京でそんなことを気にしている人はいないだろうし、もし存在するとしてもその人は関西人なのだと思っているくらいだ。知識不足であり、今はインターネットでタブーでも調べられるので、どんな言葉が問題になったのか、ぼくも知りたかったのだ。 この本の魅力は、とぼけた感だろう。そして、小説家として肩ひじ張っていないものいい。「小説家=先生」なはずないと思うのだけど、どうしても偉い存在というコンセンサスがあるようで、小説家の人にはこちらが頭を下げなければならない雰囲気がある。 |
雑誌に掲載されていたエッセイをまとめた本である。新書で人気がでたあとの本なのだろうけど、文章や話題の取り扱いにぎこちなさを感じるところがある。科学者ではなく普通の人との距離を探しながら書いているようで、妙に説明口調で平板な科学話になったり、エッセイでそんな細かいことを言わなくても言い科学記事になったりしているところがある。現在書き方を模索中という感じを受ける。 ぼくは本書のタイトルにちなんだ解説本かと思って手にしたので、少しがっかりした。とはいえ、この本を読んでいれるといずれそういうものを書いてくれそうな気もする。本書にはライアル・ワトソンの本の翻訳をしたということが書かれてる。エッセイや翻訳本などの活躍があるようだから、とりあえず今後に期待しようと思う。 |
遠藤周作さんの単行本が2006年に出版されている。書店で平積みされた本を手にして、不思議な気分になる。なぜ今になって遠藤周作さんの新刊があるんだろう。 さて、この本のタイトルにある10ページといったものは本当に10ページまでにあるのかといぶかしげに読んでいたら、ちょうど40ページで「そろそろ10ページだ」という記述を見かけた。つまりは、昔と今では、本の厚みが4倍違うのか。今は内容が1/4になってしまった本を買わされているということだ。まったく、新刊はぼろい商売だよ。 |
シリーズ2冊目。勉強の次は仕事。素直な流れだ。勉強法は面白かった。これも何かの縁だろうと思い、長津田で急行待ちをする数分の間で目に付いたこの本を購入した。帰りの電車で読み切れてしまった。 この本は勉強法の紹介である。茂木健一郎さんの才能の一部でもいいから身に付けたいと思って、「マネ」するために読んでみようと買ったのかもしれない。しかし、それは間違いだろう。というのは一般に、「AをすればBになる」ことが、人間に関してはほとんど間違っているから。ある人がある事をできるようになる過程は実に様々な出来事の結果であって、計画して実行するようなものではないのだと思っている。 |
さすがにこの対談の内容を理解することは、運動不足のぼくにはむずかしい。武術なり合気道なりを相当やってきた人たちが抱く疑問やアイデアを語りあっているのだから、仕方ないのだけど。 |
なんだかまた新刊がでていたので買ってしまった。嫁さんが「いい加減にしたら」という目で見ている。そりゃそうだ、いつも読んだ感想として「もうひとつだった」と言っているのだから、何もまた新刊で買う事はないではないかと思うのも無理はない。 |
例によってブログのコンピレーションブックである。著者が主張している内容はこれまでの路線から大きく外れることはなく、それでいて読みながらふんふんと頷きながら頁をめくった。 |
養老孟司の新刊が文庫本で発売されたので、早速読んでみた。内容は講演をまとめたもの。テーマはいかにして都市化・意識化から距離をおいて生きるのか。そのためのアドバイスである。著者が昔から一貫して主張されている脳化、都市化の問題を普通の人でもすんなりと耳を傾けられるようなやさしい語彙で話をしている。養老孟司の講演はこんな感じのものなのかと想像すると、一度は聴いて見たかったと思う。(さすがに、もうあまりされないだろう。) ベランダに鉢植えの花を置き、それをなにとはなしに見るようになった。天気や時間帯によって信じがたいくらい綺麗に見えることがある。慣れない手でプランターの土いじりを初め、虫と格闘したり肥料に頭を悩ませたりしはじめた。歳を取ったことによる心境の変化だと周りには説明していたが、この本の最後にあった「人工物ではないものを一日十分以上みること」というアドバイスに反応してみたのだ。読んだことを実践してみた。すると、人生に深みがでてきてきたような気がする。まったく不思議である。単に花を眺めているだけなのに。現代ではあまり省みられないそういう知恵はぼくにとって貴重である。先輩からアドバスを貰いたいところだけど、不幸なことにぼくには友人関係でも学校関係でも会社関係でも「先輩」という人はない。普通は仕事の上でそういう人に出会うものだが、幸か不幸かぼくは独力でやってきたし、この先もそうみたいだ。だから、養老孟司の本は、ぼくにとっての先生であり先輩の言葉になっている。 「だって、しょうがねぇじゃねぇか」という説明を受け入れる態度がないと、自然はいらだたしい面ばかり見せてくる。東京に住んでると「美しい自然」などにはメッタにお目にかかれないから。 |
エッセイをまとめたものである。茂木健一郎が売れはじめてから出版されているので、最近のエッセイかと思っていたが、内容はすこし4,5年前くらいのものだろう。どちらかというと「めんどうくさい」タイプのエッセイ。哲学というか思想というか、そういう読者に向けての文章である。内容が高度かというと、とくにそんなことはない。扱っているテーマは茂木健一郎自身だから、難しくなりようがない。いつになく、面倒な口調なのでめんくらってしまう。連載された場所が知識人が好んで読む硬派なものなのだろう。 |
嫁さんがこの本をとても気に入ったらしく、しつこく勧められたので読んで見た。ぼくはさほど落語に興味をもっているわけではないのだが、八重洲ブックセンターでも入り口近くのお勧めコーナーにしつこく平積みされているところをみるとこの本は売れているのだろう。 立川談春という人を知らない。立川談志ならば知っている。談志の弟子なんだろう。どのくらい上手な人かはしらない。でも、自伝を出すくらいには有名な人なんだろう。 立川談志に入門してから、二つ目、真打ちになるまでの物語はおもしろい。笑ったり涙したり。どこで勉強したのか知らないが、立川談春という人の文章が上手い。噺家は言葉を操る技術者なのだと思うが、文章も上手のようだ。どの噺家もそうなのかはしらない。 |
不愉快な本であった。内容のレベルが低いとか間違っているとか、そういうことではない。きっと正しい事を主張されているのだと思う。それでも、この人に好感を持てる人はこの人と同等以上の立場にいる人やこの人が認めた人だけだろう。つまり、友達くらいなものではないかと思う。 |
この秋から冬にかけて内田樹の本が何冊も出版されるそうである。人気が急上昇ということで、出せば売れる状態なのだろう。ならば出版社は黙っていない。とにかく出版する、なんでも出版する、短くても出版する。こんな理由でフォントが大きくて行間が広い本が登場するわけである。この本も悲しいことにそうなっている。値段は千円を超えているのに。 出版社がプレジデントだから仕方ないのかもしれないけど、こういう編集されるとこの出版社について「嫌な」印象を持ってしまう。この本はそこそこ売れるかもしれないけど、長くは売れないだろう。そして記憶にも残らない。残るのは嫌な商売するプレジデント社という経験知だけかもしれない。 |
パオロの本を行きだけで読み切ってしまったので、帰りの電車で読むものがない。しかたないので電車に乗る前に新書の一冊でも買ってみようと駅の書店に寄った。ざっとコーナーを眺めたのだが、読みたい本がない。そりゃそうだ。昨日大分買い込んだのだから。などと考えていたら、あと数分で急行が発車する。どうするどうする。 そんなとき目についたのが「ひろさちや」という文字。この人の本はゆるい。なんというか、さぁがんばろう、という気にならない。まぁ気軽にやろうや的なテーストなのだ。これを癒し系と呼ぶのだろう。なんだかやり切れないなぁ、という落ち込んだときにはもってこいの本である。 しかし、今日はそんな気分ではない。むしろ元気一杯。しかしまぁ、ともかく読んでみる。江戸時代の旅の手引きを参考になにやら言っている。旅についての本のようである。 楽しいことばかりが旅ではない。嫌なこともある。むしろ、不案内な土地へいくのならば嫌なことが起きやすい。旅先は自分の家とは違う。当然、おかしなこともある。腹も立つかもしれない。そういうものである。 確かにそうかもしれない。おっしゃることに反論はない。なるほどと思うことも多い。この本は悪い内容ではない。 しかし買って後悔したこともある。この本の行間は広く、文字も大きい。30分くらいで読めちゃう内容である。まだ一冊にするような内容のまとまりがない。巻頭の話と巻末の話が同じことを言っていて、編集も手を抜いているようだ。なんでこんないい加減なことするのかなぁ。これは、出版社の問題だろう。この会社の新書は注意するほうがいいかもしれない。
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教育論である。ポイントは『下流思考』に尽くされている。同じ路線で話が進んでいる。何か新しい知識を得たい、という人にとってこの本はもうひとつかもしれない。 しかし、知識を獲得するだけが本の楽しさではない。本=知識では学校試験のメンタリティー。そんなの無視して、内田樹という面白い人を話を聞こう。そう思えば、読んのが楽しくなる。それだったら、聞いたことがある内容ほうが楽しく読めるではないか。この本は論文でも教科書でもなくブログを再構成して編んだ本なのだから、気軽に楽しべいい。 そういうわりには教育論ではなく、「大学き残り」に目がいってしまった。著者は大学の先生だ。少子化に対応するための苦労を知る。あまりマスコミには登場しない話であろう。マスコミには派手な改革や勝ち組負け組のラベル付けくらいか上がってこない。だから現在稼働中の大学システムをどう修正していくのか、稼働中のシステム変更という雰囲気が面白いのだ。失敗はできないし。 親も子供も下流指向、あるいは2極化という状況のなか、教育そのものが大変難しいらしい。それに加えて大学の生き残り。大学教授も大変なんだ。よく考えれば当たり前のことだ。大学が減るから教員が余るという単純な問題。そんなことはわかっていただろう。そう思っていても実際起きないとなんのアクションもとれない。大学教授も人の子ということだ。 もう増えることが予想されない学生に対してなにをすればよいか。一番確実なのは縮小均衡である。ダウンサイジングともいう。小さくすればいい。ところが普通の大学は巨大化を指向する。なぜだろうか。別のタイプの学生を獲得するといったことをやる。それは危険だろう。 例えば研究費が増えないとわかったならば、研究費が小額でも面白いことができるように準備するが普通だろう。ぼくはそう思う。だから自分ではそうしている。しかし、周りの人は違う。以前よりも大きなことをやろうとする。大きなことを提案して減額され、それで結果的に現在と同じ。そういう方法のようである。 |
内田樹のエッセイにこの本の引用があった。村上龍の本はずいぶんと昔に『トパーズ』を読んだきりで、とくに読みたいなという気分になるものはなかったから、この本は村上龍の本の2冊目である。 恋愛論ばかりだったら勘弁してほしいなと思っていたが、時事ネタのようなものや普通の人の問題(結婚とか、パラサイト生活とか)のものもあった。意外に普通のことを言う人なのだと知った。へぇ。 エッセイで扱っている話題は発散しているので、一体何の本だったのか、もうひとつ記憶に残らない。「なるほど」と思ったこともある。しかし、あぁなるほどぉなぁ、すげぇや、というものはなかった。心に引っかかるものがあれば、その前後は記憶に残る。しかし、なにも引っかからないと記憶になにも残らない。ぼくにとっては、この本をいま読むべき本ではなかったのだろう。 で、内田樹が引用したエッセイが見当たらないなぁと思っているうちに読み終わってしまうところだったが、最後のエッセイにそれがあった。まったく。結局全部読んでしまった。 |
養老孟司さんはもう本を書かないだろうと思っていた。そんなことよりムシを見ていた方がいいだろうから。となると、今後期待できるのは過去の記事をまとめたものか、対談かである。bk1から新刊案内のメールが届いたときうれしかった。対談ならば相手が誰かも気になるところだ。今回は女性作家のようだ。名前は聞いた事があるが、その作品は読んだことはない。嫁さんにも聞いたのだが、読んだことはないが豊崎さんの評価は良かったそうだという話を聞き、少し安心した。 新聞のリレーエッセイをまとめていたようで、実に養老孟司調の文章である。自分の意見、それにたいする問い掛け、その応答。こういったものが地の文でつづく。養老調のエッセイはある種の気持ちよさすら感じる。ぼくもこういう調子でさっぱりとしたことが書けないものかと憧れている。 読んでいて驚いた。リレーエッセイのお相手も養老調のエッセイなのである。文章が養老と同じように、地の文をボヤキのようにつづけていく。この種の書きかたは、自分の思考の流れを写すことになるので、そもそも論理的に無理のない、つまりジャンプがない発想が続かないと何を言っているのかわからなくなる。この作家さんはさすがは上手である。ただし、話の内容そのものが女性のものである。もし、養老孟司さんが女性だったらこのリレーエッセイのような文章になるのではないか。 3年くらい続けれた往復書簡を読んだ。短いものが続いているが、一つ一つには「うま味」のある内容で、考えされられたり自分でも意見をいってみたくなっりするものが多い。実に得な気分になる。最近の新書ブームでは中身がない本が乱発されているが、たまにはこういう価値のある新書も読みたい。でないと、次から買う気分が失せるから。 自分でも同じテーマで考えをまとめてみようと思う。彼らと比較して自分の考えることも文章力もいかにないのかを知る良い機会であろう。ブログは素人でも参加できる。だったら、やってみて何の問題もないだろう。 読後(読んでいる最中)にヒトの行動を促すような本は、本として素晴らしい。この本はその意味で買って良かった。 |
気になるタイトルだから内容を確認しないで買ってみたけれど、感想はといわれれば・・・。 著者は「絶対文章力は存在するか」という問いを何人かの作家に投げ掛け、自分なりにも考察している。テーマは面白そうだ。ぼくもちょっと気になる。文章は耳で善し悪しが判断されると感じているとぼくも思っているから。 しかし、「えぇ、そうなっちゃうかなぁ」というずれを憶えた。着眼点は同じでも行動や考察が同じにならない。人の思考は「その人なり」だし、べつに著者が間違っているとは思わない。だけど、学生のゼミ発表でこの本にあるような展開をしたら相当叩くだろう。 この本の主題はページ数でいって本書の半分で尽きている。まずいなぁと思って読んでいたが、本書の後半はあきらかに埋め草だったので全部飛ばした。題材が未消化。大半が引用。正直、なんとも残念。焦らないでゆっくり展開させて本にしてもよかったのに。 著者はライターさんということだ。ライターの仕事の内容について詳しく知らない。その職にある人はどんな動機で文章を書くのだろうか。書くことが好きだから? だったら作家になりそうなものだ。取材が好き?インタビューが好き? ぼくのは想像できない。 人から言われて書くのだとすれば、テーマが不安定だし、勉強に時間もとれないかもしれない。技術といっても、ライターさんのつくった文章をあれこれ評価してくれる人も少ないだろう。題材の取り上げかた考察方法で腕を振るうことに愉快さを感じるのかもしれない。 ただ、文章を書き、それを本にしたいという動機でかかれた本。その背景にはいろいろ動機があるのだろうけど、そういう本は面白くないということがわかった。 ブログをつくることが目的でブログを作る。とすれば、ブログも同じだろう。だから、ブログも面白くないのだろう。 |
夏休みムードが深くなるこの時期には、原爆と終戦とが同時に思い出される。といっても、ぼくはしらないけれど。24時間テレビが夏の終わりを告げるように、夏真っ盛りを告げるのはお盆の前の終戦関係のニュースである。 内田樹の本を物色しているときに、タイトルがしゃれているので気にはなっていたこの本を、ちょうどいい機会なので買って読んで見た。ずばり、もうひとつだった。 4人のエッセイが含まれているが、内田樹と平川克美だけあればよく、あとはわざわざ本にする必要ないだろう。もとは雑誌の記事かなにかだったのだろうか。書き下ろしだったのだろうか。よくわからないが、視点も仕上がりも違うものをバインドして一冊にされると、抱き合わせ商品をかわされた気分になる。他の二人のエッセイは面白くもつまらなくもないけれど、かわされた感を感じてしまうのでこの著者によい印象を抱かなくなる。結果的に損なものだろう。 戦争によって問題化を解決するつもりはないし、そのために軍隊をつかうつもりはない。そして、軍隊をもつ。自衛隊と9条との矛盾を一体どうしたらいいのか、というのが9条問題であるとぼくは理解している。 この問いに対し、内田樹の発言は明解である。9条によって軍隊を封印しているのだ。 なるほど、その考え方はありだろう。使うために所有しているのならば、出来るだけ使った方がいいじゃないか。使わないのに持っているのはムダじゃないか。9条の問題は、言葉の無純正を追求する人か、ムダをなくせという主張する人がなんとかしろと言っているだけのような気がする。 使いやすいように法律を整備する必要ないだろう。軍隊は使わないほうがいいに決まっている。だから、封印しておくのだ。そしてそれが憲法だったらいいじゃないか。何をいっても、問題がおきれば平気で法律などやぶるじゃないか。言葉の世界に生きている人の美観を守るために、現実に世界で生きている大勢の人が迷惑を被る必要はないだろう。 |
毎年恒例になってしまった文学賞にまつわるあれこれを知る本。ちょっと読むとちゃかしているような感じがするかもしれないが、両人の眼力は信頼できるものである。彼らの論評を読んでから読む本読まない本を決めることにしている。盲目的にそうしているのではなく、実際彼らがお勧めの本を読んでみて、そして、まったくダメといっている本で世間で評判が高い本を読んでみた結果そうしている。絶対的なものではなく、少なくとも彼らのいっていることが全うであり、その選別の見識は僕よりも高いと思っているからそうしている。 彼らは権威に対しておちょくるところがある。既に何かをなし得たからということではなく、今その人がどういうことをしているかによって評価している。そのおちょくり方は高齢の人に(というは、爺さんには)納得しがたいもの、あるいは噴飯ものかもしれない。しかし、よく考えると非難する爺さんどもは単に爺さんというだけの人だったりする。すくなくともぼくにはそうみえる。著者の二人のほうをぼくは信頼する。 さて、紹介されているのは主に芥川賞、直木賞である。マスコミで騒がれる賞だけど、その実体はどういったものか。普通どういうモノかを知りたいと思ったら読むほうがいい。しかし、時間もおかねももったいないことになることが「まま」あるので、一応お二人の評論を聞いてからしている。 ここ数年、どうも読む気にならない。賞をとって「まぁ、そうだろうよ」というものであっても読む気にならない。彼らは絶対的に推しているのではなく、候補作の中ならこれ、という評価をしている。だから、いくら彼らのポイントが高くてもつまらないような気がする。もちりん、彼らが幼いものは全く興味がない。彼らが推しても興味が湧かない。 なんでだろうか。読んでも勉強になった気がしないからだろう。お笑いならば楽しめる。本ならば学びとる。そうしたいのだけど、最近はそういう作品に出会えていない。別に崇高なものをほしがっているのではない。恩田陸ならば喜んで読む。しかし、ないんだよなぁ、最近。 不思議に思う。この評論本は読んでいて楽しいし、来年のものも読みたいし多分買う。しかし、そこで紹介されている小説は面白そうに思えないし、だから多分買わない。へんな気分がする。この本の役割は一体なんだろうなと思う。レベルの底上げの啓蒙書なのかもしれない。あるいは、尊敬する先輩のおしゃべりを聞くことが楽しいのかもしれない。 |
内田樹のブログを編集者がピックアップ、再構成したエッセイ本である。この人の著者にはこのタイプのものが多い。本を書いてやろうという直接の企画がない状態で書きためたものが本になっていき、それがベストセラーになっていくというすごさである。確かに並のエッセイよりは面白い。 誰もが「被害者」の立場を先取りしようと、必至に競い合っている。だが、被害者の立場からの出来事の記述は、そうでない人間の記述よりも正確であり、被害者の立場からの提示されるソリューションは、そうでない人間が提示するソリューションより合理的であるという判断には論理的には根拠がない。 たとえばこの引用を読むと、一気にいろんなことの解決ができてしまう。というか、これまで感情が湧いてきてうまく考えられなかった問題にどう対処したらいいかがわかってくる。それは、殺人事件だったり誘拐だったりといろいろある。そのどれもが、上の「認識」を持つことで考える道筋ができてくるのだ。 大学三年生相手の就職セミナーでリクルートの営業はまず最初に「みなさんは自分の適性に合った仕事を探し当てることがもっとも重要です」と獅子吼する。 その瞬間に若者たちは「この広い世界のどこかに自分の適性にぴったり合ったたった一つの仕事が存在する」という信憑を刷り込まれる。 もちろん、そのような仕事は存在しない。 だから、「自分の適正にぴったり合ったたった一つの仕事」を探して若者たちは終わりのない長い放浪の旅にでることになる。 なるほど、とひざをうつ。リクルートって会社のトンデモ性がわかるわけだ。さすが、創業者が御縄になってもなんともないだけはある。 自分にぴったりを探すというモデルが仕事として成功すれば、次は転職であり、結婚相手であり、式場であり・・・といくらでもビジネスモデルを応用できて設けることができる。 社会って、そういうことで儲ける人がたくさんいるわけである。もちろんお客さんは、長い目で見ると「カモ」になってしまっているのだ。 社保庁の乱脈ぶりが伝えられたとき、「これほど腐敗した官僚たちに食い物にされながら、それでもまだ年金支給の原資が残っていた」ことに私は感動した。社保庁にだって、まじめに働いていた人がそれだけいたということである。(略) 社会システムというのは五人に一人くらい「働き者」がいれば十分回るように設計されているのである。それ以上の「働き者」を必要とするシステムは設計の仕方が間違っているのである。 こういう見方をはっきりと提示してくれる。なるほど、善人が善意で年金運用などするはずがないのだ、ということをよく考えれば「あたりまえ」なことが起きたのだ。そもそも、相手は「役人」なのだ。5人が5人まじめな人間なはずはない。普通の会社だって5人に一人なのだから、50人に一人くらいはちゃんとした人がいるはずで、その人たちがかろうじて年金なんだぞ、ということを理解してくれるているのだけなのだ。悲しい現実だが、そういうものだ。 ばら色の世界にぼくは住んでいるのではない。それを思い出させてくれる。普通のエッセイだし、楽しいことが書かれているわけではないのだけど、知恵を手にした気がして感動する。 |
本のタイトル通り、小説以外の書いたものをエッセイ集としてまとめたもの。文庫本で400ページを越える厚さがある。昔といっても97年くらいからのものだ。何かのコメントやら文庫本の解説やらコラムやらをまとめたもので、正直そんなに面白いものではない。エッセイとして面白いものを書こうとしたものではなく、要するにその文章以外の「なにか」の解説をしているものなので、仕方がないといえば仕方がない。ぼくとしては、誰かの文庫本の解説はいらなかったんじゃないか、と思う。 恩田陸の普段の生活が垣間見れる。売れっ子の作家の生活がどんなものなのかは知らないけれど、ただいそがしいということであって、何か普通の社会人とは違った種類の人々ではないようだ。楽しみが本と酒のようだから、ごく普通の人のようである。そこはちょっと以外。ぼくとしては、いしいひさいちのマンガにでてくる「藤原ひとみ」のようなものなのかと思っていたから、残念な気もする。 作家というよりも、本好きの人の行動がわかって面白い。「面白い話を読みたい」ということが、その人の人生をドライブしているのだ。かなりさっぱりした動機なのだ。読みたいというは、話を聞きたいということにつながる。いってみれば、お話好きの子供という感じだと思えばいいようだ。文系の人って、あーだこーだうるさいのかと思っていたのだけど、面白い物語を聞きたい、という動機で十分立派な社会人であり、創造者になれるのだということがわって愉快な気分にある。大学教授などはつまるところ「おれは偉い」というのが動機なのだから、それと比べるとやはり実際にモノをつくっている人と違う。ぼくは、実際にモノをつくった人を信じる。 面白いものを読みたい、という動機で人生を渡っていくという発想をぼくは持っていなかった。もちろん、学生じゃないのだから思った通りの人生など歩めないことは知っているが、それでも自分はあまり不愉快なことをしないでいい仕事についているので、学生のようは人生論を持っているのかもしれない。現実に接地されていないから、ダメな人生論なんだろうけど。 面白いものを読みたい、そして、できることならばそれを自分でも作ってみたい。そういう動機で人が生活できるのは実に幸せなことである。それで生きていける人は、過去から考えても多くはないはずだ。時代も才能も技術も、じつに色々なものが同時に自分の身の回りに発生しないとだめだから。そして、良い作品というもののいくつかは、本当にそういう動機が原因で生まれてくるものなのだということも確認できてうれしい気がする。そうでもないと、やってられんでしょう。 下積みがないからとにかく量をこなした。そう、恩田陸の発言があったが、これは小説を書くという作業が「身体」にまつわることなのだとわかる。読んで考えて解説して、あるいは、論文を書いて。文学というものを未だに理解できないでいるぼくだが、やはり自分でも小説を書かない人がいるのならば、深読み、などしても決して文化に貢献しそうもないのに、なぜそれが学問になるのだろうか。小説は、要するに、身体の技術に違いものだ。歌とかと同系統だろう。とすれば、より小説を理解して楽しむためには、こういう感想メモでもいいから自分でも文章をつくってみることなのではないかと思う。すこしはよい作品の偉大さを感じることができるようになると思うので。 |
森毅の新刊がでているとは思ってもいなかったのでビックリして買ってしまった。さすがに最近はマスコミにも登場しないし、エッセイも書く機会がすくなくなったのだろうと思っていたが、数年分の機会を一気にまとめたものようだ。 本は面白い。読んでいる側からは、著者の年齢を直接感じることができないから。直接あったり、テレビやラジオなどを通すと、年齢は姿勢にも肌やシワにも声にも所作にも受け答えの速度などにもはっきり現れる。しかし、エッセイならばそれがわからない。森毅のエッセイは昔からのんびりしていて、下目線のところが皆無だったからかもしれないが、話題が親しい友人の死の話であっても、くらいものを感じさせるところがない。おそらくだが、本人はくらい生活をしてないのではないかと思う。 ぼくが浪人しているときときに出会った『サボリ流数学のすすめ』を読んだことが、本というものに興味をもつきっかけとなった。本と、しょうもない浪人で、そんなんで大学行けんのかと思っていたが、高校最後のテストも0点だった数学を得意科目に変化させ、その後数学を道具として普通に使う工学系へすすみ、博士号までとってしまうことになろうとは、あと時は思わなかった。ビックリするような変化を与えてくれた著者の本は、一応全部読んでおり、まだ書かれているということに、おれもがんばろう、などと意味のない張り切りを感じてしまった。 さて、この本の内容では、同時代の数学者たちのあれころを話しているところが良かった。ぼくは数学者でもなんでもないが、名前が挙がった日本の数学者は全員何かしら教科書を読んだか、別のブルーバックスや読み物を読んだことがあるから。特段憶えようともしなかったのに名前をはっきり憶えているのだから、大学時代もそれなりに興味を持っていた証拠。 今でも書いているのだろうか。さすがに次のエッセイ集というのはむずかしかろうか。 |
哲学日記というタイトルだが、思索日記のほうがふさわしい。さすがに厚みがある内容で、そのいくつかの哲学的な単語や哲学者の話におよび、気軽には読めないものもある。対象とする人がどういう人にしぼったのか、毎月の連載だったからか、苦しい内容もあったりするのだが、それでも「そもそもの不思議を考えること」はずっと続けられている。 70歳を過ぎてからの内容だから、旅の話というわけにはいかない。その時点でも砂漠に行ったりしているのかよくわからないが、年に何度か数週間ヨーロッパには出かけているようことが書かれている。時差への耐性は歳とともに落ちるらしいようなボヤキがある。サハラのジャンネで絵を見に行ったときの森本哲郎ではないのだなと感じる。 サハラへ行ったきっかけになった本が紹介されていた。『青い種族』と『沈黙の世界』と言う本だそうで、早速ネットで探して購入した。両者ともに1000円しない。古本探しは本当に便利になったが、だからといってサハラへぷらっと出かけることはできない。それはシステムではなく自分の問題であるが。 歳をとるとなにを考えるのだろうか。昔から考えていること、昔の思い出、死である。あれだけいろんなところへ旅した人であっても、考える傾向は普通の人と同じなのだ。とすれば、ぼくが今考えていること、今思い出となるような行動は、なるべく多く持っておく方がいいはずだ。考え、行動する。これは現在の自分のためであると同時に、未来の自分のためでもある。もっとも、そこまで健康で生きていれば、であるが。 73歳になっても、多少トーンに元気がなくなるが、森本哲郎の文章にでてくる「ぼく」は健在であり、哲学についてもエッセイで十分語っている。ぼくも、それくらいまで持っていけるモノを自分に蓄積しておきたいと思っている。そう、思わせてくれる本である。 |
森本哲郎の自伝的文章術獲得の物語。だれも最初は「わからん」ものなのかと思い、大いに共感し、そして、安心した。子供の頃から文才がある人はいるだろうし、どの分野にもそういう人は存在して大いに良いものを残して欲しいと思っているが、そうでない人がどれくらいいるのかも興味を持っていた。森本さんはどちらかといえばどうすれば文章が書けるようになれるのかを大学になってまで思い悩んだ口なのかと知ってうれしくなった。 動機は単純なものだ。「どうやったら、自分が思っていることをすらすら文章にできるのか」 文章を学び、書きたいと思うようになった動機はこれ以上ないくらい単純明解だ。そして、ぼくもそうなんだ。同じ動機。別に小説家になりたいわけじゃない。だれもが文学者になりたいわけではないけれど、空を飛んでみたいと同じような動機で絵を描いてみたい、楽器を弾いてみたいと思うことがあるだろう。確かに、最終的に歴史にたえる「作品」を残すには長い時間やり続ける必要があり、そのためにプロになるのが普通だろう。でも、まぁまぁのレベルでもすいすいできれば楽しいだろうなと思っているはたくさんいるはず。ブログを始める人だって多くの人が「自分の考えていることを表現できたら面白いだろう」になっているはずだ。 この本では小学生時代の作文の宿題の思い出から始まっている。学校の宿題。「自分の思ったことを書けばいいんだ」という、あの無責任な宿題である。読書感想文でも「感想を書けばいいんだよ」などと言われた。今でもこうしたインチキ授業が行われているのだろうか。そうでないことを祈りたいものだ。 そしてぼくは、作文というヤツは、要するに何かを「思う」ことなんだ、と、おそまきながら気がついたのであった。 これ、およそモノを表現する人にはすべて当てはまるのじゃないかと思う言葉だ。そうなんだよ、そもそも普段から「考えていない」と何もでてきやしない。占い師に言い当てられたかのようにぼくはビックリしたが、少年時代にそういうことを悟れた森本哲郎はスゴイ。社会の普通の人は毎日毎日いろんなことを考えて生きているような顔をしているけど、さてブログでも書こうかなと思って「ネタがない」という段階になって、「普段は何も思っていなかった」ということがバレるものだ。しかし、それを自覚できないもの。
作者はまず、自分がこれから何を書こうとしているのか、それを書きたいわけは何か、どういう側面について書くのか、つまり主題をはっきりとこわっているじゃないか。 こういう具合に、いろんな人から「文章を書くとは」を教わりながら文章についての思索つづられていき、新聞記者になり、日曜版の記事を書くというところまで進んでいく。読んでいると自分も成長した気分になる。 そして、文章上達についてはこういう見解のようである。 英語を勉強するには英文を和訳するのと同時に、和文を英訳する練習をしなければならない。それとおなじで、文章を学ぶには、書くことはもちろん、同時に、読むことに習熟しなければならないのである。読むことは書くことと同様、内言語、外言語(自分の頭のなかだけで使っている理解の道具を内言語、他人とコミュニケーションのために生成する道具を外言語と言っている)の翻訳になれるということだからである。 おそらく、そうなんだろう。だから、これ以上「文章術」なるようは本を読むのはやめようかと思っている。もちろん、この本も文章術の本で、だからこそこの文章に出会えたという事実はあるのだが。 だが、そうはいっても、文章を書くための根本条件は、やはり第一に、書きたいものを心の中にもつということだ。いくら内言語と外言語の翻訳に自身がついても、かんじんな何を書くか、それが頭になければ文章はつくれまい。じつをいうと、ぼくがこれまで考え続けてきたのは、まさにそのことだった。何を、どう、考えたらいいのかーそのためにぼくは苦闘しつづけてきたのである。しかし、考えは無からは生まれない。考えるには考える材料がいる。その材料とは知識であり、情感であり、さまざまなイメージであり、疑問であり、それらすべてをひっくるめて「関心」といってもよい。つまり、何かに関心がなければべつに考えることもなく、何も考えなければー文章に技術にどれほど通じていようとーひとかけらの文章も書けないのだ。したがって、作文にとって何よりも必要なことは「関心」であり、心のなかになにを書きたいと思うことをいつも持っていることといってよかろう。なんとも迂遠な道のように思えるかもしれないが、「関心」こそが文章をつくりあげるのだ、ということを明記すべきであろう。 これまでずっと知りたかったことの答えがある。ただし、それは半ば予想通り半ば意外なものだ。ぼくにとってだが。 文章はなぜ存在するのかから考える。自分が関心をもち、それを相手に伝える。その動機があるかぎり、読むこと書くことを訓練すればいい。ただ、それだけなのだ。 |
また森本哲郎の本を手にしてしまった。定価は安いが30年前以上前の値段。1970年時点で1960年の日本に生きている日本人が日本について思索するというエッセイ集で、旅をしてに出かけるという本ではない。また、自身が主人公のフィクションでもない。こういう風に思索できればいいな、という哲学の見本を見せてくれている。英語とフランス語があれば、大抵の国にでかけそこで友達を持つことができるのだな、とちょっとうらやましくなる。 4部構成だけで、時を立つのを忘れるくらい面白いのは1部。ベトナム戦争についてはとくに勉強したこともないし、とくに興味をもって調べたわけでもないからよく知らないが、当時ベトナムで記者をやっていた視点からベトナム戦争を語ってくれている。これを読むと、アメリカはいったい何をやっているのかよくわからなくなる。人の家に土足で踏み込んであれこれ指図しようとして、その家の住人とケンカになる、というイラク戦争のようなことをしていたのかと思う。イラク戦争は要するに石油を確保したいがために手の込んだ芝居をしているのだけど、それはベトナム戦争の失敗から学んだこそくな方法なんだなと知った。 2部から4部までは、純粋な思索である。ちょっと高度な感じがする。お気楽に読んでいたら疲れてしまった。とくにその自体の日本とつよくリンクしているような気はしない。今でも問題なく議論できるような内容である。ぼくにとってはもうひとつ面白くない。通勤電車では辛い。 |
内田樹エッセイが読みたいなぁとおもってここのところ大分読んだのだが、そろそろ底を突いてきた。ブログを読むなら新しいものがあるのだろうけど、通勤電車で読むという性格上単行本が好ましい。ということで、アマゾンで評価の高かった単行本を選んでみた。が、ダメだった。 どうしてだろうか。著者の二人は気があっており、経歴(学歴や職業や家族・環境?)なども似た者通しだというが、発言や発想から言えば差が目に付いて読んでいられない。発言の切り口などや読者への配慮などは内田樹が圧倒的で、わざわざ対談を読む必要ないなと改めて反省させてくれる。実力とうか、面白さというか、そういうものを比較したいわけではないのに、この手の本を読むとバレバレになっていて読むのが心苦しい気がするくらいだ。この対談は「マッチ」していない。といっても、この本は単なる「交換日記」ということで、ゆるい精神状態?でのやり取りだろうから、それをもってその人たちの評価とするのはおかしな結論へ導くかもしれない。でも、つまらんかった。 あー、対談本はやだ。 |
文化資本のついての記述は衝撃的であり、読んだ後にシュンとなってしまう。ぼくのような普通の人ならばちょっと何かをする気力をすべて失わせるくらいのインパクトがある。これについては『下流志向』の中できちんと語られているので詳細はそちらにゆるずるとしても、でもなお、次のようなことは「はっきり言ってしまったなぁ」というもので、「本当のことを言うもんじゃない」と言われそうな気がする。 文化資本はより狭隘な社会集団に排他的に蓄積される性質を持っている。 よいわるいといった能力の違いの話ではない。文化的なものに対する「感度」の問題なのだ。それは、育ちで決まる。なぜなら、そういう環境に住んでいれば「感度」が自然とあがる。努力しないでも感度が合ってしまう。一方、そうでない生活をした人ならば「勉強」して身に付けるよりない。でもしれは知識なのだ。その違いは、決定的だ。 この本で、ぼくが学んだことは次の方だ。それはいわゆる「決心」に関するなのだ。ある人が「社内改革をするべきか、ベンチャーなどをおこすほうが良いのか」といった、今後の仕事の上での決心を相談しているくだりである。内田樹はこう言う。 (略)職場を自分にとって気分の良い場所に自らの手で作り変えようという「社内改革」は、もちろん「転職」するよりもずっと積極的な選択である。このことに異論がある方はおられないだろう。 こういう発言をしてくれる人が身近にいたらラッキーだ。普通は「がんばれよ、気になら出来る」というようなことか言われない。しかし、現実的に考えたら内田樹のいう通りだ。何かを始める前に決心する。その際に、出来るか出来ないかを問うのは無意味なんだ。その質問は「とりえず始めてみて、なんらかの応答を得られた人、感触をつかんだ人」がするものだ。 これは別の問題にも応用できる。「その仕事に向いているでしょうか?」「なになにになりたいのですが、できるでしょうか?」というあまたあるものに責任を持って答えるには、「聞く前にその作業をしてみろ。その作業のとば口につけたら、すこしつづけてみろ。そうでないかぎり、無意味だ。」つまり、寝言は寝て言え、的な指摘をすればいいのだ。 こう言う指摘をしてくれる人こそ教師なんだな。 |
内田樹は武道家だそうである。自身が武道家ならば、身体について考えることが普通の人よりもあるだろう。体調がよい悪いや体に良い、という軸以外にいろいろな味方をもっているはずである。 武道の経験はない。だから、体の動きに関しての記述に同感することがなかなかできない。やっぱりこの本はぼくには向かないのかなと思っていたら、次のような記述にであった。 私はその後もいくつかの武道を経験したが、稽古している現時的な技術上の課題の「意味」と、修業の究極の「目的」とを統一的な枠組みのうちで語ってくれる指導者に出会うことはできなかった。ときには「不動心」とか「心技体の一致」とか「剣禅一如」とかいう言葉で包括的な解答を試みようとする人もいたけれど、その言葉が技術的に何を意味するのか、人間としての生き方にどうかかわるのかについては私ははっきりしたことはわからなかった。 教育法の一つとしてだろうけど、「いいから黙ってやれ」という指導者がいる。どうせ、説明しても生徒に理解できるはずもない。理解できないのだから、指導していることに意味をいちいち納得させるひつようがないからだ。だまって師匠に従えばいい。『先生はえらい』で内田樹が主張していることだ。何処へ向かっているのかについて師匠が語る必要はない。生徒はいろいろ修業をこなすうちに「気付く」はずである。そういう主張だったのだ。なにか、ぼくが勘違いをしているのだろうか。 そう思ってい読んでいくと、どうやら「マッピング」で意味するところは、技術などといった局所的なことではなく、ほぼ人生論のようなもののようだ。「武道について」を語ってくれ。そういうことのようだ。人生として関わる人探しには、「オレはいま何処にいて、何処へ目指そうとしている」ということを語ってくれる人がいい。そういう結論のようだが、私の読みか違いかもしれない。
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この本もブログをもとに一冊の本をまとめたということだ。長さがまちまちだし、テーマもばらつきがある。何かを述べたくて書かれたものではない。それでも、編集者がうまいことピックアップしているので、まとまっている。 この本も勉強になることがたくさん書かれているが、個人的に感じ入ったことを少しピックアップしてみる。一般的には同とらえられるのかはわからない。 国が滅びる、ということばを耳にすることがあるが、それはいったいどういう状態なのだろうか? 「滅びる」といってもべつに革命が起こるとか、国家が解体するというようなドラスティックなことが起こるわけではない。 なんだ、じゃもう滅びてるじゃんといえそうな気がするところが結構思い当たる。これは絶対的な評価ではなく、すべて以前と比べての比較級であろうとおもう。これらの要素が「全部一斉にマイナス」になれば、それは滅びているということなのだろう。国のレベルでなくとも、ある一定の役割をもっている組織にもいえそうな。その組織を特徴づける指標をピックアップし、それが全部マイナスならば衰退というわけだ。 これは国家の老齢を測る尺度になるということで、アメリカの老齢化の説明している箇所で示されたものだ。他にも、その状態での人々の特徴にも次のようなことが言えるらしい。 最近のアメリカの外交を見ていると、自ずから醸し出せる威厳に人々が服するというより、すぐに「オレを誰だと思っているんだ!」と怒鳴り出すで、それがうるさいから人々がしぶしぶ「はいはい」と言うことを聞いているような印象がする。 |
これまで何度となく「迷って」きた。内田樹とするべきか、内田樹さんとするべきか、内田樹先生とするべきなのか。いわゆる敬称というものとして何を使えばいいのだろうか。知り合いでも師弟関係でもないし、ぼくとはおおよそ無縁の偉い大学の先生だから、ニュートンとか坂本龍馬というような人と同じでいいやと思い、つまり、歴史上の人物と同じ扱いという意味で敬称略でいいやということにしようと今思った。これからはもう悩まないようにしよう。 さて、この本は内田樹ブログから引っ張って何かの原稿に使ったエッセイをまとめている。この人の本は、きっちりしたものもスゴイが、たんなるブログでもスゴイ。面白い、愉快というのと同時に、なるほどなぁ、おれは今まで何にも考えていなかった部類のバカな人間なんだなぁとしみじみ思わせてくれる。打ちのめされるというよりも、勉強しちゃたという気分にさせてくれる。エッセイなのでとくに「コア」となる話を展開しているわけではない。毎回読みきり。長さはまちまち。 この一文が心に残った。 「人間の心身の力には限界がない」というのは現代人の陥りがちな誤解であるということを先ほど申し上げましたが、そのような誤解のうちもっとも危険なものの一つは「不愉快な人間関係に耐える能力」を人間的能力の一つだと思い込むことです。 不愉快な関係に耐えたとしても、それはその人の感覚を摩耗させやがえて自身が不愉快な人になるだけで。がんばると悪い方向にしか行かないということだ。 全く同意した。ぼくもそう思っていた。嫌な人間には経緯をもって離れていろ、ということを大前研一の本で読んだ以来。もう何年もなる。内田樹は「挨拶だけして、離れていろ」と言っている。同じだ。ちょっとうれしかった。 嫌なことをずっとやらせていることが「修業」だと思う人がいる。人の適性はスゴイから、嫌な人といることに対応できるようになるのだが、それは「不快感」が自分の内部に沈み込んでしまったからのだろう。そして、それは、自分自身がそういう嫌な人になっているのだ。当然、そういう人はそれを他人に教養する。要するに、ゾンビということだ。 人間関係のくだらなさは、それが「自然現象」でも「歴史的必然」でもないことだ。そんなのあてもなくても、社会においてはどうでもよいことだ。自分が思っている程効果がない。逃げるべき。 もうひとつ、目からうろがあった。 世代についての誤解のもっとも分かりやすい例は「戦後世代」ということばです。「戦後世代」というと、ふつうは「団塊の世代」のことを連想します。昭和二十年から二十五年生まれくらいの人々が戦後社会の基調を決定したのだ、というふうに。(略) 坊ちゃんたちに漱石がどういう思いを託したのかは、内田樹の別のエッセイに紹介されているのだが、それよりも重要なことは「団塊の世代」の物語って、意外にそこが浅いということ。すっかり騙されていた。冷静に考えれば当たり前なんだけど、自分たちがやってもいないことを自分の功績のようにいう人は一杯いるどころは「普通そうする」ということに注意しなければならない。偉そうなことは大抵ウソだと思ったほうが、勘違いをしなくてすむといえそうだ。 内田樹のエッセイは、こういう驚きがたくさんある。原稿依頼がないのにずっとブログに書きためている理由は、個人的な興味を言葉にして自分で見えるようにするためなのだろう。議論する相手無しで考察するためには文章に書いて、自分で読むことなんだろうな。 |
あー、だめだ。こういうネタは普通の人向きの本にならない。すくなくとも、さほどクラシックに思い入れがない人には全く得るものがない。どころか、腹が立ってくる。実に、実にいい加減な本を作るようになったなぁ、茂木さんは。といっても、出版社の人が実際は企画してくるのだろうから、仕方ないのだろうけど。「斎藤孝」状態だ。もう、買わん。売れっ子になると、売れるから何でもよくなるのだろう。少なくとも、この著者は自分の本を金を出して買う、という気になっていないだろうなと思う。 新書は週刊雑誌の埋め草のようなものをのせることしかできない。そう思われたら悲しい。もっと、迫力のある本はたくさんある。こんな本が出版される必要はないないはずだろう。昔の茂木さんだったら、自分で批判しそうなもんだけど・・・。 |
ぼくが読書という習慣を身に付けた頃にずいぶんと森さんのエッセイ集を読んだ。同時出版されているものはだいたい読んだと思う。浪人していたとき、多いに励まされた。今のぼくは一連の森さんの本があったならではだろうと思う。しばらく前はずいぶんとテレビにもでていたけど、さすがに高齢だろうから最近はあまり見かけない。それでも新刊を見かけることがあり、つい買ってしまう。 読む前に内容に察しがついてしまう。読んでみて、やっぱりそうだと思う。それでも、読んでしまう。なぜなら、この人のエッセイから血眼になって何かを発見しようとする気持ちはもうないから。浪人生だった当時、森さんの一連の受験関係のエッセイはぼくには衝撃的だった。数学に対するイメージも多いにかわり、全く数学嫌いの自分だったが、ずいぶんと精進して数学好きにまでなった。人生って、気に入った作家を見つけると大いに変わってしまうものだ。この本も、読んで楽になる。加藤締三さんの本と同じで、一種の薬となっている。どうしようかなと迷いが多い若い頃に、こういう人の気軽なエッセイを読めてよかった。 書いてあることに察しはつくのだけど、読むたびに自分で理解していた別のことと一致していることに気付く。というか、理解するときはたいていすでにあるフレームワークに落とし込もうとするからだろう。「一丸となってなになにをしよう」という行動に対してアレルギーを持ってしまう自分のクセは、100%森さんの本から得たものなのだろう。このように感情にまで達したクセは、なぜそれを身に付けるに到ったのかの理由を覚えていないものだが、軍隊的なもの、集団一致の志向に対するぼくの嫌悪感は、森さんの「数学のすすめ」シリーズが元ネタだろう。 ときたま原点に戻ることは、意外に実りがあるもの。ぼくの原点は高校卒業後の2年間にあるのだから、その頃熟読していた本は作家については、一生を通じて定期的に読んでみようと思うし、それを他の人に勧めたいと思っている。 |
サリンジャーの新訳を村上春樹さんがおこなったというこで、翻訳についてのあれこれを語りあった対談である。実は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読む前に購入し、すこし読んだのだが「ホールデンって誰?」という始末だったので、慌ててキャチャーを読んだ。その直後にこの本を読んだことになる。翻訳という行為についての対談は、方や小説家、方や文学教授ということで見たかが微妙に違いおもしろい。また、サリンジャーについての話も興味深い(であろうと思う。私はファンではない)。 後書きに柴田さんがなにやら書いてるのだが、これはびっくりするくらい出来がわるいと思った。なるほど、文学者といっても読んで理解するのことに優れているのだろうけど、想像するのは普通の人なんだということを思いがけず理解できた。そこで、疑問に思うのだが、文学の研究というのは、文学と社会の関係をつけることであって、とても「小説家になりたい」人がやるものではないのだろう。 |
ニートって言葉はよく聞くけど、実体は知らない。友達にはいなかったし、自分もそうではない。病的なところがあるわけでもない普通の人だから、すれ違うだけでは分からないし。アルバイトをずっとやっている人という理解でよいのだろうか。教育も訓練も充分でない人たちという理解している。 内田さんの教育に関するお話は説得力がある。思い当たる節がある。また、ものを考える訓練を積んでいる方なので、その結論には直感的なものだけではなく、そもそも論からのきちんとした論理がとおっている。だから、きっとその通りになるのだろうなと思うから、ちょっと怖くなる。 自分はどういう世代にいるのか。モノを学ぶことを「等価交換」と考える面が全くないとはいえないが、それは自分をどこまで冷静に評価しての結論なのか少し自信がない。とはいえ、ここまでひどくないだろうし、そんな友達はいなかったなぁと思いながら内田さんが描く現在の若者像を読んでいる。まったく、絶望的なところがある。何もできないのに、あるいは学ばないのに、「おれって実はスゴイ感」をもつ人とどう付き合っていけばいいのだろうか。結論は、離れているということなる、私の場合は。 考えを現実とすり合わせる良い方法は、接地することである。要するに、現実に対して何かをやってみればよい。それは、体を使っての行動結果である必要がある。やってみれば、バレてしまうのだ。テストではなく、実際の行為。なんでもそうだが、大抵うまくいかない。パソコンを叩く事は、どちらかといえば「接地」には属さないような気がする。 それにしても、ものごと「起源」から考えるというのは、スゴイ効果が得られる。考えることのすごさが身にしみる。 |
村上春樹論とうことで買ってみた。この本の成り立ちが面白い。著者がブログに書いたもの、過去に出版されたエッセイから「村上春樹」というキーワードで検索した結果をまとめたら一冊になった、という感じのもののようだ。そんなんで、本ができちゃうのか。 書き下ろしではないので、助走から始まり結論ちかくで畳み込んでいく感のようなものは全くない。すでにいろいろなところで表明されいている「雪かき論、うなぎ論」についての補足説明をいろいろなエッセイで行っていたものを再構成しているので、冗長、重複が結構見受けられる。アンソロジーだから、まぁいいか、という感じのつくりである。 この本を読んでいたら、なんだか村上春樹が読みたくなってきた。僕もいくつか読んでいる好きな作家である。翻訳書は読んでいないのだが、ロング・グッドバイを早速買ってきたので読んでみようと思う。
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このエッセイでもすこし時事的なものを扱っている。役人の問題だったり、ニートの問題だったり。それはそれで面白いが、こんな話も興味深かった。
これらのストーリーを古い大前研一さんの本で読んだことがある。内田さんは現代思想の人だから、共通の情報源からの推論ということはなく、単に「本当にそうなんだろう」ということである。 こういう、身も蓋もないことを言われると社会を見るめが多いに変わる。それが事実かどうかによらず、そう言う発想もあったのかと、「なるほど」とひざをうつ経験が増えるのである。学ぶということが、やめられない。 |
評論エッセイ集です。まぁ、軽い感じで、読者も普通の人を対象としている。だから、説明は具体的である。例えば、今の日本ついてのくだりで次のような説明をしている。
笑ってしまう。もちろん、エッセイだからいろんなテーマがあり、そんなかで若い頃の気付きのような場面にも今の私がいたく共感するようなものもあった。
結局、全ての人にあるわけではないのだけど、一度はやってみたいという気持ちはある。 でも、この当時興味をもっていたのは教育の話で、学級崩壊のダイナミクスについても、別の本で紹介していた「消費者」としての子供は学習することができないという話を別の角度から説明している。
小学校の学級崩壊だけでなく、大学で勉強しない学生や、意味不明な若い社員にも全部に共通することである。かれは、学習する能力が本質的にない。ということは、そもそも教えることはムダなのだ。 では、どういうものが大人なのか。それを内田さんは「夏目漱石の小説」という切り口から紹介してくれている。どういう人が師匠になるのか、大人になるとはどういう意味か。明治期にどうしていいかわからない若者に対するメッセージとして漱石は小説を書いた。そういう話である。 小説の起源の一端を知った気がした。内田さんの本が何故面白いのか。それは、ものごとの「起源」を真摯に問い、それを考察してくれるからであろう。結構忍耐ずよい「哲学能力」がないとなかなかたどりつかないものだ。そういうものを読める自分は幸せであるが、一方でそれでは自分の哲学にならないとも思ったりする。最後は自分で考えないとだめだ。この人の方法をつかって、自分の身時かなことについて考えてみたい。そう、思った。 |
ウェブに発表された論文(エッセイ)を出版したもので、内容は戦争について、性(というはフェミニズムは嫌いということ)について、そして、教育について。読書メモを備忘録として載せている私からみると、すごい質のものをのせているのだなぁと驚いてしまう。結局、ウェブの質は物書きレベルの人がどれだけ好意でのせてくれるかによって大きく変わるんだろうということを思い知った。 著者は現代思想の研究者であるから、さすがに評論も「哲学」になっている。私の意味では、語るテーマについての起源を考察し、そこから演繹的に良いこと悪いことを導き出しているということである。こういう行為は、私は畏敬の念を持ってながめるよりない。だって、オレじゃできんもん。 |
しばらく養老先生の本は出版されないのかと思っていたら、店頭で見かけたので買った。どうやら講演をおこしたもののようだ。 講演を聞いている人には、なぜか苦虫をつぶしたような表情のじいさんがいるそうだ。みんながわらってもぴくりともしない。なんで、いるんだろう。そういう人。講演だけでなく、社会にはそういう人結構いる。だから、私は電車などではじいさんからは「なるべく離れる」ようにしている。 そういう人の不機嫌の原因は、私の想像だが、自分が尊敬されていないからだと思う。赤の他人に尊敬を求めるのはかなり苦しいことだと思うのだが、しかし彼らは「年上なのだから尊敬しろ」ということを不機嫌な表情で私たちに迫っているのではないかと思うのだ。 その種の不機嫌さは、じつは老人に限らない。自分の周りにいるひとを「奴隷」と勘違いしている人もけっこういるのものだ。この本には、こんな例があった。グリーン車でパソコンをつかっていたら、車掌経由で「キーボードの音がうるさい」という非難があったそうだ。 世の中は思い通りにならないもの 遠慮してそういているのかもしれないけど、おそらく、他人からうるさがれている人が怒りやすい。その逆ではない。この話の類はすべて「余裕のなさ」が原因なんでしょうね。世の中、そういう人が多いのならば、世の中には不幸な人があふれているということです。まぁ、離れているに限りますな。 実に厭世的な気分になってしまうこともあるのだけど、その時はこう思うことにしている。 なんだかんだいっても、死んでしまうんだからいいじゃねぇか。今の社会は人が作っているのではくて、石油が作っているのだから、石油がなくなれば消えてなくなる。どんなに自分が成功しても、石油が消えれば消えてなくなる。 |
空港の書店で偶然購入し、飛行機の中で一回、帰ってきてからまた一回読んでしまった。「結論」とあるが、これまでのエッセイと変わることなく聞入ってしまう話が多かったようだ。とくに、教育についてはかなり心配されているようであり、内田樹や諏訪哲二さんの著書をもとに考察されている。「消費者として人生に登場する」子供に対して教育は不可能ではないか、という疑問を話されている。私の年代では学級崩壊は起きていなかったが、「教育を買う」という意識はすでにあったのかもしれいない。 もうひとつ、科学の研究というか「研究」一般についての「そもそも論」について、いろいろ勉強にあった。大上段から構えるのではなく、ぼそっと発言される内容は良く考えると「オレは全く気にしていなかった」と反省してしまう、というは自分を哀れに思ってしまうものだった。 私は大学に四十年いた。自分の研究室がいちおうあって、若者たちもいた。でも、その四十年はあまり幸福ではなかった。なぜなら私に必要だったのは情報ではなく、その処理でもなかったからである。そんなもの、著者(これは、ウェブ進化論の梅田望夫さん)の経験どおりウェブでいい。それなのに大学では、ウェブ的なものばかり、私にかぶせてきた。ウェブ的でないものとは、なにか。「まだ情報化されていない世界」である。それを情報化するのが研究だと私は思っていた。いまでも思っている。でもそれをするにしては、大学とは、貧弱きわまるものだった。 勉強するとは本を読むこと。研究をするとは、難しい問題を設定し、それを解くということ。大学生くらいの私はそんな感じにおもっていた。なかなか幼稚な発想で、時代のせいもあるだろうけど、とても研究者などにはたどり着けない感じがする。が、今では「研究者」の資格を持っている。世の中わからないものである。その私には、分けの分からないものを言葉として定着させるという発想を今まで持てないでいた。工学をやっていたからだろうか。分けの分からないものに立ち向かうことよりも、Do More Betterの流れにのっていた方が来年の予定が立てやすいというものだから。飛行機の中で考え込んでしまった。本当にアホだな、オレはと。 戦後半世紀上、われわれが「進歩発展」と呼んでいたものは、石油の浪費にほかならない。人間が進歩したわけでもなんでもない。安く大量に、石油がつかえるようになっただけである。古代文明は石油の代わりに木材を利用した。だから森が消えるとともに古代文明は滅びた。石油がやってくれたことを、現代人は「自分がやった」と思い込んでいる。その石油はいずれなくなる。私は本音でそれを待っている。それが人類のためであり、子供たちのためである。 この言葉をその意味の通りに理解することができた。いや、実感できた。ここ数年古代文明に興味をもっていて、シューメルを知るにつけ「なんもかわっておらんではないか」と思っていたからだ。普通はその変化は「時間」が行ったものだと思うが、なんてことはない「便利なエネルギー源」が行ったのだ。だから、産業革命などというものがあるのだ。実にあっけなく、なぜ昔の人と今の人は同じようなことをしているのかがよく分かった。だって、同じなんだから同じ事をするだろうということだ。 予算が大型なプロジェクトに身を置いていたことがあると、石油をお金に変更すとそのままいろいろなことが見えてくる。ある人がスゴイと思っていたことは、なんてことはない「単にお金がすごい」のかということだ。私事で恐縮だが、私は本気で「大きな予算のプロジェクト」に一切興味がなくなってしまった。一連の養老先生の本によって、進路を大きく変えてしまったのだ。吉と出るか凶と出るか、それはわからないけど、それでも実によいタイミングで養老先生の一連の本を読めたものだと思っている。
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理想的に機能している株式市場では、公開されている情報はすべて現在の株価に織り込まれていまっている。だから、将来の株価は、現在は知られていない情報、あるいは現在は公開されていない情報のみによって変動する。 これは、著者が大学院のファイナンス基礎論の講義で強調しているないようである。まったくもって、インパクトがある言葉である。 そして、これが正しいとすれば、村上ファンドはおかしいということになる。素人の私にも「ナルホド」と納得できる説明である。こういうことを堂々と主張する「経済新聞」があってもいいような気がするが、経済の人にそんなことを期待するのは原理的に無理なのだということか。 この村上ファンドの出資者には日銀総裁もいたということだ。私など「有名人同士だから、うまい話ネットワークがあるんだろうな」程度に考えていたが。しかし、話はそれだけですまない。日銀総裁が出資したということはもっと憂鬱な結論が待っている。 こう考えてくると、村上ファンドに出資した理由は、論理的に一つしかありえない。それは、「村上ファンドがインサイダ取引などの不正行為を行うと期待していた」ということだ。 金融財政のトップがそれだから、下っ端の人がちゃんとルールを守るはずもないだろう。ここから普通の人への助言があるとすれば、こうなる。 そして、ここから導かれる論理的な結論は、じつに重大だ。そうした出資機会を得られるのはごく一部の人たちであることを考えれば、「一般の人びとは株式投資などするべきでない」と結論せざるをえないからだ。 先生、おっしゃることがよく分かりました。ありがとうございました(深々と頭を下げる)。 優れた投資方法を知っている人がそれを他人に教えるはずはない だけどね。日本はモノを作ってなんぼですよ。金融センターだってあってもいい。どうせ、それをやる人とモノを作る人ととは本質的に違うタイプの人が必要ですから、どっちに人が流れてもよいでしょうけどね。 |
人生に意味はない。意味のない人生がさも意味があるかのような発想で生きているとつまんないことになる。そもそも「存在しないもの」を「それが得られなかったから」という理由で悲しい気持ちになり、そのまま死んでいくのは全くばかげた事ではないか。そういう発想をこのエッセイで諭してくれる。著者は70を越えているが、文章には「全く」説教臭いところがない。この文章は年代を感じさせない。この人には「自分はスゴイ」ということを人々に知らせようという意図がまったくないので、実にさわやかな文章と論旨になっている。自分もじいさんになったらこうなりたいものだ。そういう印象をこの本から受ける。著者は仏教の学者ということだが、ところどころで聖書が引用されているので宗教学者なのだろう。著作もすでに400冊を越えてるとか。仏教を会得した人は、なんとなくだが、あらゆるものやことに対する執着が薄い。だからだろう、その人の話を聞けばすんなり受け入れられる。老人とはかくありたいものだ。 書名にある「狂い」とは、世間の基準からみて「狂っている」という意味である。著者によれば、そもそも世間であたりまえだと思われている基準そものが「狂っている」のであって、その基準に照して「狂っている」のならば、正常にもどる「かも」しれないという。戦前の教育をちょっと見てみると、国のために人が存在していると規定していることが見て取れる。あの時代は狂っていた、と現代の人は判断するかもしれない。しかし戦前では「全く正しい正常なこと」だった。こう考えれば、、現在の世間で「当たり前」なこともそのうちひっくり返るだろう。そこで著者は世間の基準から離れるために、世間の基準を「見下げて」しえと言っている。それが「狂う」ということだ。 世界はすべてお芝居だ。 男と女、とりどりに、すべて役者にすぎるのだ。 登場してみたり、退場してみたり。
人生に意味がないと主張に頷く一方で、『それでも人生にイエスと言う キリスト教は終末に天秤にのらないといけないので、無意味な人生を適当に過ごすこともできない。彼らは大変なのだ。仏教はあるところまでいくと気楽になる。それは多分自意識が薄くなるからだろう。自分のことばかり考えているとどうにも自分の人生には特殊な意味があるような感じがするのかもしれない。そんなことより、どんな状態でもその役割を演じるだけと考えたほうがさわやかな気分でいられると思う。 この本、とても気に入ってしまった。
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池田さんの本を見つけた。エッセイ集だけど、たぶん社会評論と虫の話なんだろうと思って手にとった。目次を見ると養老孟司さんのかと勘違いする。人生に同じような目的をもつお二人なのだろう。エッセイまでもが似ている。 ざっくりよんでみると、ボヤキの対象はいつもと同じ。とくに、医療、マスコミについては何度でも言っておきたいようだ。池田さんのエッセイを読んだ事がない人、あるいは本まで購入するとは思えない層の人には、池田さんのエッセイは新聞連載コラムなどでしかお目にかからないであろう。 健康にいいといわれたことをみんなやり、健康診断を律義に受けて、医者の言う通りにしているといった人だ。でも、こういう人だって、あるとき具合が悪くて医者に診てもらったら、余命三ヶ月と宣言されないとも限らない。科学は好コントロール装置だから、という意味はコントロールできないことに関してはお手上げだから、余命三ヶ月の人の面倒まで見てくれない。「先生どうしたいいんでしょう」とすがりついても、「どうしようもありません。好きにしてください」と言われるのがオチだろう。ならば、最初っから好きにいきていたほうがよかったんじゃねぇか、と私ならば思う。 ガン検診などについては、慶応大学の先生の本からの引用をして紹介している。そういえば、私も健康診断を全部無視するようになってしまった一人である。 池田さんは定年になったのか、現在は早稲田大学の先生をしている。昆虫とりの余裕がなくなったんじゃないか。手っきり昆虫への傾斜を深めるのかと思っていたが、まだまだ先生をやるのかと意外に思った。あれだけ本を書いても生活はむずかしいのだろうかと疑問になる。好きに生きていけばいいと言い続けている人なんだから金銭的な余裕があればそうするはず。それとも、昆虫を題材にして学生を教えるのが一番すきなのか。などといろいろ想像してしまう。 |
一つの記事が2ページに展開されている新聞連載を集めたもの。きちんとした背景説明や論理展開のスペースがないため外交評論になっている。鋭い「見立て」が展開されていない。読み切り記事の良さと悪さが同居しているエッセイである。 このような新聞記事は役所には影響力をもつ。NHKのニュースや特番や新聞記事に役所の人間は敏感に対応する。市民団体の抗議など屁と思わない人たちであろうがマスコミには弱い。その修正を逆手にとって佐藤優がいろいろ提言している。ただ、偉い人は基本的に人の言う事は聞かない。社会がどうなろうとも自分のメンツを優先させる。だから、この本での提言は採用される見込みはないような気がする。 野球解説者と同様、そういう評論は観客ではなく先週に言ってくれ、と突っ込みたくなる。評論家の提言を選手がどう思うのかは知らないが、多分採用されないだろう。無視するか反対のことをする。おそらく、この本の記事に展開されている日本外交への提言もそれと同じ扱いになるだろう。それに、細かい戦術を新聞などのメディアにのせたら「バレバレ」の戦術になってしまうので、そもそも外交に使えない。よい働きをしたとみられる役人にエールを送ったりしている。部下から褒められるよりも上司から褒められるのを望む人たちが、評論家の称賛をどう思うのだろうか。佐藤優はそんなことを百も承知で書いているはずだから、本人の狙いは別のところにあるのかもしれない。 読者にサラリーマンやビジネスマンを想定している。彼らが外交について知ったとしても戦力にはならない。ただし、くだらない床屋談義をしなくなるかもしれない。佐藤優の狙いはそちらの方にあるのかもしれないが、本当のところは分からない。 |
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佐藤雅彦 ちょっとした視点の違いと受け取った内容を表現する方法のズレが読者をクスッと笑わせ、ナルホドと感心させる。スマートな内容だけど説教臭くない。こういう形式がエッセイの形の一つの完成形であろう。メッセージがあり、簡単な図がある。メッセージは絵ではないので必要以上にこだわらない。この本では「新聞」という形式を採用している。それが、もっとも優れたメッセージ伝達方法の一つであると判断したからだろう。
読み始めたら止まらなかった。挿し絵や3コマ漫画の絵がかわいい。なごむ。「だんご3兄弟」や「バザールでござーる」のCM、「ピタゴラスイッチ」という番組を作ってきた人だから当然であろうが、かわいいイラストを描けるのは偉大な才能だと実感する。文章は数タイプある。「〜いる、〜ある」という平易な記述、「〜です、〜ます」という語り。「〜である」もある。何を基準に使い分けているのか分からない。主張内容もそんなに複雑なものではなく世間的なものなので、高尚な読書の結果からの結論なのかもしれない。しかし、それらをネタに友人たちと世間話をすれば「それ、あるある」と同意をとれると思う。愚痴にならない世相批判がこの本にある。 なぜ、こんなコラムが書けるのだろうか。それは、作者が文章だけでなく、挿し絵もいれていることにある。かわいい絵はすべて子供か動物なので大抵の人に受け入れられる。文章の後味はこれらイラストによって決まってしまうようである。内容が時事問題であっても、物事の新しい見方、街で見つけた面白いこと、どれでもあってもほほ笑ましく思えてしまう。 この本の「情報の力関係」というトピックにそのヒントがある。次のような表示を見たとき、何を考えるだろうか。この本から引用してみる。
矢印と言葉は反対のことを意味しているが、最後は矢印が勝つ。分かりやすいビジュアルが勝ってしまう。最後の印象、感じはビジュアルが決めてしまう。ならば、同じことがこの本にも言えるかもしれない。挿し絵が記事の後味を決めてしまうことになる。 この本は、短いエッセイの書き方を模索している人にはいろんな意味で参考になる。 |
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養老孟司 内田樹 内田という人については全く知らなかった。ユダヤ人についていろいろ考察されている人ということで、対談の半分くらいは「ユダヤ人とは」になっている。「ユダヤ人とは、〜である」という定義ができないそうで、必然的に「ユダヤ人とは〜ではない」ということでしか規定できないとか。これについては両者の意見が一致している。なので、おそらくそうなのであろう。古代オリエントからローマ史に登場してくるユダヤ人については幾らか読んだ事がある。ユダヤ人は現代社会においても一層重要なプレーヤーであることは了承しているが、身近な話しではない。そもそも「〜人」でとらえる人ならば関係がない。だから、この本での「〜ではない」という定義が正解だろうとなかろうと実生活には関係がない。しかし、歴史や社会について今後勉強するとき、「ユダヤ教徒、一神教の人」などという幼稚な理解よりましであろう。ちょっと良いことを知ったと感じている。 それ以外。日本人論があった。ただし、日本人とユダヤ人 ・・・どう考えても、そんなに追い詰められるより前に、「それは筋が通りませんよ、やめてください」と言って相手を制しておけば済んだ話なんです。でも、主人公はありとあらゆる理不尽に耐えてしまうんですね。ほとんど自分の方から理不尽で屈辱的な状況を進んで選択しているようにさえ見える。そして、最後に「もう我慢できねぇ」といって金子信雄をブスリとさして・・・。このソリューションを日本人は大好きなんですよ。『忠臣蔵』しかり。 戦争中威張っていたやつが、まったく同じでした。あそこまで状況が変になると、ほとんど精神に異常を来しているんじゃないかというヤツの声がいちばん大きくなる。だいたいが、声を大にして言うことは極端なことに決まっているのですよ。 これらの言葉も文脈から切り離されると少し強調されるすぎるか、勘違いされるかもしれない。しかし、普段の生活でちょっと似たようなことを感じており、それが他人の口からでてくると「それだ!」とうれしくなってしまう。勘違いであったとしても興味を持ったならば一読するとよい。
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養老孟司 本の紹介エッセイである。まだ小説推理に連載されている。養老孟司の著作を読んでいると昆虫取りとミステリーの話がつづくことがある。どんな雑誌に書こうとも、書く内容は一定の幅に収まっており、それもまた面白いので編集再度も許してくれるのであろう。当然、この本でもそうである。 たしかにミステリー紹介の話が多いのだが、そのときそのときの評論も結構捨てがたい。科学とは何か、自然とは何かについて時折ずっしりとくる。 銅鉄主義という古い表現があった。外国の研究者が鉄で調べたことを、日本の研究者が銅で調べる。どこが新しいかと訊かれたら、まだだれも銅では調べていませんと答えればいい。いって悪いが、たいていの論文はそれだという気がする。 はいそうです。論文のようなものを書かないと学生は卒業できないし、職員は評価がさがり首になることがあるからです。背に腹は代えられぬ。そういうことです。ただし、これが蔓延して、研究するとはそういうことだ、と疑っていない人もでてきたりして、せっかくの人生を棒にふる人も多い。 今回、はっとしたのは佐藤優の『国家の罠』の紹介である。本当にそうだ、とか、外務省はしょうがない、とか、政治は汚い。なんとなくそんな見方しかできなかったのだが、養老孟司は「あれは著者のロマン主義が面白いのだ」という。そんな見方、考えたこともなかった。ドキュメントである以上、その話は本当かどうか、その中での行動は正しいか間違っているかどうか。それを考えることが読者のやるべきことではなく、小説のように「ロマンだなぁ」と思えば良い。 書かれたことが「真実」であるかどうか、それは本の面白さと関係がない。ウソはウソなりに面白いのである。 真実は追究するものだとうことは、あまりのも当然である。しかしそう表現したとたんに、「追求すれば、手に入る」という錯覚に陥る人が出る。なぜなら人にはけちな性質があって、手に入らないものを追求するのはムダだと思うからである。しかし人生には、手に入ろうが入るまいが、ついきゅうするものがある。それを追うことを、私は右にロマン主義と呼んだのである。 佐藤氏の主題は政治と外交である。そうした分野に事実なんぞというものはない。あったとしても、それを人は限られた人生のあいだで、完全に知ることはできない。 この本はミステリー紹介である。しかし、ミステリーだけでなく、ある種のホントの付き合いかたまで教えてくれる。だから私は養老孟司の本は店頭で見かけたら即買するのである。 |
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大森望・豊崎由美
このシリーズは前のものも読んでいて、そこでお勧めだった小説を買ってみたが、全部あたりだった。だから、今回もお勧めは購入してみた。中原昌也「名もなき孤児たちの墓」、佐藤多佳子「一寸の風になれ」。書店で平積みされていたので、きっとおもしろいのでしょう。だからといってすぐに買うことは普段はないのだけど。 この本には「小説が読める人」という表現がでてくる。文字を読み、内容を理解するというレベルではなく、言葉で表現されているものの意図のようなものまで自然と感じ取る能力についてなのだろうか。そういえば、須賀敦子かだれかの言葉で「まだ、読めてない!」と生徒を叱ったことについての話があった。読めている、というのはずいぶんと難しいことらしい。クラシック音楽好きの人が演奏家ごとにその違いを聞き分ける能力に近いのだと想像するが、そこまで聞き分けられるとよいのかわるいのか。小説読みも同じではないか。 |
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永江 朗 普通に高校・大学を卒業した人が文章を書くと、なぜつまらない、もしくは恥ずかして我慢しがたいものができ上がるのだろうか。書き言葉と話し言葉は違うとはいえ、なぜ新聞雑誌の読者投稿欄やブログの文章は素人っぽいのだろうか。 それはたぶん、表現方法が未熟だからだ。てにをはをはじめ、主語述語、修飾語被修飾語の関係や言葉のリズムについて素人の人は訓練を受けていないからなのだろう。そう、これまで思ってきた。確かに才能の違いがあることはだれだって分かる。訓練のあるなしで絵の上手下手ははっきりと異なるし、楽器などは旋律どころか音さえ出せないから。そうはいっても、言葉は毎日起きている間はずっと使うものなのだから、プロとアマでの違いはもっと狭くてもよさそうなものだ。 この本には、なぜ素人さんの文章がダメなのかを教えてくれる。素人が下手くそな最大の理由は、文章を「自己表現の道具」として使っているからというのだ。自分以外の物事を対象としているはずが、実際のところは自己表現のための文章になっている。つまり、「自分はこう感じた、こんな行動をした、こんな自分はめずらしいだろう」というものになっている。そんな事例を挙げて、どうすればおカネと交換できる文章になるのか、そのステップを見せてくれている。 結局のところ何がいいたのか。それが「自分」についてなら自己表現。自分についてではなくとも「どこかで聞いたことある、知っている」ようなことならば、わざわざ新たに書く必要はない。そんな判断はむずかしくない。その文章をおカネを払って読むかどうか、その文章が掲載される雑誌や新聞を買うかどうかで判断すればよい。大抵は、知りもしない人のことなどどうでもいいことなのだ。なるほど。流れるような文章を書く必要も、美しい表現も普通の人にとって大切なことではない。ないよりマシだという程度なのだ。それより、何について書くか、そして実際何について書かれているか。 では、なぜ自分の書いた文章の悪いところに気がつかないのだろうか。それは自己表現を目的とした文章を読む機会がほとんどないことが理由だろう。新聞雑誌など社会で流通しているのはプロの文章は情報伝達やエンターテイメントを目的としたものである。素人の文章など、そうとうな事がないぎり読む機会はない。だから、いざ自分で文章を書いてもそれがダメな例と比較できないから、自己表現もまた他人が読むに絶えるものだと勘違いしてしまうのだろう。 書かれた文章は他人の頭で「考えるステップ」を定義したものだろう。読む行為はすなわち考えるという行為である。著者の思考プロセスが読者の頭中で「再生」されるのだ。主観的なものは嫌われる理由は頭の中を乗っ取られるから、ということなのだと思う。人様に読まれる文章を書きたいならば、文章読本よりも何について実際書いているのかを確認するクセだろう。手っ取り早い方法が「客観」ということで、なんてことはない普通のエッセイの書きかたの正当性にたどり着いてしまった。 |
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鴻巣友季子 明治大正の時期、どんな翻訳書がうれていたのだろうか、また、訳文の質はどの程度なのか。大森望さんの本にこの本が紹介されていたので早速購入したのですが・・・。 日本は漢文をずっと読んでいたのだから外国語からの翻訳というものがあったんじゃないかな。その考えは間違いですね。翻訳しないで「レ点」で読んでしまっていたので。翻訳しょうという発想すらなかったんじゃないか。そもそも、文章が娯楽になっていないのだから楽しく読むなって発想は明治までなったのでしょう。とすると、明治になって初めて遭遇した翻訳、人によっていろいろ態度がとられたのでしょう。そのあたりの苦闘の一端をこの本は紹介してくれています。 翻訳者にもいろいろいたようで、感動したのは「一回全部よんで、心に残ったことをベースにかいてみました」というような、それ翻訳?、というものもあったようです。本人も「翻訳だとは思っていないが、創作というわけでもない」というスタンスを表明しています。あるいは、外人の名前は覚え難いうということから、全部日本人名に変更してしまうという方法もあったようです。フランダースの犬の主人公は清、犬はブチであったというのは最初の翻訳書ですが、これは「トリビアの泉」で放送されていました。 他の国ではどうだったんですかね。例えば、アラビア語からラテン語への翻訳なんかでは問題にならなかったのか。中世で学問的なものはヨーロッパから消えてしまって、アラビア語として残っていたものを再度ラテン語、ギリシャ語に翻訳しなおしたものが現在の学問の基礎にあるはずです。まぁ、数学関係は対して問題ないとしても、『アラビアン・ナイト』なんて、問題ないのか。日本語への翻訳のときだけに、おかしなことが起きているわけでもないだろうに。 |
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須賀敦子 須賀敦子さんの全集が文庫本で刊行されはじめた。1巻目は「ミラノ 霧の風景」と「コルシア書店の仲間たち」が中心である。両方とも文庫本で一度読んでいるのだが、一冊1000円だし、きちんと全部読んでおきたい作者のでまた購入してみました。 須賀さんの文章はすごいのです。私は文学など学問に成りようがないと思っている人間です。音楽とおなじように文学ではなく文楽(ぶんがくと発音したい)とするべきだと思っているくらい。でも、須賀さんの文章は「文学ってあるのかも」と思わせます。表現がスゴイのです。 表現が「例え」だと思っている人がいますよね。仰々しい飾りをわんさか文章にのせて「なになにのように」とする人。ああいうのは大嫌いです。わたし、あれが文系の人がやることだと思っていました。でも、須賀さんの表現は違いますね。何を書く、何を書かない。そして、視覚的に最小限にそえられた比喩があって、それで「ぐっとくる」文章になっています。感情が伝わってしまう。そういう文章なんです。言語能力というのは、こういう風に言葉を操れる人なんでしょう。だから、ひたすら勉強になります。私が体験もしたことない時代と国と人の行動を、もう知り合いのように感じさせるエッセイばかり。 ちなみに、解説を池澤夏樹さんが書いていますが、この解説も感心させられます。なぜ、須賀さんの作品がしっとりとして、最後には物悲しいのかその原因が分かります。それは、自分の青春時代の仲間を、その人たちと一緒に生きた日々を数十年たって振り返るからです。時代も人も思った方向には動かない上、自分たちも歳をとっていく。だから、物語の最後はなんとなくたそがれてしまう。それをある種の感情を抱きながら読む。そういうからくりなのだという。確かに。 |
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池田清彦 哲学者との対談はつかみ難い言葉が踊るのでつまらない。話している本人は楽しいのだろうけど、一般向けの対談としては分かりにくいものだろう。もっとも、掲載雑誌は哲学系のものなので、それに見合った対談になっているのだろうけど。 |
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池田清彦 昆虫のエッセイや思い出すことなどのエッセイ。これまでのような「世の中に向かってホントのを事をいってしまった」という感じの本から外れていた作品を集めた感じがあります。結構な昆虫マニアでないと面白くない感じがします。というか、私はいまいちだった。 逆の見方もできます。反面教師としてこの本を見ると、どういう文章をかくと読まれないのかがわかります。冒頭から自分の興味のある内容をずらずら書く、有名でない固有名詞や日付がずらずらつづくとか。文章って、書き出しが大切ですね。想定する読者が知らないであろう事や自分の好悪の対象から書き始められたものは「絶壁」みたいな気分がして、好きな作家の文章でもとても読む気にならん。勉強になりました。 |
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池田 清彦 西條 剛央 池田さんの後継者のような演出がされている「西条さん」という心理学者との対談です。西条さんは池田さんフリークのようです。ただし、若手研究者としても有望な人のようですね。 とはいえ、対談が面白いかといわれると、いまいちでした。すみません。構造主義の話で盛り上がるのはいいのですが、池田さんの本を読む以上の情報は入手できなかった。別の角度からの情報が入るかといえば、そんなことはない。お二人は楽しいのだろうけど、部外者はピンと来ない。よいしょしているわけではないのだろうけど、読者は引く。そもそも西条さんの新刊の宣伝じゃねぇか、と思うような箇所も多々ありましたし。 もう、池田さん関係の本、面白いものは残っていないのかなぁという予感がしてきました。 |
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茂木健一郎 茂木さんの本を懲りずに読んでみた。最近、マスコミで良く見かけるので、当然忙しく、必然的に書くものがつまらないものになっている。忙しいことの代償とはいえ、読者としては寂しい限りである。この本も雑誌に連載されていたエッセイを束ねたものであるため、さほどの期待はしていなかった。 さすがに、一つ前に読んだブログよりもきちんとした書きかたであった。プロといえでも、ブログの文章って読むに絶えないものなのだ。雑誌とはいえ、同じようなテーマを扱っていながら文書の仕上がりには違っている。ところが、このエッセイも「いまいち」感はぬぐえない。一言で言えば、エッセイを書くための「コスト」がかかっていないのだ。エッセイのきっかけは自分の体験であったとしても、そこから生まれるものには「考える」「思い出す」「調べる」「工夫する」など、コストがかかるはずなのだが、この本を含めて、対してコストがかかっているようには思えない。思ったことを書いているだけだから。 感動したという事実を書くこととしてもだ、「その感動を伝えよう」という工夫がまったくない。何時から茂木さんこんな下手くそになったのだろうか。年齢を重ねたせいか、「道徳」や「説教」といった世間に対する愚痴も多い。何もおカネをはらって読みたかないよ。 小説を書いても、考察を書いてもちゃんと時間をかけているであろう文章は面白いのだから、忙しいのだろうけど、もうちょっと時間をかけた作品を書いて欲しい。このままだと齋藤さんのような感じになってしまうようで、心配してしまう。 |
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池田清彦 昆虫についてのエッセイ集。エッセイというより、哲学を語っている。知的に熱いなぁ、この人。 構造主義生物学、構造主義進化論を実際の昆虫をつかって説明している。ただし、生物学という科学の教科書とは全く異なり、哲学的論証を行っている。昆虫と構造主義って、一体なんの関係があるのだろうか、そもそも構造主義って何よ。そういう私もで「あぁ、なるほど。確かにDNAは主役ではないね。」といたく感動した。言葉によって、あるいは、考える対象領域の慣習にそって何かを考えるときにも、大いに参考になる発想を知った。まったく有り難いことである。 哲学的な思索といっても、自分が集めた虫の話、食べたことにある昆虫の話など、身近なところから話がスタートし、意味不明な「哲学を説明するときによくでてくる意味不明な単語」が使われてない。だからといって、中学生向きだとは思えない。逆に言うと、言葉も話題も身近なものを使っても、「常識」と思っていたような考え方を覆す説明が可能なのだとというよいお手本であろう。 |
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養老孟司・奥本大三郎・池田清彦 軽い感じでの鼎談。人の話が面白い条件の一つには、語っている人の好きなことを語っていること、というものがあると思っている。講演会でも授業でもそれは成立する。本でもそうです。学校の授業が面白くない最大の理由は、そもそも先生自身が教えている内容を「面白い」と思っていないからです。まぁ、そういうこと。その点、この本はこの人たちの好きなことしか語っていないので、虫について興味を持っていなくても、興味を持ってしまうくらい面白いです。ためになるというよりも、楽しく時間を過ごすための本です。 |
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竹内薫・茂木健一郎 文庫だから新刊なはずはないよなぁと思い、ぱらぱらめくってみると「茂木さんが初めて書いた」といある。昔出版された本を再編集したのだろう。読んだことは無いので、買ってみた。 正直買わなくてもいいように思う本だった。売れっ子になった後に出版される本は、気をつけないといけないなぁと、改めて思った。 |
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茂木健一郎 茂木さんのブログを再編集してまとめた本。当然だが、エッセイの原形のような記事である。自問自答や怒りをぶちまけているような者があったり、前後関係の説明がはっきりしないものがあったりする。茂木さんのような方でも、ブログって粗削りなものなのだと分かる。しかし、幾ら再編集したとしても、1500円は高いかもなぁ。 最近はきっと忙しいのだろうから、あまり多くの本は出版できるはずはないと分かっていながら手をだすと、やぱりがっかりしてしまう。 |
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池田清彦 一般公演を本にしたもののようである。生命の発生について、人間社会についてをテーマに「ですます」調のやわらかい説明である。だからかもしれないが、「なるほど」というズバっとした切り口は少なく、物足りない感がある。ただし、根尾・ダーウィニズムはうそであるということや構造主義生物学のさわりが語られているので、取っ付きやすいかもしれない。ただし、その説明は別の本にあるものなので、何冊か池田さんの本を読んだ事があるのならば退屈するかもしれない。 |
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池田清彦 池田さんの著作は、別の本を読んでいると予言がでている。というか、気になったたびに別の本でまとめて書いている。だから、一冊よりも多くを読むのが楽しい。関連していることもあるが、一人の人がどう考えを構成させていくのかを知ることができるから。 この本もまたまた「身も蓋もない」ことばかりである。科学というか、論文を書く世界で時を過ごしたことがある人ならば、誰でも感じる疑問や矛盾点をずばり言葉で表現しているから。そういう発言ができる理由は、おそらく、(1)高額な研究費を必要とする研究をしていないこと、(2)経済的自立の基板を持っていること、があげられるだろう。この2つのことは、科学を遂行するうえで実は前提になるものなのかもしれない。職業でやる人は「結局自分が偉いをことを見せびらかしたいだけか、だれかに媚て金をもらおうとしている」ことが本当の動機だから。ただし、こんなこと言ってしまうと「身も蓋もない」のだ。 ”要するにパラダイムが確立して、学会が設立され、学会誌が刊行されるようになると、凡庸で保守的な研究者は有利になるが、天才的で革新的な研究者は不利になりやすい。制度化され細分化された科学は、凡人の凡人による凡人のための科学なのである。” ”加速器の建設というのは、とてつもなくカネがかかる大事業である。最新の加速器を造るには数千億円以上のカネがかかる。それでは、次々に新しい加速器を造らなければどうなるか。素粒子物理学は新しい情報を生み出す力が衰えて、魅力を失い、優秀な人材の流入がストップして、衰退せざるを得なくなるだろう。 ”科学に優秀な人材が集まらなくなると、モノとカネをつぎ込んでも、質の高い情報を産み出すことが困難になってくる。これは、科学から情報を資本として、新技術、新製品を造り出し、金もうけをしようつする資本主義にとって由々しき自体である。” ”例えばノーベル賞をとるためには、ほかのことにはわき目もふらずに研究しなければならない。競争に勝ち抜いてノーベル賞をとって、社会的な発言力を獲得しても、政治や経済や社会や文学や芸術に対する知識は素人と同じであるから、発言を求められても、そのへんのオッサン以上のことが言えるわけのものでもない。” ”科学者がエリートであり続けることと、科学が自己増殖を続けて科学者の数が増えることは矛盾する。科学の自己増殖性は科学のバブル化と空洞化の原因なのである。” さて、これだけ身も蓋もない、かつ、本当のことを言われると目が覚めるし、自分の立ち位置をはっきり把握することができる。そして、自分がやっていることをさめ目で見れるようになる。だから、多く科学・工学の専攻のヒトに読んでもらいものだなぁ。 |
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池田清彦 身も蓋もないエッセイ集。他の本よりもマイルドなのは、掲載していた雑誌のトーンに合わせたためなのかもしれない。池田さんの主張は「全く自然」に感じるのは、根本的なところで似た価値観を持っているからかもしれない。もっとも、私は普通の人なので、比べることはおこがましいのだが。例えば、 "会社でイヤな役目を今年か来年引き受けなければならないとしよう。上司はきっとあなたにこう言うだろう。「どうせやらざるを得ないのだから、早くやってしまった方が精神的に楽だよ。それに、客観醸成からして、来年は今年より大変なのは確実だからね。」でもねぇ、と私は思う。会社今年の暮れまでに潰れてしまうかもしれないし、あなたも今年中にリストラされてしまうかもしれない。それいそのイヤな役目は会社の都合で今年限りで廃止になるかもしれないではないか。” 全くその通りである。あるいは、 ”最悪なのは、子供はみんあキラキラしたすばらし才能をもっているという何の根拠もない予断の下に、すべての子は個性を発揮して輝くべきだ、といった愚にもつかない思い込みを子供に押し付けることだ。断言してもよいが、ほとんどの子は人並みの才能しか(すなわち何の才能も)もっていない。” 人間の現実を直視し、現実の社会をマスコミの押し付けをはがしてみれば、そうとしか言い様がない。政治や社会に悪など存在しなくても、普通の人で構成した社会が「機能する」ことが軌跡な感じがする私には、子供だからといってなにか特別な存在のように扱う「物語」と「その物語のフリーク」には私もうんざりしている。実に池田さんの言っている意味がわかるのだ。 |
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池田清彦 生き方の指標である。基本原理は「対称性」。ある人の主張が「よい」か「わるい」かを判断するのに「対称性」があるかどうかを探すとよいのだ。しかし、そもそも、あらゆることに「絶対的な根拠などない」ということをお忘れなく。なぜ人を殺してはいけないのかという言葉が流行したときに、宇宙の視点からながめると「そんな根拠は存在しえない」という私なりの結論と通じるところがあったので、池田さんとは気が合うかもしれないと思った。 ”法律を守るためにだけに法律を守っているのはバカである。” 身もふたもない。先日も車が全くこないのに赤信号で待っていて、青信号になったら脇目も振らず全速力で自転車を横断した小学生を見たが、あれはろくなヤツにならんだろうなぁ。 |
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池谷裕二 暇つぶしには良いエッセイなのだが、池田清彦とかベンヤミン・フルフォードとかを読んでいる最中に読むと「なんとつまらん本なのだ」と思ってしまう。もちろん、この人は一流の科学者であり、エッセイの内容も最近の研究雑誌からネタをとっているので、サイエンス・ライターさんのものよりも質は高いだろう。私個人が読むタイミングを誤ったのかもしれない。 みのもんた的な「こうすると健康に良い」という話は、例え確からしいものであっても、どうでもよいと思う私にとって、興味深いエッセイは「血液型」に関する考察についてであった。A,B,AB,Oという血液型のバランスはシミュレーションを行うと将来一つの型に収束するのではないかという結果がでたというもの。現在の血液型構成比は過渡的なもので、O型の人は減るだろうということだ。だからなんだ、という気もするのだが。 つまるところ、本にして読むほどのことではない。本人も「口述筆記」したと言っているくらいだから、要するに与太話である。 |
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万大 どうすれば通勤電車で座ることができるのだろうか? このテーマでのメルマガを再編集して解説イラストを付けた本である。半分冗談か、あるいは、著者固有の環境にしか役に立たない記事かと思いきや、電車に乗る人ならば無意識に実施しているような小技が解説されていて、誰にも役に立つ良い本だと思う。いかなることでも前向きにユーモアを交えて考察すれば、よい作品が生まれる可能性があるという教訓になりそうな本である。 解説されている方法では、始発にのるとかそういうくだらないものはなく、どの列に並ぶとどうなるのか、どの車両の出口に並べば良いのか、どういう人の前に立てば良いのかまで考察されている。たとえば、本のしおりに手をかけている人、身だしなみを整えている人、アナウンスの直後に目をごしごししている人などは、おりるサインであるとかそういう内容である。たしかに、そのような傾向はある。自分がそのサインを発していることもある。 日常のなかにも、考察対象はあふれているのだあと関心しました。 |
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池上嘉彦 放送大学の教材を一般書に編纂し直したものということで、内容は気軽に読むにはちょっと高度なものにまで達している。といっても、専門書に近いという意味ではなく、電車で気軽に読むには読者に要求される英語のレベルと文学的指向のレベルについてである。文学を学ぼうという姿勢の人には、気軽に読めるような内容なのかもしれない。 私が興味を持ったのは、the と thatの類似である。the -> 単語、that -> 節という説明は、分かりやすかった。なるほど。でも、知ったところでどうかなぁとう話ではあるが。こういう機械的な内容ばかりでなく、I belive John honestと I belive that John is honestのニュアンスの違いのような説明も結構あった。表現の話ですね。 ただし、全体的に言えば、全体として「テーマが散乱」していて、読者層も絞れていないような、中途半端な印象を持ってしまった。新書としては×ですね。 |
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齋藤孝 どうしたんでしょうねぇ、齋藤孝さん。全くダメですよ、この本。この本の言いたいことである、「面白かった、つまらなかっただのの読書感想文はやめて、その本の要約となる作者の言いたい部分を探し出し、それを何かの機会に引用できるようにせよ」には十分頷けるのだが、それは3色ボールペン以来の主張だから得に新しいことはないし、もう何冊も本を出している。この本は、その実戦例なのかもしれないけど、内容がいかにも薄い。週刊誌の連載記事だからで済ませることも可能かもしれないけど、齋藤さんの本に対する姿勢はずいぶんと落ちたんだなぁと関心するほどである。 この本の感想を言えといわれれば、いやぁ、TVにたくさん出演するということは怖いことですね、ということか。 |
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塩野七生 読むのは2回目である。イタリアへ出張した帰りの機内で読んだ。この本を読むのは2回目であろうと思う。少ない理由は、冒頭の数章がイタリアの時事問題に関するエッセイだらであろう。ただし、それ以後はイタリア以外にかかわらず普遍的な内容の話が扱われており、どちらかといえば哲学的な記述が多い。哲学科卒とうことを自信の一つにしているらしい塩野さんのおどけのような書き出しから、一気に考え込ませる内容へと引っ張られていくエッセイは、人生勉強に近い。 私は多くの人と関係する仕事をしていないためか、古代から現代まで一貫している人間の問題を考えるきっかけはあまりないので、こういう本は大切なのだ。 |
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大森望・豊崎由美 この二人の評論、なるほどなぁといつも感心させてもらい、本を買うときの参考にさせてもらっている。小説ってのが、「プロの技」ということを評論を通して教えてもらっているのである。こうして読書メモを付けることが馬鹿くさくなるくらい、評論している人は読み取っており、そして、文学にはあまりおつきあいをして来なかった私は読めていない。そういうことがこの本を読むと身にしみる。芥川賞も直木賞も、その選考員の発言をかんがみれば、受賞本が「よい本」だとは限らないことがよくわかる。もっとも、この本を読んんで買った本は一冊だから、私は小説好きではないのだろう。 お二人には是非とも、定期的にこういう本を出版して読者層を啓蒙してほしい。本を読むには時間もおカネもかかるので、どうせならば「よいもの」を読んだほうがよい。つまんないもので人生を潰したもったいない。ある年齢に達すると時間がなにより大切なので、読書のためのフィルターがなによりも貴重なのだから。 |
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梅田望夫 シリコンバレーで働くうちに自分が変わっていくことに気がついた。その変化を手紙という形で日本の雑誌に連載していた著者のエッセイ集。内容は技術というより、シリコンバレーの内側の雰囲気をそこで働く人との接触によって描いたものである。何より、日本語が読みやすい。 "相手は「お前は何をやっているのか」「お前のアイディアはなんだ」「お前の価値はなんだ」「お前は今まで何をしてきて、これから何をするのか」、先を急ぐように、私という「個人」を引っ張り出そうとするからであった。” 会社に所属する一人としての自分の役割を求めようする私には、ちょっとひるむ環境である。また、本書の中に、ゴードンという人の会話のなかに、はっと気付かされるシーンがある。 ”「これで会社を辞めて一人でやっていく権利ができたよ」と何気なく彼に話した。その時、ゴードンの表情が大きく変わった。」「そうだんだ。何でも何でも、すべては個人の中から生まれるんだ。会社からじゃないんだ。価値を生み出すのは会社ではなく個人なんだ。日本人でそういうモノの考え方をするヤツに初めて会ったよ。」彼は急にまくし立てるように話した。” 人が集まって価値をつくる事が「大切」なものだという考え方をしてきた。もちろん、その通りではあるのだが、それは組織の傘の下にいないときをさすのであって、組織の中で団子になって生きていくことはないのだ。集まってするからこそ「お前は何ができるのか?」が大切になるのだ。決して「比較により自分のポジションを確認する」ことが目的ではないのだ。
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茂木健一郎 食についてのエッセイ集。Webマガジンで書いていたものをまとめたもの。気軽に読める。エッセイの前半は、クオリアを軸に「食」を解説仕様としている。エッセイなのに解説を試みているので、ちょっとつまらない。一方、後半は思い出と食の自然な繋がりを書いているので、面白い。結局、エッセイもある種のクオリアを求めているようである。少なくとも私は。 この本を読んで、お酒を覚えたくなった。「ただ好き」というだけという人がたくさん存在するのだから、実は良いものなのだろう。お酒に触れる機会があまりない自分の生活に、少し楽しみを増やそうと思う。食べるものがなくてもいいから、お酒を飲みたい。アル中までは困るが、生きている楽しみの一つを知らずして死んだらもったいないから。 |
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大前研一 よく出かける人は、良いところを知っている。世界的企業をまたにかけて半端ではない数の海外渡航経験をもち、かつ、現地で一流の人と交渉を行ってきた人ならではの「海外旅行お薦めスポット」の紹介となれば、ちょっと興味を持ってしまう。おいしい店、知られざる場所など、期待してしまう。ただし、きっと「超高級」と名がつくようなレストランばかりだったらがっかりなのだが。 紹介されているところは、確かに高級なところが多い。ベネチアの「ダニエリ」なんて、そりゃ泊まりたいけど「分不相応」という気がする。実際問題普通の人がいけるかどうかは不明なのだが、紹介されている内容に「嫌み」がないのがよい。芸能人などがこういうものを紹介すると大抵腹が立つのだが、そこは大前研一さんだけあって、「普通の人が読んで、へぇ」と思えるように仕立ててある。OLグループならば「じゃ、行ってみようか」といいそうな感じの本である。 でも、この本の価値としては、大前さんが学生のときに「通訳バイトを通じて身に付けたことが、私の人生の基本になった」という、有名な話を実感させる文章であり、証言である。これらがコラムになっている。学生時代って、偶然の出会いでもあるよなぁ。 この本は写真も多いし、文章も易しいので気軽に読めます。リラックしたいときにお勧めかな。ちなみの、私は「ベネチア」に行って見たくなりました。来年、移行かな。 |
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塩野七生 この本は、イタリアからの帰途に機上で読んだ。これも何度目であろうか。塩野さんがローマ人にのめり込む前のエッセイ集で、ルネッサンス期の作品を書いている背景がかかれている。ローマ人に始めから興味をもっていたのではない、ということがよくわかる。この時期はベネツィア一辺倒。その背景として、ローマ人があるようである。 結局、自分の興味のあることを勉強していくと、興味の範疇の「境界」にも目を配らざるを得なく、それが結果的に興味のシフトを促すようである。浅く広く学んでいたら、結果的に「記憶に何も残らない」実に哀しい人生を過ごすだけのようである。エッセイとはいえ、自分とは別の人の生き方も読み取ることができるものなのだ。やはり、結果を出す人の生き方には物語があるようである。 |
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大竹昭子 須賀さんの軌跡をたどるエッセイ集。須賀さんの文章で紹介された土地、人を巡りながら須賀さんの生き方を理解しようとしている。この本だけ読むとすれば写真がよいかんじなので楽しめるだろうけど、須賀さんの4部作をよんで、その半生に思いをはせることができるのならば、かなり興味をもって読めると思う。 ”「須賀さんは、自分の作品を書く前から、作家のような話し方をしていました」 なるほど。そう考えれば、架空の物語を書いてそれを楽しんでもらえることにもきちんとした「意図」が入り込む余地がある。文学というが果たして学問なのかと以前から疑っているのだが、上記のような「意図」をどう作品に反映するのかという結果を体系化すれば、表現の手法についての学問になる。道具の学問が工学になるように。 そんなことよりも、眺めるだけでも、ローマの普通の風景写真がなんともいえない雰囲気を醸し出しているので、見るだけでも楽しめる本です。 |
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内田百けん 簡素な記述。余計なことがない文章です。扱っている対象は、「鉄」である自分の行動記録なのですが、それでいてユーモア感があるので、楽しく読めるのです。内田百けん自身のおかしさ、同行者であるヒマラヤ山系君のとぼけ。なんだか、不思議な取り合わせの道中です。珍しい出来事など何一つ書かれていないのに、読んでしまいます。だから、とても人には勧められないです。それでも売れているようです。日本語そのものに興味を持っている人ならばたどり着く人なのだろう。 読んだところで何一つ「得るものがない」ような気がする本なのだけど、読んでいることが楽しいのでまた読んでしまう。絵を見るような、おいしいものを味わうような本であって、知識を得る、賢くなるための読書の題材ではない。それでも興味を持ってくれる人にはお勧めします、ハイ。 |
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須賀敦子 不思議な気分になった。私とは関係もなく、時代も違い、しかも職業も趣味も、性別まで違う人の生活の話しを聴いた気分なのだが、どうしたというのだろう。若いときの記憶ならば、良くても悪くても思い出すのは楽しさと哀しさがまざっているものなのだろうけど、ちょっと他人事のようには思えない気がするから不思議なのだ。なんとも、この本の中身については表現しようがないので、この本については別のことをメモしておく。 本の装幀が綺麗ですね。綺麗なままで取っておきたい気がします。ただ、これ古本でかったので、ちょっと古びているのだが。 今、須賀敦子の「ミラノ 霧の風景」という本を読んでる。美しい日本語とはこういうものだろう。文系でもない自分がそう思うほどに、しっとりとしたエッセイ。この本はブックオフで買ったのだが、ちょっと得した気分になる。新刊にはないものが、入っているから。 表紙の裏に新聞の切り抜きが入っていた。この本についての書評である。余枠なしで切り抜かれている。この本のタイトルにマーカーが魅かれている。前の所有者の性格を感じとることができる。そして、本の奥付の上にえんぴつで「91.10.6 秀太の運動会の日に」と書かれている。綺麗な自体。そんなときに、読んだんだ。と想像を働かせてしまう。ちょっと痩せ気味の美人の人だったりして。想像というより妄想か。 なぜ、この本をブックオフに出したのか? 今は2006年。となれば、15年たったことになる。運動会という響きは幼稚園から小学生までだろう。高学年というより低学年か。となると、5ー10歳の頃に読んだ本になる。ひょっとしたら、秀太くんは大学を卒業して就職したとか、あるいは、高校卒業後プロフェッショナルな職業に就き、結婚したとか。あるいは、子供が家を出ていき、夫も定年になり、前所有者が住み慣れた家を引っ越しすることになったとか。 本の中の世界と本の外の世界。丁寧に読まれた本ならば、二つの世界を同時に受け取ることができる。そのよさは、新刊にはない。 |
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須賀敦子 なぜ、須賀敦子という人の評価は高いのだろうか? その疑問が一発で吹き飛びました。確かに、この本は忘れられない本です。これならば、日本の文芸誌に残ります。読んで良かった。 過去の自分の視点、現在の自分の視点、子供の自分の視点と話しごとに縦横無尽に飛び回ります。だから、少しばかりの須賀さんの経歴というか生活を過ごした場所や時代を知らないと読んでいて戸惑うと思います。私は「コルシア書店の仲間たち」という別の本を読んでいたので、おぼろげに須賀さんの過去を知ったのですが、どの本でもいいのかもしれない。 ”カティアが歩いた道”、”オリエント・エクスプレス”。この2編は一生私の記憶に残ると思います。若い頃の何気ないけれども人生の分岐点だった出会いとか、楽しかった人生で最後に残るものは何かとか。著者自ら「あの四冊は書けてよかった」という作品はすべて60歳を過ぎてからのものです。なるほど、だからストーリーの結末が物悲しいのでしょう。未来から過去を見ると、「あぁ」という哀しさが溢れてしまうのでしょうか。私にはまだわからないですが。 合間をみて、須賀敦子さんの作品は全部読んでみようかなと思います。そう、思わせる一冊です。 |
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須賀敦子 連想記憶のようにつぎつぎと思い出される著者の回想。若い頃の不安とあかるい風景とが交差することで、印象深く残る。教訓も学習も、悲劇も喜劇もないのだが、なにか自分とは全くちがう人生をあるいている人がいるのだなぁと感慨をもってしまう作品。ようするに著者がイタリアで生活していたときの思いでと現在の生活とが描写されている。トリエステに行ったときの記憶ではないかといえばその通りなのだが、20代のちょっとこころもとない日本の女性が不案内な土地でなんとか立ち回る。ぼんやりとした不安のようなものが、読んでいて美しいと思わせるのかもしれない。うまく、説明でないのだが。 一つ気になった個所がある。文体についての話。 |
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須賀敦子 若い頃にイタリアに留学?し、ひょんなことからミラノの書店に関係したことで知った人たちに関するエッセイ集。別の本で見たことがあるのだが、須賀さんの若い頃の写真はとってもかわいいんですよね。キュートという言葉がぴったり。そんな感じではあっても文学要素としては一流のものをお持ちだったので、本も出版している書店で一定の役割があったのでしょう。かわいいけど、頭がいい。しかも、日本人。そんなアンバランスさもあったのかもしれませんけど。 1960年代から70年代にかけて、若者ではなかった私には、この時代の世界の動きは良く知りませんし、ピンともきません。だから、書店の人たちの社会的な位置づけというのはよくわからない。まぁ、職場の変わった人たち程度の認識しかもてません。それでも、ちょっとほろ苦い感じのする人生の断片を垣間見れた気がしています。 須賀さんのエッセイって、最後は哀しい感じなんです。しかも、昔話が終わると急に現在に引き戻される感じがします。それが、この人の文章の味わいのあるところなのでしょうか。知識をもとめて本を速読する私には、ちょっと戸惑いと魅惑とを感じる本でした。 |
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若桑みどり 美術史家の若桑みどりさんのエッセイ集です。10年以上前のものだし、扱っている話題が自伝につながるものが多いです。若桑さんはずっと美術史教授だろうと思っていたのですが、語学教師として20年以上も生計を立てていたのですね。しかも、二人の息子さんを女手で育てている。そんな環境だったから、嫌らしい感じのしない骨太な美術解説をされるし、フェミニズムについての発言も多いのでしょう。イコノグラフィーの本を読んでいるだけではわからない一面を知ることができました。 芸大の音楽科で語学教師を20年以上しているのならば、その間に美術史家としての業績を積んだことになります。それはスゴイ。日々の雑事にかまけ、時間がないという言い訳でなにもできないまま歳をとってしまい、あぁ運が悪いなぁ、と現世を恨むのが普通の人です。嫌なことが多い日常だったのでしょうが、それでも結果をしていく。その結果は甘いものになるはずはないでしょう。 絵は何年も生きてきた人でないと理解できるはずはない。だから、子供にはわからないのだ。そう主張されているところがあります。子供にもわかるのは生物学的な「色彩」の世界でしょう。いわゆるグラフィックデザイン。現在でクリエーターと呼ばれる人たちのつくる雑誌紙面は綺麗ですけど、質量を感じるもものがないのは、子供でも理解できるものだからでしょう。芸術にはならないのかもしれない。 この本のタイトルは、齢を重ねるときに噛みしめる「生きるコツ」なのかなと思いました。 |
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野口悠紀雄 連載100回を迎えるというタイトルのエッセイにつぎのようなことが書かれている。 ” また、書き始めてから思いつく事項もある。仕事にとりかかっていれば、食事中でも出勤途中でも、無意識のうちに考えが進む。寝ているときでさえそうである(朝、目がさめたときに、アイディアを思いつくことも多い)。このような「熟成期間」を作るためには、少しでも早く仕事にとりかかるほうがよい。” これは本当にそうである。私もそういうことがよくある。今朝も朝起きたときに考えていたことは、昨日一に考えていたことの続きであった。「考えよう」と意識しなくても、考えちゃっているところが人にはあるようだ。 小説や映画の脚本は、初めに誰かが考えたものである。観賞していくに従って生み出されているわけではない。では、作者はどうなんだろうか? 時間順に考えていくのだろうか。それとも、空から地上をみるように、過去と未来とを一度に見るような「視点」からストーリーを組み立ててしまうのだろうか? 私はそのようなものを作成したことがないのでわからない。 有名な画家の「素描」は興味深い。考えている途中がみえるから。ダ・ビンチも対策の部分をスケッチという形で残している。有名な「最後の晩餐」の登場人物の素描はウインザー城図書館に結構残っている。ピカソの絵も、X線で覗くと途中で上塗りした絵が見えてくる。やっているうちに変わっていくのだ。最初から完成していたわけではない。 野口さんのエッセイはつねにネタ帖をもとに書いているそうだ。しかし、書いている途中で話しが変わってしまうこともあるとのこと。それが普通なのかな。 |
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野口悠紀雄 この本は古本として購入した。表紙の裏に「謹呈 著者」という札が入っていた。関係者の方がamazonマーケットプレースに流したのだろうか。まぁ、100円だからどうでもいい話しなのだが。 ”小泉劇場”の構造崩壊という見出しのエッセイに「物語の構造」の説明が書いてある。野口さんは無類の「指輪物語」好き。別のエッセイ本で「風の谷のナウシカ」についての小論文も書かれていたので、ファンタジーもお好きのようだ。その野口さんは次のように言う。人気がでる物語は必ず次の構造を持つと。 物語の5つの要素。(1)主人公が故郷を離れて旅に出る。(2)旅の途中で仲間が加わる。(3)敵が現われる。(4)最終戦争で勝利を収める。(5)故郷へ帰還する。 物語と映画の話しがこの巻では多かったようだ。 |
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野口悠紀雄 数学よりも先に論理手思考力と題されたエッセイの中で次のようなことが書かれている。 ”もし論理的思考力を身につけたいなら、論理学の基本的なルールを習得するほうが重要である。たとえば、「逆は必ずしも真ならず」というようなルールだ。これは、形式論理の最も初歩的なルールだが、日常の会話や文章では、実に頻繁に無視される。つまり、必要条件と十分条件を混同してしまうのだ。 よくよく考えると、自分も良く間違っていることに気付く。とくに、逆も真なりという論法を考えてしまう。対偶ということばは知っているが、数学の枠のなかでしか意識しない考え方になっている。つまり、せっかくアリストテレスが遥か昔に整理してくれた道具をいまだに使いこなせていないのだ。これでは2300年後に生まれたメリットを生かしていない。人類史に申し訳いない気もする。 このエッセイを読んで一つだけ実践しようと思っている。それは、せめて「形式論理」を一端確認した上で「何らかの発言(言い切り型のもの)をしよう」ということである。エッセイも勉強のために読んでいるのだから、実践に投入してその効果を観測していこう。そんなことを考えました。 |
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野口悠紀雄 野口さんが提案する方法のダイジェスト版。安直に紹介している本という気もする。何れにせよ、新しい内容はない。だから、あまり評価しない。ただし、押しだしファイリングなどの方法を全く知らない人には手早くまとまっているので有益かもしれない。その他、「超」整理手帳やWWWリンクの紹介と、98年当時の情報、そして、編集者のコメントなどがある。だが、そんなに面白いものではない。 |
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野口悠紀雄 ご自身の書斎などの写真が載っていた。平机でなければならないそうだ。全くもって同感。北向きの採光窓も共感がもてる。そのなかで次のような文章があった。 |
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野口悠紀雄 この巻も面白い。野口さんが面白いと思って書いているエッセイは本当に面白い。時事批評は評論などはつまらないのだけど。この巻は教育についての話しが多かった。 とりあえず、この原著をアマゾンで購入しましたので、それを読んでみて精神のレベルと文章のレベルの相関を味わってみよう。そんなことを考えました。 |
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野口悠紀雄 先週読んだ「超」整理日誌シリーズの2冊はつまらなかったのだが、この巻は面白いと思った。「ためになること」や「こうするべきだ論」ではなく、野口さんの好きなことについて語っているのが原因でしょう。星のこと、スコットランドのこと、そして、昔の話など。その人が本当に好きなことを語っているのを聞くのはとても楽しい気分になれます。内容を通してではなく、直にその人の感情が伝わってくるから。人は楽しい人が好きなんです、幸せな人と一緒にいたいもんなんですね。 「もし星空が千年に一度しか現われないのなら、人々は神の都である星空を信じがたいものとして崇め、幾世代にもわたってそれを語り継ぐであろう」(ラフル・エマソン) |
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野口悠紀雄 雑誌連載エッセイをまとめてある。書名に魅かれる。私ならば何をもっていくのだろうか。数学概論かな。一度じっくり読みたい本だろうけど、実際問題死ぬか生きるかというときには何を選択するのだろうか。野口さんは「星図」だそうだ。なるほど、粋な解答。 この本では珍しく愚痴がかいてある。マスコミの批判について反論している。ある水準を超えている人ならば、野口さんが弁解しないのでも、野口さんの著書の素晴らしさはわかる。ほっておけばいいのにと、私は思う。ただ、「このようなやからは相手にしないでおくと、さらに追求してくる。だから反論するのだ。」そのような態度にでている。なるほど、そうなのかもしれない。 一方で、「アルジャーノンに花束を」を名作であるとエッセイで書いたところ、それを「十代の小娘ではあるまいし」と批判されたことについて書いている。これは、福田和也という人の新書で「こういうバカ教授がいるからこまったものだ」というという例として書かれているのを読んだことがある。このK.F氏は典型的な「おれってすごい」的な人だと読んでいくうちにわかったので、他の新書を購入するのはやめた。どうやら私は野口さんの方と馬があうようだ。 |
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野口悠紀雄 「超」勉強法にあった「速読」で読んでみた。といっても対した方法ではなく、音読しないで読むだけ。あとは無意識レベルが言語の解釈をしてくれると信じて読む。いや、80:20の法則を信じて読む(キーとなるのは全体の20%のみというもの)。連載エッセイだから「思いを込めた」文章が少ないので、この方法でよんでも読み飛ばしたとは言えないであろう(と信じている)。 本書は2部構成になっている。1部は連載エッセイ。2部は「風の谷のナウシカ」を語るというもの。圧倒的にナウシカの方に勢いがある。もうちょっと書いてもらって別に出版してもいいんじゃないの。そう、思わせる。 |
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野口悠紀雄 野口さんのエッセイ集。雑誌に掲載されているもの1年分を1冊にしてある。これまで読んだ「超」シリーズとちがい、面白くない。無理に話しを膨らませている、あるいは、他で読んだ話しが紛れいている。なんか、損した気分にもなった。 なぜだろう。恐らく、「締め切り」に合わせてエッセイを書いているからではないだろうか? 他の「超」シリーズは、書かんでええのに書いたのだが、連載エッセイは締め切りがあるために書いた。そんな感じがする。時事ネタを発端として、別の話しにつなげていく。最後はいかにも「まとめ」のような記述になっている。冴えないなぁ。 |
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野口悠紀雄 日経に連載されていたエッセイを下敷きにしたものです。内容はばらばら。「時間」をキーにしているということですが、科学あり、経済あり、歴史あり、文学あり、音楽あり、思いであり。新聞で読む程度の深さの小品がそろっています。 この本では、それぞれのエッセイの後で、「あとで考えたこと」というエッセイが書き足されています。新聞紙面では文字数が制約されているので書けなかったことや、後日談です。そこで、あることに気づきました。 なにかを説明するとき「たとえば、〜という本に詳しく紹介されている」というような本の紹介です。自分の視点だけではく、本の内容を下敷きにすることで内容に「普遍性」を持たせている。研究論文では「あったりまえ」のことです。ただ、エッセイではやり過ぎるとうるさくなる危険がありますが、巻末に参考文献としてあげるよりも「どこを読んでどう考えたのか」がわかるので、このような紹介はうれしいものです。 |
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野口悠紀雄 旅行のときにすると良いこと。哲学的なことでも詩的なことでもない。著者の備忘録がそのまま本になっている。例えば、どのような荷物を持つべきか、出かけるときに注意することはなにか、どのようなホテルに泊るべきか、どうやってレストランをさがすのか。「旅行のしおり」のような本にある、誰にも当てはまるようにしたために記述が抽象的になってしまった、という本の対局です。具体的。というより、著者はこうしている、という紹介です。 ミシュランの使い方。電車の乗り方。ホテル予約のFAXの例。現地での行動パターンなど、普通の人の目線でおしえてくれてます。読んだときに意味なく旅行に行きたくなりますね。 旅行好きの人の嫌みな本ならお断りなのですが、「超」シリーズの他のホント同じように、簡潔で信頼できそうな内容です。お勧め。 |
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養老孟司 バカの壁の新作。というより、一人語りによるエッセイ。養老さんの本を読んでいる人ならば、違和感を持たない内容。おそらく、どこかで断片的に語っているのを聞いたことがあるであろう。バカの壁のときもそう思った。両者は内容として同じ推薦評価があるのだが、こちらの本は売れるのだろうか。 本文中に、普段から私が思っていることがそのまま書いてったので、引用したい。 |
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赤瀬川原平 1月1日からブックオフは開店する。毎年ついふらふらよってしまう。ちなみに、初詣は行かない。100円コーナーにはたまに掘り出し物があるので、漁ると楽しい。取りあえず、この「老人力」を手にとってみた。この著者は少しかわった視点をもっているので面白いのだし、損はしないだろうと思ったが、それが間違いだった。 びっくりするほどつまらない。年をとって、物忘れがおき、また、「ま、いいか」的な緩い発想ができるようになることを「老人力がつく」と言うらしい。それはそれで面白いのだが、このエッセイはそれをコアにして、私はこんな物忘れをしてしまったということをゆるゆると書いている。それが、実につまらない。いや、私がエッセイに求めているものとあまりにも違うだけなのだろうが、ちょっとあきれるくらい読んでいてつまらかった。 正月一発目から不発。まぁ、しかたない。これを通勤電車で読んでいたら悲しいだろうが、ソファーで眺めていただけなのである意味害はない。というより、休日の無為さを強調するようなアイテムとして、あるいみ役に立ったのかもしれない。 |