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2012年1月27日

俺に似た人

平川克美
医学書院
お勧め指数 □□□□□ (5)

通勤電車で過ごす時間を本読みに充てているので、年間結構な冊数を読めるのだが、「こんな本を読めてホントに良かったなぁ」と思える本とである機会は思ったほど多くない。

いいなぁ、面白かったなぁと感じることはよくある。
だからこそ通勤時間が2時間半近くかかっても全く苦にはならない。
だからといって、感動して涙がでてしまうようは本などそうそう読めることはない。
ホント、メッタにないもんだ。

ところがこの本は、本読みであることを「実感」させれてくれるものだった。
読みながら涙がじわっと出てしまって、それを堪えるのに苦労した。

初老の男が本に感動して涙を流している。
そんな光景、傍から見て気持ちいいものではないだろう。
OLなどは隣の車両へ移るかもしれない。
が、まぁ、誰もこちらには関心など持っていないから特段気にする必要などないのだが。

この本では、著者が父親の介護をした体験が、過ぎ去った昭和の幻影とともに語られている。

一般的な意味では物語といえば、「そういう目にあってみたい」と思わせるものを題材にとるものだ。
が、この本では「そういう目にあってみたい」とは言えない題材を、しかも「絶対にあってみたくもない」とは思わせないように書かれている。
読んでみて、介護をするとはどういうことかの一例を教えてくれ、自分に生きているうえで必要なことの一つを悟らせてくれる。

この本の目指していることは説教ではないし、道徳でもない。
ただ、「自分がそんな状況に置かれたらどう行動するのだろうか」について自然と考えさせてくれるのだ。

介護の問題に、もちろん回答はない。
著者である平川さんのとった行動は回答の一つではある。
が、それを直接自分当てはめることなどできないし、そんなことを著者が想定しても期待してもいないだろう。
「はて、自分はどうするのだろうか」
そんな答えのない問題を自然に考えてみたらどうだろうか、という年長者からのアドバイスなのだと思う。

幸いにして、ぼくの両親は健在である。
が、いずれ平川さんような状況になるのはわかっている。
だから心の端っこにいつも恐怖であり嫌なことである「介護」がある。
この本を読むことで、そのことを正面に引っ張りだされた感がある。
本当に、どうするのだろうか、ぼくの場合は。

あらかじめ「答え」を出しておく必要は、必ずしもないのだろう。
その状況になれば、それなりに「適切」な行動を取れるはずだと、どこか自分を信頼している。
パニックにさえならければ、なんとかなるはずだから。

この本を読んでみて、介護に対して教訓めいたものやマニュアルめいたものを獲得した、というわけではない。
ただ、介護の場面に置かれたら、「そうか、ついにきたか。でも、2回目だよね」という気分にはなるだろう。

地震だって、突然魘われるのと緊急地震速報を受け手から遭遇するのでは、パニック度が全くちがう。
経験しているということは、心理的な意味ででしかないから、どれだけ状況にうまく対処できるかはわからない。
それでも、と思う。

せん妄ひとつとっても、手術一つともっても、それがどういう結果になりうるのかの「特解」を一つ持っている。
それは意外なほどに「自分にとって勇気をださせてくれる」はずだ。

本を読むのは、やっぱりいいことだ。
そんなことを再確認した。

2011年11月12日

人間関係に奇跡を起こす83の方法

石原加受子
大和出版
お勧め指数 □□□■■ (3)

ケーススタディーを2ページで行っている。

普通のOLとして働いている人ならば(そうでない人も含まれるが)体験しそうな困ったことに対する対処法、アドバイスを83のケースで説明している。

そのコアにあるものは「自分中心」であり、いかに自分を守りつつ、自分の抱いている感覚・感情を表現して相手に伝えるかである。
手っ取り早く石原先生の言っていることを実行しようとする人にはいいのかもしれない。

ただし、すこしお手軽すぎる嫌いがある。
時間がない人や本を読む習慣のない人にむけて計画された本だと思う。

2011年11月10日

もっと自分中心でうまくいく

石原加受子
こう書房
お勧め指数 □□□□■ (4)

常に相手の反応を予測し、それをもとに自分の行動を決める。
そういう考え方の癖を持っている人は、結果的に「楽しくない」日々を送ることになる。
そう、言ってくれる本。
石原先生の「自分中心」という考え方の導入のような本だ。

「相手はこうするから」「相手はこう思うから」

何かをするときの視点が「相手」になっている人は、自分がどう思うかについて無感覚である。
無感覚どころか、自分がどう思うかというのは「どうでもいい」「価値がない」と考えている人もいる。

これは、子供時代からの「教育」の賜物である。
そして、そう考えている人は決してラクな気分で生きていくことはできない。

想定する相手は親だったり先生だったり友達だったり上司・部下だったり。
そのときに接する人たちである。
一定の人のこともあれば、そうでないこともある。
ともかく、「お前はどうおもうのだ」と自分に問うことをしない人がいる。

ある意味丁寧な人とか無私の人とか言われて評価を得るかもしれない。
人々はそうあるべきだ、という道徳のような世界だ。

相手からみればそうだろう。
自発的な奴隷がいるんだから。

どんなに相手からよく思われようとも、自分の深層には不満がたまる。
不満を蓄積させると、切れやすくなる人もいれば、完全に脱力無力化してしまう人もいる。
どちらも「幸せ」あるいは「ラク」とは程遠い精神生活を送ることになる。
そういうの嫌でしょ?

じゃぁ、どうすればいい?

意外に簡単なことである。
自分が「どう思っている」「どう感じている」かを正確に意識化する。
それを言語化して表現する。

このとき「相手はどう思うから」とかそういう、ことは一切考えない。
つまり自分中心で「感じている」ことをセンスするのである。

そんな簡単なことでいいの?

意外にも、変わる。

2011年11月 9日

自己主張がラクにできる本

石原加受子
サンマーク文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

自己主張をしたいとは思っていない。
にも関わらず本書を購入したのは、石原先生の話をもっと読みたかったから。

この本も「自分中心」という考え方を軸に、人と接するときの心理と(意図せず伝わってしまう)表現について書かれている。


自分が考えていることは、自分で思っている以上に「事実が」伝わってしまう。
それは言葉によって伝わる情報ではなく、言葉以外のことによって伝わってしまう感情のこと。

何かを相手に伝えないといけないとき、それが気心しれた人ならばとくに問題はない。
相手が、嫌いな人や苦手な人だったりしたどうなるか。

伝える情報が事務作業的なことだけならば、なんとかなるかもしれない。
が、「不愉快さ」とか「依頼」とか、感情に関係するものだったらどうするか。
こういうことがテーマである。


社会の中で生きている人ならば、必ずしも自分の好きな人に囲まれて生きているわけではない。
嫌な人もいる。
むしろ多かったりする。
それが上司だったり、部下だったり、あるいは同僚だったり、お客さんだったりといろいろあるだろう。
そんなときに、どうするか。

どんなに感情を押し殺していても、結局相手には伝わってしまう。
どんなに我慢してもそれは消えないで自分に積み重なってしまう。

この2点をベースに考えるのならば、自分の感情は否定せず、相手に「伝える」必要がある。

必要以上の怒り、必要以上の恐怖は、相手の反応を先回りして予測してしまう。
それで、その結果について自分の心理的な反応をあたかも現実のこととして受け止めてしまう。

相手の反応は「予測」であるのに、その反応に感情が「現実に」湧いてしまう。
これがそもそもの間違いの原因なのである。


相手の感情を先回りしてこちらの出方を決める必要はない。
淡々と、正確に、礼儀をもって、自分の不愉快さなり、不満さなりを伝える。
これが大切なのだ。

もちろん、それで話は丸くおさまることはない。
結果的に話がこじれることもあるだろう。
それでも、自分に負の感情が蓄積しない、ということが大切。


なるほど、ふむふむと読み進める。
なるほど、全ては自分を守ること、なんとか生き残ること、自分の感情を正確に表現することなのか。

こういうことは、子供の頃からの教育に取り上げて欲しい。
小学校でも中学校でもいい。
変に道徳なんか教えるよりも、ずっといい。

多く人が幸せに生きるには、ネガティブな感情に潰されないことだ。
石原先生は、うまい対処方法を教えてくれる。

2011年11月 6日

「つい悩んでしまう」がなくなるコツ

石原加受子
すばる舎
お勧め指数 □□□□■ (4)

悩みの大半は、というかほとんどは、対人関係である。

どうやって、他人との間合いを測ればいいのか。
どうやったら、嫌な思いをしないですむのか。
これを、自分中心という考え方で解説しようという本である。

石原先生の本を読むのも3冊目であり、その言わんとしていることが予想できるようになった。
そして、自分を中心して考える、という言葉の意味もだいぶ分かるようになってきた。

社会で忌避される「自己中心」という考え方とどう違うのか。
そのあたりに注目しながら読めば、生きることがラクなる。

この本も悩めるOL向けに書かれたのだろう、悩みの例や挿絵などからそう判断できる。
挿絵はとても心情から可愛い感じがするので、おじさんが読んでも楽しい気分になれる。
そして、若いOLさんも40過ぎのおっさんも、同じ問題に悩み、同じように心理的に辛い時間を持つことがあるのだとわかる。

じゃぁ、どうすればいいのか。

簡単な話なのだ。
自分は「どう感じているのか」について、細部にわたり認識することから始める。
それが好きなのか、嫌いなのか、いやなのか、気持ち悪いのか、気味悪いのか、可愛いのか、それてもなんとも思わないのか。

リアルな感覚を自覚し、それを言葉にできるくらいになれば、それを表現できるようになる。
そして、適切に(脚色なく)表現できれば、それをその原因である人に向けて伝えることができるだろう。

伝えたからどうなる、ということはないかもしれない。
しかし、伝えたことによって、自分の心に湧き上がった感情は「消化」されてしまう。

自分中心とは、自分の感じている感覚を「第一に」にすることである。
社会生活のなかでは、自分の希望通りになることはない。
しかし、自分の感じたことを「適切に』表現して伝えることは可能である。

つい悩んでしまうことは、誰かとの関係にある。
それならこの本にある「適切に感じて、適切に表現する」ことで、ほぼ解決する。

とはいえ、病気だとか、金欠だとは、自分中心で行動してもどうにもならない。
ただし、貧乏だから恥ずかしいという「誰かとの関わりあい」に関することは、この本の方法で消化できるだろう。


三省堂で平積みになっていた石原先生の3冊を読んだ。
実に実に参考になった。
ぼくの人生、これから違う形になるような気がする。
もっと早く、すくなくとも5年早く出会っていたかった。

2011年11月 5日

離れたくとも離れられない人との距離の取り方

石原加受子
すばる舎
お勧め指数 □□□□□ (5)

ぼくはいわゆるサラリーマン的な仕事をしていないので、上司も部下も顧客もいない生活を送っている。
いやな人間現関係に悩まされることは、サラリーマンの人よりぐっと少ないはずである。

それにもかかわらず、付き合いのある僅かな人にも「イヤ」な感情を持つことがある。
上下左右、嫌な人に囲まれているわけではないにもかかわらず、それでも毎日嫌な気分になっていた。

「しつこい怒り」が消えてなくなる本(http://www.significa.jp/scienza/books/2011/11/post_882.html)を読んで、石原先生の著作を幾つか読んでみようと思った。
この本も、『しつこい』と同様、どちらかといえば「悩めるOL」向けの本として企画されている。
例題となるシチュエーションも挿絵も、そういう人向けになっている。
テレビドラマでしか知らないが、OLってのもしちめんどくさそうな世界である。

この本では、嫌な人との距離の取り方を扱っている。
どんな世界でもどんなに少数グループでも、3人以上いれば「嫌な人」は存在するものである(経験上)。

そんときにぼくがとっていた方法は、「挨拶だけして離れている」というものだった。
確かに関わらければ、あるいは自分の視界に嫌な人が入らなければ、それでなんとかなる。

なんとかなる、とは思うが、それは「場所による」はずである。
日々接触することが仕事上ある場合、どうにもならない。

益田ミリのスーちゃん(http://www.significa.jp/scienza/books/2011/01/post_786.html)を思い出した。

嫌な部下いるのだが、その部下は上司の親戚だ、というようなシチュエーションである。
極力我慢して、我慢して、結局仕事をやめてしまう、という結末だった。

サラリーマンようにローンを抱えてながら妻子を養う人とは違って、独身のカフェの店長をやっている女性の悩みの解決方法が転職する、ということだったのにおおいに違和感を持った。

我慢をこの先続けていると、いずれ病気になるか、精神に破綻をきたすかになることは見えてた。
しかし、転職という方法しか残されていなかったのだろうか。

その漫画は女性に人気があったので、世の中の悩めるOLへの影響力を発揮していたはずだ。
影響力をもった漫画が、嫌な人との使い方の結論が「転職」。
それは無いんじゃないかと思った。

が、ぼくは代替案を提示できないでいた。


この本を読んで、今なら一つの解決方法を提示できる。
それは、嫌なやつへ「まともに反抗する」ということである。

その発言、その行動、その態度、嫌なものは「嫌である、やめろ」とはっきりと提示するのだ。
もちろんこれは、いざこざを発生させ、喧嘩になることもある。
しかし、我慢できないことは「我慢出来ない」とはっきりと提示する必要があるんだよ。

もちろん、それで「上司が怒って私を首にした」というのならば、それはそれで仕方がない。
どのみち転職するのだったから。
しかし、我慢している場合、わだかまりが「一生」ついてまわる。
かりに転職しても、思い出し怒りにはずっと悩まされることになる。

高倉健のように、我慢して我慢して我慢して最後に切れる、というのは「よくない」。
我慢などこれっぽっちもせず、「それ不愉快だからやめてね」と怒りの蓄積レベルが低いうちに提示することだ。


では実際に自分の身に起きたらどう対応するのか。
それはわからない。

しかし、今は、まず自分を守る、が鉄則だから、ぼくはそのように振る舞うつもりだ。
我慢なんか、しない。

OLの皆さんも、これまでとは別の対応方法があるということを知ったら違うのではないだろうか。

いい本だ。
石原先生、ありがとう。

2011年11月 4日

「しつこい怒り」が消えてなくなる本

石原加受子
すばる舎
お勧め指数 □□□□□ (5)

これでまで読んだなかで、もっとも「あぁ、そうか」と膝を打った本。
と同時に、表題の通り「しつこい怒り」を消すことができた本。
というか、たぶん、この本以前と以後とで、日々の生活がだいぶ違うものになった本。

一言、あぁ、やっと会えたか。
感慨深い気分になった。

思い出し怒りが強いぼくは、日々の生活のほとんどの時間を「イライラ」として過ごしてきた。
悔しい気分、腹立たしい気分で過ごしていた。

これまでいろんな本を読んで、この性格を変えようと努力してきたが、なんかうまくいかなかった。
考えないようするとか、前向きに考えるとか、そういう「うまくやれるのかやれないのか」わからない方法を自分なりにとってきた。

が、結局、イライラとする生活に沈むことになってしまっていた。

実にジメジメとした、いやな性格だよなぁ。
自分の性格に由来すると思っていた「思い出し怒り」。
これは、自分以外の人もっていたようだ。
それは性格に起因するというようなものではなく、ある種のクセだと知った。

そういう風に考えしまう最大の原因は、嫌なめに合っていることを「ぐっと我慢してしまう」ことにあるそうだ。
一時的な我慢は、時間が経てば消えると思っていた。
が、それは完全に間違いだ、ということだ。

一度思い出し怒りにとらわれると、何もすることがない時間はずっとその怒りに耐える必要があった。
それって、何をしていていも頭か離れない。
ずっと怒りの渦中にいることになっていた。

この忘れっぽくない性格、どうすればいいもんかなぁ、と思っていた。
これで、人生の相当の割合を「捨てていた」ということになる。

でも、今は違う。
本当に、違う。

自分を守るのは自分だけだ。
単純なことだが、自分を守るように考え行動しないと、自分の「無意識」の部分が潰れてしまう。
怒りの原因となったことを直接消せるかどうかはわからないが、そのための努力はしよう。

つまり、我慢しないで、「反論せよ」ということだ。
反論することによって、自分を守るための「行動」をせよと。

なんにせよ、自分の怒りをしっかりと「怒っている」と認め、そのあきらかな原因を特定し、
その原因にたいして「抗議」せよと。
皮肉などという回り道ではなく、ダイレクトに勘違いなく反論し攻撃せよと。

なんと、それいらい、今まで思い出し怒りをしてイライラしていた時間は、ほぼゼロになった。

ありがとう。
石原先生。

2011年10月16日

「悩み」の正体

香山リカ
岩波新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

何を「悩み」とするのかは、人それぞれ。
本人には、世の中を呪うくらい不条理なことであっても、それを聞く側は呆れるようなものがある。
そういうことが「悩み」ついてはつきまとう。

それこそ、不治の病の相談があった次の人の相談は、隣の家は海外旅行なのに自分の家は国内旅行だ、というような、おそよ「悩み」とは何か、を考えることすらできなくなるのが臨床の場で起きている。

つまり、原因というものは、その人から離れたら一般性を失ってしまうもののようだ。


香山先生のところで診療を受ける人の話を読みながら、ある程度共感できるときもあれば、腹立たしく思うことがある。
ただし、当人たちは至って「真剣に」悩んでいるわけで、ということは理解できるかどうかで「存在」そのものが決まるところがある。

ということは、それを解消さえることは、当人しかできんことのように思える。
もっといえば、当人の意思にはできないで、ただ、自然と消えるのを待つしかないようにも思える。

難しいなぁ。

2011年10月15日

気にしない技術

香山リカ
PHP新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

震災後の心構えについて。

ガンバローとか一丸になってとか、そういうの面倒だなと思う人に対してのメッセージ。
いや、読んでホッとする。

気にして得することはない。
むしろ気にすることで結果的に体調が不調になり気分が暗くなる。
結果的に「損」をする。
もっといえば、気にすることで気にしていた問題が解決することはない。
というわけで、気にするのはやめたほうがいい。
そう、解説してくれる。

なるほど、そりゃそうだ。
納得する。

しかし、すべてに対してそういえるのか。
そうではない、と思う。

集合時間は気にしないと行けないし、放射性物質の汚染には気を配ることは必要だろう。
とはいえこれは害がない。
なぜなら、こういうことは気にすることが「行動」へとつながるから。
つまり、気にすることが「他人の思惑」ではないから、放おって置いてもよい。

気にすることが「なんの行動にも繋がらない」。
そういうものとは違う種類の問題は、そもそも行動を取ることで状況が変わるので、気にすることが長続きしない。
だから害がない。
そう理解しているが、違うのか。

ああなりたいなぁと思う人として、ぼくは高田純次さんの名前をあげていた。
いいじゃない、ああいう風にのらりくらりと面倒なことをかわしながら生きていくの。
この本で香山リカさんも高田純次さんについて言及している。
おぉ、意見があった。

気にすることがもっとも体調によろしくないこと。
それは、他人の思惑を推測して、それを気にしてしまうこと。

そんなものは、どうだっていいじゃん、ということだ。
問題は、それができるひとは「気にする」ことがさほど気にならないとは思うだが。

2011年10月 8日

生きるとは、自分の物語をつくること

小川洋子+河合隼雄
新潮社
お勧め指数 □□□□■ (4)

この本のタイトルを読んて、本当にそうだよなぁと納得してしまった。
タイトルだけで一冊読んだような気がした。

小川洋子さんと河合隼雄さんの対談。
まぁ、のんびり話が進む。
ちょうど「博士の愛した数式」が話題になっていた頃で、素数ネタのようなところから話を噛みあわせていく。

昔数学をしていた、という河合さん。
教師だった頃の話から、心療内科に関わっていくまでのお話。

どれもこれも、これは、と思うような場面はなく、おばちゃんと爺さんの会話というところだ。
いや、実際は小川さんが診療を受けていたということになるのかもしれない。
それを読みながら、自分もそういうところがあるなぁと思い返す。
これって、間接的にだが、河合さんに面倒見てもらっていたのかもしれない。
などと考える。

2011年10月 7日

心理療法個人授業

河合隼雄+南伸坊
新潮文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

河合隼雄さんのお話が聞きたくなったときがある。
体調はわるくないのだけど、心理的にかなわんなぁと思ったから。
そういうときに空港で購入した本なのだけど、結局読まなかったようで、ずっとテーブルに積まれていた。

積んであった本と目があった。
いや、こういう本があることを思い出した。
今日は休みだからちょうどいい。
そう思ってページをめくっていった。

とくだん「へぇ」と驚いちゃうようなことが書かれているわけではないのだけど、良質の「考察」を読んでいるようで、南伸坊さんと一緒に考えたような気分になれた。
一般の人が学ぶって、こういう態度でいいんじゃないかと思う。

ぼくはあまり精神的に強い方じゃないから、こういうお話は惹かれる。
仏教的なセンスがあるともっと楽に生きられると思うし、他人とのリソースの奪い合いや「これはすごい」的な自己顕示要素が体かから消えてなくなると楽しいだけの人生になるんだって想像するけど、ぼくは普通の人だからな。

南伸坊さんは、普通の人が使うであろう用語の範囲でものを考えてくれている。
へんに「頭いいんだぞ」的なところがない。
それってとても大切な要素。
養老孟司さんとの本は読んだことがあるので、残りを探して読んでみよう。

2011年10月 5日

雀鬼流

桜井章一
三五館
お勧め指数 □□□□■ (4)

精神的な支えを欲しているのかもしれない。
桜井章一さんの本に手が伸びてしまう。

読んでいると愉快、ホントに。
内容は「仏教」といってもいい気がする。
事例は麻雀なんだけど。

麻雀であろうと登山であろうと数学であろうと、人が全力でやることに違いがあるわけもない。
全力で登り切った頂上で悟ったことは、不思議なことだが、人のやること全般に適用できる。

多くの言葉は精神的な響きを持つ言葉になる。
考えみれば当たり前だ。
意識は精神でドライブされているのだから、意識に響く言葉は精神的なものになるはずだ。

例えば、麻雀をやるうえで「ツキ」は大切なことだと言っている。
ツキは創りだすことはできない。
それがそのときの自分にあるのかどうか、やってきそうかどうか、ただ感じるのみであると。

わかるような気がするが、具体的にはわからない。

ところが、この本を読んだまさにその日、ツキがやってくる、ことを体感できた。
ツキがやってくるのを察知できたのだ。

この約一月程、ずっと困っていたバグがあった。
それが、あるとき「ふっと」ととれた。
その作業中、ツキが体にまとわりつくことを体感できた。

これか、と。

桜井章一さんのいうものは、本当にあるらしい。
それを体感のチャンスがぼくに巡ってくる日にこの本を読んだわけだ。
そのとき、すでにツキがあったのかもしれない。

2011年9月23日

この世で大切なものってなんですか

酒井雄哉+池上彰
朝日新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

こういう本が新書コーナーに並んでいるとつい手に取ってしまう。
結局のところ仏教的な考え方感じ方が一番楽な気分になれる。
そんな気がするからだろう。

池上さんの著作はそれなりに読んでいるので、おかしな本ではあるまいという信頼もある。

震災前の対談だったのだろうか。
一切その話題にふれられていない。
その話がない、そういう視点がない、ガンバロー的なものがない分、読むほうも気分は楽だ。

どんなに偉いお坊さんであろうとも仏教の人は言うことは同じだ。
仏教徒だもんね。
「へぇ、そうなんだ」という新鮮な驚きがない分、身体の内部に考え方が入り込んでくる。

繰り返し言われると、深層部分で確固とした価値観の指標が築かれるようだ。
子供の頃に母親に言われたことは、不思議なことにまずは感情として善悪の判定基準として立ち上がってくるので、その人はそこから逃れることはできない。
幼少期の親の教育の大切さを体感する経験はオジサンならば何度もあるだろう。
それと同じように、文化的な規範としての仏教というものが知らず知らずに身体の中に気づかれている。
そう、自分で再確認できる。

ある社会に生きるとはそういうことですね。
シュペングラーさん。

2011年9月 7日

決断なんて「一秒」あればいい

桜井章一
ソフトバンク文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)

新刊コーナーに置いてあった。

タイトルに惹かれた。
よく考えて決断する、ということは、そんなに正しいことではないと言っている。
考えれば考えるほど迷いがでる。
また、迷った挙句の判断は迷う行為は、実は時間と関係ない結果になる。
つまり、迷いに精神的にも時間的にも時間を費やしたとしても、それが「よかった」という結果につながるものではない。
そういうことを言っているのだとぼくは理解した。

麻雀を例にして説明している。
どのパイを切るのか。
その判断を1秒くらいで行うこと。

この本の著者の麻雀道場ではそう教えているそうだ。
考えるよりも感じること、全体の流れを見ること、そういうことのほうが重要だとか。
この手をやったらこうなって、こうなってという予想はあまり役に立たないのだと。

ぼくは麻雀ができないが、その考え方に思い当たることがある。
困ったときに「どうしよう、どうしよう」と考えても、それがいい結果を生み出すことはない。
そう、経験的に知っている。
なぜなら、困って考えているときには時間方向も空間方向も視野が狭い、しかも自分の状態を把握できていないから。

高度なシミュレーションをしているわけではないのなら、条件が決まったらとりうる選択肢が数個でてくるだけだ。
その選択に時間がかかるわけがない。

ところがそれぞれの選択肢に「妄想」が入り込むと、一つ一つを考える時間が無限にかかってしまうし、途中で何を考えればいいのか忘れてしまう。
だから、決断は1秒でいいんだ。

そんなことを考えてた。

2011年8月11日

「気立てのいい人」宣言!

香山リカ
東京図書
お勧め指数 □□□■■ (3)

香山リカさんの著作は、気分がめいって鬱病になりそうな(なってしまった)OL向けのものが多い。
どれもこれも「頑張る」とか「しっかりしなきゃ」とか、そういうものとは反対の方向の出口を照している。
猫みたいに昼寝していることで人生過ごせるなら、それでもいいじゃん、結構幸せだよ。
そう教えてくれる。
そして、ご本人もそういう風に生きている人のようだ。

そしてそんな生き方をしている人は周りの人からみれば「気立てのいい人」になってしまう。
After you。
我先にと行かない。
こういう簡単なことが積み重なると、生きやすいし人からも良く思われる。
ビジネスパーソンとは無縁の世界なわけである。

他人との比較をしないし、自分が先にということもしない。
こういう生き方は自然と50過ぎくらいになると出来る人がいる。
「同窓会を楽しめるか」という指標をあげている。
歳をとって同窓会へ行くと、若い頃には勝ち組・負け組の競い合いになってしまって嫌な気分も感じることが多かったが、ある程度歳をとると「なんだ、結局おんなじようなことになるね」となるそうである。
浮き沈みはあれど、人生ならしてみれば大差ないよね、ということ。

結果的にそうなるのなら、それはそれでいいかもしれない。
ぼくもそういう人生へハンドルを切ってみようかと思う。

2011年8月10日

「つらいな」と思ったとき読む本

中谷彰宏
あさ出版
お勧め指数 □□□■■ (3)

別段「つらいな」と感じてはいないのだが、手に取ったのも何かの縁、と思って購入。
「チャンスの前にはピンチがある」など、そうかもなぁと感じさせる言葉をシステムとして組み上げた、完璧なる中谷本。


2011年8月 9日

くらべない幸せ

香山リカ
大和書房
お勧め指数 □□□■■ (3)

タイトル通りの内容。
まさしくその通り、比べることは優越感を抱こうか劣等感に苛まれようが、どっちにしても幸せはほど遠い。

そういう比較をしたりされたりすることが問題ならば、比較されようがないことをすればよい。
結婚相手でそういう問題がおきるなら比較しようがない外国人にしちゃうとかね。
しかしそうだろう。
そうしたあとでも、ヨーロッパ人なのか東洋人なのか、そういう比較が待っているわけで、結局比較のわなから逃げられない。

比較するという行為との間のとり方が生き方のベースを決めているのかもしらんな。

2011年8月 8日

大事なことは先のばしにしなさい

香山リカ
ビジネス社
お勧め指数 □□□■■ (3)

大事なことは先のばしに「しない」

大事なことは先のばしに「しなさい」
とでは一文字違うだけなのだが、180度違うことを言っている。
一般的には後者が普通で、しつけや啓蒙書などでよくでてくるだろう言葉である。
この言葉自体が悪いわけではない。
多くの人もそう思っている。

香山さんらしく、肩の力を抜いた主張である。
今この瞬間に解決できないことって、あるんだよね世の中には。
がつがつ成果をづんで成り上がろうというビジネスパーソンは反対するだろうし、実際そうだろう。
でもね、みんながみんなビジネスパーソンじゃないし、勝間和代さんを目指しているわけではない。

本書の内容は、多くの面で「普通の人は普通でいいよ」というメッセージである。
だって、病気になるくらいなら、普通のままでいた方が幸せだよね。


2011年8月 1日

脳が変わる考え方

茂木健一郎
PHPエディターズ・グループ
お勧め指数 □□□■■ (3)

ちょっと気になって買ってみた。
最近めっきりと弱くなった飛行機内で気軽に読める内容だろうし。
脳の使い方についてあれこれ知りたいとはさすがに思わない。
なぜなら、「脳が自分の使い方を変更する」ってのは、意味不明なことだから。
脳なんて、自分でなんとかできるようなところではないだろう。

まぁ、そういう理解とは別に、茂木さんのお話は面白いものはひどく面白いし、読んでて疲れない。
そういう部分を期待したのだ。

主張される内容は、最近いろんなところでおっしゃっていることで、「へぇ」という新味のあるものではなかった。
根拠のない自信を持てというもの。
それはそれでいいことだと思うのだが、何度も言って聞かせるには無理がある主張だろうなとも感じる。

20前後の若い人が自ら考え実行することについて、それぞれの人が考えているようなことは、そのほとんどが「ご都合主義」的なことが多いもので、それって別の言い方をすれば「根拠がない自信による行動」と言えなくもない。
茂木さんが主張されているのは、20前後の人になってやってみたら?ということに他ならないといそうだな。

それって、おじさんになってからやらない方がいいんだと思う。
というか、その歳になっても二十歳と同じ程度だったら、なんか不思議だなぁとも思うわけ。

まぁ、でも全体を通して茂木本らしいものだった。

2011年7月18日

生ききる。

瀬戸内寂聴+梅原猛
角川oneテーマ新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

両者ともに御高齢であるが、日本を代表する巨人である。
まぁ、こういう人たちがいないとぼくらも日本人って大丈夫だろうかと思ってしまうのだが、こんな先輩がいるのだからまぁ日本もやりゃぁなんとかなるんじゃないか。
そう思える人たちである。
ビジネス界の重鎮のような人しかぼくらの(生きている)先輩にいなかったら、こりゃだめなんじゃないかと思っちゃうから。

2011年7月11日

3・11後の心を立て直す

香山リカ
ベスト新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

震災から4ヶ月たった。
この間、ぼくもいろいろと困ったり怖かったり考えたりしていた。
本を読むことで得られる知識なんて、現実の社会ではあまり役に立たないということも思い知ったわけだ。
それにしても、何が事実で何が推測で、そんでもって何が一番確からしいことなのか。
楽観から悲観までの情報が一斉に放送されているときに、通常のようにまともに判断しようとすれば、そりゃおかしくなっていくわけですよ。

普段の生活で気にくわないことがあったりして、いろんなことにイライラすることはどんな人にもあるだろう。
しかし、我が身が危なくなっている状態では「他人がどう思っているのか」なんて本当にどうでもよくなってしまう。
おそらくだが、一時的なことだろうけど、「あぁ、おれしっかりしなきゃ」と思っていた人が多かったと思う。
ところが、状態が日々変化していた時期がすぎ、なんだか変化のスピードが遅くなってくると、こんどはいろんな人が不安に思い、香山リカさんの言葉を必要とするわけだ。

この本に書いてあったこと、ぼくも疑問に思っていたことがいくつかあって、その問題についての香山さんの考えを知ることができた。
もちろん、そのものずばりではないか、やっぱりそうだよね、なぁんだよかった、と思うようなこともあった。

新書は週刊誌よりもじっくりと特定の著者の考えをしることができる「速報」メディアになりつつあるようだ。

2011年6月27日

「読む、書く、話す」脳活用術

茂木健一郎
PHP研究所
お勧め指数 □□□□■ (4)

これといって力説するような本ではなく、気軽な雑誌の記事。
ふーん、という感じの面白さ。
ただ、最近売れる本を出すだけで、残りそうなものは書かなくなったななぁ。

2011年6月24日

結果を求めない生き方

上杉隆
アスコム
お勧め指数 □□□■■ (3)

2011年5月20日

養老孟司の大言論<1><2><3>

養老孟司
新潮社
お勧め指数 □□□□□ (5)

先週の夕方、三省堂の本店で養老孟司さんの講演&サイン会があったので参加した。
この本を購入し、サインを貰おうと思ったのだ。
作家にサインを貰ったところでどうにもなるわけではないのだけど、そこはミーハー的な楽しみがあってもいいだろう。
単なるサイン会はつまらないけれど、講演もあってしっかりお話を聞ける機会でもあったから、仕事は早退して会場に駆けつけた。
風邪をひかれてたそうだが、愉快に一時間ばかりの時間を過ごさせていただいた。


2011年5月13日

インテリジェンス人生相談・個人編

佐藤優
扶桑社
お勧め指数 □□□□■ (4)

本の冒頭の部分から飛ばしている。
すごいなぁ、普通こういうのをガチで書かないよ。

でもまぁ、佐藤優さんは本当のことを言おうとしているのだ、と考えれば自然な始め方なのかもしれない。
読者を惹きつける編集の技術だといえばそれまでかもしれないが、著者の意向が強く出ているといえなくもない。
生きることについて人に相談できる状況にある人の悩み事とは、ここから始まるのかもしれない。

ただ、個人的な悩みというものは、多くの人(あるいは全員)と共有できることがある一方、「なんだよそれ」と思わず口に出してしまいそうなくらい共有できないものがある。
相談というくらいなのだが、相談者の考察では行き詰まったから相談しているはず。
それを聴いても「なんだよぉそれ」と言ってしまう自分がいる。
自分の頭はではまったく行き詰まらないよ、ということだ。

人に共感するためには、自分を無くさないとダメなんだろう。

2011年1月24日

予防接種は「効く」のか?

岩田健太郎
光文社新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

とくにお医者さんに不満は持っていないし、かといって病気にかからない自信があるわけでもない。
今年もインフルエンザが流行っているが、インフルエンザワクチンなるものを接種して防ごうかな、という気はないのだが、実際どの程度の効果があるんだろう。
実際風邪を引いて寝込んだのだけど、これはワクチンで防げたのだろうか。

テレビや新聞の報道を題材にして自分の生活と直結するようなことは判断しないと決めている。
そんなときに、内田樹さんのツイートに岩田 健太郎とう名前が挙がった。
内田樹さんも感心するような人らしく、実に褒められていた。

ぼくは初めて耳にする名前だったので、早速購入してみた。

ふむふむ。
へぇ、そうなんだ。
医者なんだから現代の医術を推奨する立場だろうと思うが、記述は中立であることを努めている。
不思議なことに、記述が中立であろうとすればするほど、ワクチンの効果がわかるし、来年度かはら受けてもいいかなという気分になっている。
逆説なのだけど、不思議な説得力を持つ。

アマゾンでこの本を探すと、反対にインフルエンザワクチンに反対する人の著作もならんでいる。
不思議なことに、これらは「宗教と名のらない宗教」であるとわかってしまう。
高齢の人がインフルエンザにかかると、それが命取りになることがよくある。
幼児でも同じ。
適不適はいかなるものでも考える必要があるもので、それを無視した発言は「原理主義者」のものである。

著者はきっと頭が切れる人であろう。
それはよくわかるのだが、たぶん頭が良いと言われる人が持つ、バカは向こうへ行け、的なところがありそうである。
ぼくのような人からみれば気になる事項だけれど、実際にお会いすることはないから良い方に受け取っておこう。

2011年1月15日

どうしても嫌いな人

益田ミリ
幻冬舎
お勧め指数 □□□□□ (5)

帯に内田樹さんの推薦があったので購入した。
この手の脱力的な絵のマンガを好きではないのだけど、ぱらぱらと立ち読みしていたら、テーマに魅かれたから。

登場人物であるスーちゃんには嫌な人がいる。
社会で生きていれば、普通それくらいの人はいるだろう。
そう説教じみたことをスーちゃんに言いたくなるのだが、そういう我が身にも嫌いな人はいくらでも覚えがあって、だからどうすればいいよなど問題解決へのアドバイスを申し上げることはできないと自覚している。

すーちゃんはどんな嫌な目にあっているのか、そしてスーちゃんはそれにどう対応するつもりなのか。
他人事だが自分のことでもあるような気分がして、どんどんと読み進めた。

このマンガの作者である益田ミリさんは実によい観察眼をもっている。
そんなことは人気本の作者なのだから当たり前なことだろうけど感心してしまう。
声を上げて叫びたくなるような事柄ではなく、ちょっと嫌なことであり、どんな人でも経験があることを取り上げている。
相談してってどうにもならないのは、ある意味多くの人が認めていることだろうに。
他の人もみんなそうなんだ、と知ることが問題のシビアを緩和させてくれる一つの有効な方法だろう。
だからこの本は実際売れているのだと想像する。

この本については、最初に奥さんがいたく感心していた。
奥さんはOLを10年していただけあって、そういう体験があったのだろう、深く頷いてしまうと、自分のことのようだと感想を言っていた。

そういえばNHKBSのブックレビューでも女子アナウンサーがこの本を取り上げており、彼女も我が身のような思いがしたのでといって推薦していた。

共感してしまうのは女性だけではない。
なぜなら、スーちゃんがいう「嫌な行動をとる人」には性差を越えた類型が確立しているように思えるから。
というのは、ぼくにもいくつも思い当たる節がある。

とくに言挙げをしてその人の非道を非難する必要があるとは思えなく、またそうすることは自分の大人げなさを露呈させるだけ。
こちらがそう思ってしまうような嫌なことをする人は身の周りに結構いるものだ。
ホントに。
このマンガを通じて、そういう人がどんな人の周りにもいるものだと知ったわけである。

そういう嫌な人は、結局のところ「誰」なのか。
一言でいえば「ガキ」なのである。
自分本位な言動を社会に向けて発信し、その発言や行動の責任を取らない、またとらなくてもいいように防御している人のことといえば、ガキだろう。

幾か嫌な人の特徴をあげてみる。
一、発言の語尾に「前言撤回」を意味することばを付け、人が嫌がることをあえて言う。
二、より強い権力の加護下にあることを誇示し、自らの意志がその権力から発せられていると見せかけ自由に振る舞おうとする。
三、発言や行動の目的は自己利益拡大のためで、それらが周りに引き起こすであろう迷惑については考慮しない。
これだけで十分であろう。

これらは要するに子供の行動でははないか。
幼稚園くらいのちっちゃな子供がそういう行動をとることはよくあり、それは「こどもだから仕方ない」と大人は目に麗しく子供の成長を見守るものである。
しかし、どういうわけかいくつになってもこれをやり続ける人が発生しはじめた。
1984年生まれ以後の人は、軒並み危ない。

「嫌な人」はどういう人たちか。
少し別の方向から考えてみる。
一言えば、可愛い人であろう。
しゃべらなきゃ誰からでも好かれるかもしれない。
CanCan的なファッションできめるような娘さんとかも入るのかも知れないし、御局様も入るのかも知れない。
あるいは、既存権力にどっかりと座っているオジサンならば親族の女子は全部可愛いだろう。
この本で登場する嫌な人の例は、要するにそういう人たちである。
自分がしがないOLで、こんな人たちと働かなければならないときはさぞかし大変だろうなと、深々とため息をついてしまった。
これが素直な感想である。
なるほどOLは大変な仕事だなと。

しかし考えてれば、そういう人の出現は今に始まったことではない。
イソップ時代かあらあるのだろう。
「トラの威を借るきつね」とか(あれ、イソップだよな?)。

もし世の中にトラの威を借るきつねがいないとして、自分がきつねで、トラの威を借ったらすばらしく住みやすい世の中だろうなとも想像することができる。
それはちょうど、高速道路の渋滞でだれもがろくに走れない状態のときに路肩を爆走するのと同じ気分だろう。
痛快ということ(いかん、内田樹さんの受け売りが混じってきた)。
トラの威を借るきつねが通用するのは、みんながトラの威を借らないからだ。
トラの威を借らないで世の中を築こうとしている、うるわしい世界である。

ところがみんなが路肩を走りはじめたら、その世界は立ち消える。
もう、一瞬にして。
そして相当に面倒くさい利用規定ができるか、そもそも高速道路を維持できなくなるだろう。なにせ、ルールが向いているのは「路肩野郎」であって、普通の人ではないのだから、利用者にとって都合のよいものにはなり得ない。

スーちゃんの結論は、そういう場所から逃げるというものであった。
読んでいて「えぇ」だった。
だって、これほどの本ならば、これが「正解」だと思う人が多いはずで、実際このとおりに「止めちゃう」ことを選ぶ人は多いだろうし、あるいはこれかも選ぶ人は多いだろうから。
しかし、それでいいのだろうか。

単純な疑問なのだが、違う働き口へ移動したあとに同じようなことが起きたりしないものなのだのか?
そういうリスクは考慮しないのだろうか?

というのは、この本の中で、スーちゃんの友達はすーちゃんの境遇について「よくわかる」と言っていたではないか。
ということは、嫌な人がいるのは「それは世間でよくあること」だということではないのか。
世間でよくあることならば、移動先でまた同じことになるのではないか?

もうひとつ疑問になったこと。
それは、スーちゃん自身は誰か他人にとって「嫌な人」になっている可能性は本当にないのだろうか、ということ。

自分が常に正しくて常識人ということはないだろう。
どんな人も少しかおかしなところがあるもので、それは他人からしたらイライラの原因になっていることはありそうな話だ。
だからスーちゃんがいなくなって「良かった」と思っているだっているのかもしれない。
自分の嫌いな人が悪人ということは決して決まっているわけではない。
自分が悪いという考えはなかなか真剣に考えようとしはしないだろうけど、可能性としては大いにあるものだ。

で、この問題についてぼくが考えるだろうこと。
この問題はすーちゃんが現在のスーちゃん自身でいる間は決して解決しないだろう。
それはスーちゃんの生活の中には、スーちゃん自身が追い求めるものがないから。
仕事のなかでも何かを目指す途中ならば、障害は「障害」であって、嫌なことではない。
障害があっても目指す先があるなら、障害にいちいち付き合っていない。
目指すものがなくても、「疑問」なり「魅力」なり、あるいは「謎」といったものが、スーちゃんの生活にはないものなのだろうか。
これがないと、人の生活はどこへ行っても同じところになってしまうだろう。

誰々さんが嫌なことをするんだとか、そういうことが問題になるのは、現在の生活がある種の平衡状態に達してしまい、すでに人生に対する疑問を消失してしまっていることに原因がある。
今ある状態を「何もしないで維持したい」と思うのならば、その場所は人生のゴールになっている。
ならば、それ以上に良くなることは絶対にない。
悪くなるだけである。
生活のなかに、仕事やそれ以外の時間の中で、気になる謎があれば、自分の関心をそっちへ持っていけば、それ以外のことはどうでもよくなってしまうものだ。

ぼくがいう「謎」とは、人はなぜ生きているのだろうというようなレベルの根源的な問いであってもよい。
誰かがおいそれと答えをだせるようなものではないものでも、「なんだかしれないけどひかれるのよね」といえるものならば、それでよい。
それを考えていれば、もっといえばその疑問に自分なりに答えを求めることが生きることになる。
それって、なんでもいいのだけど、それが全面にでてくるようになると、目の前に嫌な人がいて悩ませられるのは山道でヤブ蚊に悩まされるのと同じようなもので、くそみたいな問題でしかない。
もちろん、くそみたいな人によるくそみたいな問題なのだが、問題には違いない。
どうやって、それを交わすのかは、まぁすーちゃんの方法もありではあるが、最終回答では決してないだろう。

漱石の草枕の冒頭は、それを言っているような気分がして、あらためて読むと涙がでてくるわけである。

山道を登りながらこう考えた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。


 

2010年12月13日

くじけないこと

アルボムッレ・スマナサーラ
角川SSC新書
お勧め指数 □□□□□ (5)


スマナサーラさんの著作は、読んでいると気分が楽になる。
仏教とは何かを信じることで成立する宗教ではなく、人の心情を上手に扱うための心理学的な技術野体系であり、それらをベースにした哲学である。
そう思ってしまう。
きっとそうなんだろう。

たしか茂木健一郎さんの著作だったと思うが、仏教を哲学だと言い張る人を見るとその考えの浅さに腹が立つと発言しているのを読んだことがある。
他人の考えに反発して怒る態度はいかにも茂木健一郎さん的でほほ笑ましいともいえるが、その仏教が宗教であるという認識は日本の仏教についてにしか適用できないだろう。
スマナサーラさんの説く上座部仏教について読んだ後でならそんな発言するとは思えない(自分を曲げることがあの人にできるのかは知らないが)。

日本の文教にはいろんな「神様」がでてくる。
それは仏様や観音様という名称で呼ばれるキャラクターである。
さらに加えて不動明王だのなんだのいろいろいて、なるほど仏教は宗教だと思ってしまうのに無理はない。
不思議なのだ。
どうして同じ仏教なのにこんなに違うのだろうか。

ある宗教がいろいろなところで受け入れられるには受け入れ場所にすでにあった神話と同一視されなければならない。
それは一つの手法である。
例えばキリスト教はそれを巧みにこなした。だからクリスマスなんてのが世界中でお祭りとしてある。

新しい宗教を既存の宗教、あるいは聖なるものの伝統に対してある種の「バージョンアップ」のような感覚で受け入れてもらえるようにしている。
そういう人々の錯覚を利用する技術が結果的に成功をもたらしてきたのは事実である。
神話体系が根強く人々の考え方を縛っているところほど、それが効く。
日本には当然そういうのが強かった。
中国もそう。
それらに合うように仏教は変容したのだろう。

フロイト以後の心理学を勉強し、人の心を把握しようとするのと比較して、スマナサーラさんの説く仏教から入る方法がそんなに不利なことではないだろう。

2010年12月11日

生きる勉強

アルボムッレ・スマナサーラ+香山リカ
サンガ新書
お勧め指数 □□□□■ (4)


最近、香山リカさんの対談本を書店でちらちらと見かける。
新書もいろいろでているから、鬱病といった精神的に疲弊する病に人々の感心が向いているのだろう。
世間で苦労している人、とくに対人関係で苦労している営業サラリーマンさんには切実な問題なのだろう。

そこでスマナサーラさんの登場である。
この人の発言は仏教、おそらく上座部仏教に根ざしたものであろう。
発言全てがこの仏教の教えに沿っているとしたら、そしてそれが気分を実際和らげてくれるとしたら、仏教もいいものだなと思うのは当然。
スマナサーラさんの新刊は発売と同時に売れ出し、アマゾンでは品薄になってしまうのだが、それはなっとくできる。

この二人が対談するとどうなるのか。
何を巡って意見を交わすのか。

精神医学は科学をベースにした行為である。
理論と実験が両輪。
精神医学も例外ではない。
ならばそれについてとやかく言い合うことはないだろう。

両者ともに心を癒すという機能では同じである。
スマナサーラさんは、それが病気ならば管轄外だと明言している。
仏教ができることがあるとしたら、少なくともそれが治ってからだと。

確かに、統合失調症を発病してからでは手に負えないだろう。
なぜならスマナサーラの話を聴くことができないのだろうから。

この本においていろいろ話し合って、香山さんはそれなりに理解をしたようである。

ではぼくはどうか。
なるほど、仏教といえでも、発病しちゃったあとは無力なんだ。
当たり前だがなるほどと。
とにかく人の話を聴くレベルまで戻すことができるのは精神医学しか今のところないみたいだ。

スマナサーラさんの本が売れている。
ならば世の中だれもがそれなりに住み難いんだろう。
一方でぼくはそういう状態にない。
ずいぶんと幸せなものなのだ。
自分の生活もバカにしたものではないようだ。

2010年9月14日

身体を通して時代を読む―武術的立場

甲野善紀+内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

文庫本が新刊で発売されていた。
単行本を読んでから2年近くたったし、少しくらい改訂があるかもしれない。
そう思ったので買ってみた。

この本を初めて読んだときには、内田樹さんも甲野善紀さんもまだ本物を見たこはなかった。
実物を見る機会をがないものか。
その人たちの雰囲気を知りたい。
そう思って2年たった。

いまでは内田樹さんの講演会に3回程出掛けてお話を聴けたし、甲野善紀さんの講習会に出掛け、直接技までかけてもらった。
市井の人でしかないぼくには、だまってたら絶対に会えなかったであろうが、自分から行動を起こせばそれなりに結果がついてくる。
本の中での有名人である彼らは、本当に生きている人なんだな。
子供みたいな感想だが、ちょっと嬉しい気分になれた。

ぼくは武道をやっていない。
どころか、スポーツには縁がない。
しかも太っている。
なのでこれからも始めることはないだろう。
とはいえ、身体を使う機会をもっと増やさねばならないとは思っている。
何か適切なきっかけをつくらねば。
この本を含め、先生方の著作を読破していくに、身体を使うことがいかに大切なことなのか理解しているが、行動がともなっていない。
少しでもスポーツをしている人ならば、この本にあるような技の掛け合いや探り合いのようなことが想像の範囲にあるかもしれない。が、ぼくにはさっぱりわからない。
なんとかしなければ。

そう思っていたとき、ぼくにも身体を訓練する機会があるじゃないかと気がついた。
ぼくはチェロを習っている。
それを再発見をしたのだ。
ちっともうまくならないチェロだけど、これは身体を動かす訓練ではないか。
武道での内容を想像するには、チェロの動きに読み替えていけば、もっと本を楽しめるかもしれない。
と思ったが、なかなか難しい。

ひとつ気長に構えるか。
そうするよりない、今のところ。

 

2010年7月27日

怒らないこと2

アルボムッレ・スマナサーラ
サンガ
お勧め指数 □□□□□ (5)

前作は読んだ。
この本のタイトルを目にしたとき、多分同じ内容を扱っているのだろうと思い、買ってみた。
怒るとろくな結果にならない。
なるほど、少なくとも理性においては納得できた。

なぜ怒るか。
その感情を10通りの原因に分類し、それぞれについて何故そういう感情がわき出るのか、そのままそれを続けているとどんなことがおきるのか。
それらをきちんと説明している。
これ以上の説明は必要ないだろう。
理解はできた。
だが問題はどうやって実践するのかだろう。

「私」というものは存在しない。
「私」は概念である。
これを言葉通りの意味で理解すればよい。
身体は存在しているし、感情も存在している。しかし、それらを統御する「私」なるものは、「存在」などしていない。
現象でしかない。
つまり自我という感情の存在を肯定するための方便であって、そういう機能が動作しているわけではない。
そういうことのようである(ぼくの理解)。

なるほどそうかもしれない。
意志が先にあって行動が起きるわけではないということは、ベンジャミン・リベットという認知学者の実験で知った。
なかなか信じられないことである。
だが、自分の意識がそう判断するのは当然。
しかし考えてみれば、気分次第で意志なんてどうにでもなる。
ならばリベットのいうことは正しくたって仕方がない。
実際、意志よりさきに筋肉は動き始めているのだから。

意志がそんな具合なのだから、自我などは感情がより集まった集合でしかない。
頭の状態で現れたり消えたりする。
意志なんてものは、継続的に存在する機能ではない。
睡眠中に意志も自我も消えてしまう。
やっぱり「私」などというものは「勘違い」なのだろう。

ちょっと仏教的な発想が理解できた。

 

2010年7月16日

心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」

名越康文
角川SSC新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

ラジオデイズの番組で名越康文さんの話を聴いて、この本を読みたくなった。
「著作」と宣伝していたから、読むのに骨が折れるかなと身構えていた。
が、インタビュー形式の内容なので読みやすかった。

分かりやすい本だった。
インタビューアーがあれこれ質問し、名越康文さんがどうすればいいか答える形式である。
そして「それはなぜか」の説明を加えていく。
話は重くなく軽くもなく。
簡単すぎてインチキ感がでてしまうこともない。
なるほどと自然にうなづけ、その内容に信頼を置けそうだと感じた。

いろんな事を考え込んでしまい、気分が暗くなる。
程度の差こそあれ、そういうことはどんな人にでもあるようだ。
ぼくもある。
思い出すと腹が立つことはかなりある。
何もすることがないとき、何かのきっかけで思い出して腹が立ってくる。
普段からよくある。
そしてイライラは顔つきに出るらくしく、奥さんが心配そうな顔をしてぼくを見たりする。
困ってはいたが、これは昔ッからの性格だからなぁ、と諦めていた。

嫌なことは考えても答えがない。
考えていいことはない。
怒りは外に出しても、内に押さえていても消えてなくならない。
「考えない」以外に除去方法がないのだ。
この本ではそう主張している。
実感としてわかる。
そういうもののようである。

腹立たしいことを考えながら、その怒りに耐える。
精神的に強い人ならば、耐えている間に時間が解決することもあるだろう。
しかしそうでもない人は、イライラしたりしている間に精神的にも体力を消耗し、より暗くなってしまう。
怒りを我慢することに、いいことない。
もっといえば、怒りを感じている状態は脳にとっても健康にとってもよくない。

怒ってはいけない。
怒ることを考えても得なことはないからだ。
この考え方はスマナサーラさんの本でも読んだことがある。
だから「それなら知っているよ」という方法であった。
しかし知っているからといって、実践していたわけではない。
出来るわけでもない。
名越康文さんもスマナサーラさんと同じことを言っているのだから、これを一つ実践してやろう。
そう思ってやってみた。
そしたら、びっくりするくらい「効いた」のだ。
とくにここ数年悩まされてきた「思い出し怒り」の症状は、まったくなくなった。
当たり前だよ、だって考えないのだから。

感情をコントロールするとは、こういうことなのかもしれない。
耐えることではない。
考えないことだ。
「納得する」を求める限り、いつまでたっても治らない。
そういうことがあるのかもしれない。
だから簡単な方法は、納得なんてどうでもいいと実践すること。
納得する必要がある、と考える自体が勘違いなのかもしれない。
そう思うようになって、そして実践するようになって、ぼくの日々の生活は大きく変わった。
本当にビックリするくらいである。

何かを成し遂げるには苦行をしないければいけない。
そう漠然に思ってしまう。
でも、それは嘘だろう。
なぜなら「考えない」という方法に劇的な効果があるのだから。

考えないなんて方法では、何も解決していないではないか。
そう批判する意見もあるだろう。
ぼくもそう思っていた。
しかし、それは間違っている。
少なくとも問題の建て方が間違っているのだ。

思い出し怒りなどというものは、そもそもが意味がないことなのだ。
その人の五感に感じていないことをベースに行動する必要などない。
自分以外の人の心で何が起きているか。
そんなことを知りようがない。

だったら、そばにいない人のことを想像しては腹を立てるなどという行為に、いかなる意味もあるわけないじゃないか。

それを体感できるかどうか。
暗い日々を送る人とそうではない人との分かれ目かもしれない。
実に単純なことだったようだ。

2010年5月26日

こんな日本でよかったね

内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

 こんな夢をみた。 

 友人とレストランにいた。入り口近くの待合スペース。

 そこはどちらかといえばファミレスに近いカジュアルなレストランで、シェフ以外はアルバイトでまかなっているような感じの店であった。

 そのお店の入り口に近いところで、友人と談笑していたら、奥からアルバイトの店員さんがやってきた。

 どちらかといえば、少しデンパっている様子で、小走りにぼくらの近くにやってきた。

 二人とも話を中断し、その店員さんを見た。

 「あ、田中さん、奥からオイルと乾燥のやつを急いでもってきてください。」

 確信を持ってそう言った。

 友人の服装はなんとなくスタッフのものに近い色合いだったのだろうか。それとも、顔がその田中さんとそっくりだったのだろうか。

 え、とぼくは思ったが、友人はとくに疑問を浮かべる様子はなく、すんなりと「はい」と言って、店内のバックオフィスへと繋がっていそうな細い廊下を歩いて暗がりの中に消えて行った。

 同時に店員さんも持ち場に戻っていった。

 ぼくはなんだかわからない。

 かれも事情をしらないはずである。こういうところで働いた経験はないはずだから。

 けれど、あいつならば、見つけるんだろうなと漠然とした気分でいた。そのあたりをふわふわと視線をただよわせて、なぜ関係ない友人が取りにいったのだろう。

 しらばして、さっきの店員さんがアルバイトらしき店長さんとやってきた。間違いに気づいたようだ。

 彼らがぼくに声をかけてくるかなぁ、というタイミングで、友人が荷物を抱えて廊下の奥から現れた。

 「オイルと乾燥のやつって、これでいいですか?」

 友人はそう言いいながら、両手で抱えていたものをごっそりと店員さんに渡した。

 店員さんは、平謝りながらそれらを受け取った。

 そして、ぼくの友人は何事ものなかったように、ぼくとの談笑を続け、テーブルが空くのを待った。


 これだけである。

 とくに、意味があるような話ではない。

 この本を読んだあとに、この夢を見た。

 この本は単行本が出版されてすぐによんだので、文庫本を読むのは初めてでも、内容は通しで二回読んだことになる。

 なんでこんな夢をと考えていたところ、この本のテーマに関係あることだとわかった。

 降りかかった災難には言葉ではなく、行動で応じるということだろう。そして、起きた事を他人の責任だと主張し、相手の失敗を声高に非難するのではなく、自分にも多少損になることでも、つきあってあげることもいいんじゃないか。

 そういうメッセージなんだと理解している。

 「こんな日本にだれがした」、というと他責性の強い言葉になる。

 しかし、「こんな日本でよかったね」は違う。現実を受け入れ、他責性を考慮しないで、現実に合わせて幸せとなる道を探す。そういう気分がある。

 ぼくが見た夢は、この言葉をぼくなりに解釈したということなのだろう。夢にでてきた友人は、いかにもそういうことを笑顔でやってくれそうな人なんだよね。思い出しただけで、いい気分になる。そういういい人なんだ。
 
 この感想文を書いていて気がついた。

 これって、キリスト教の根幹にあることなんじゃないかと。

 「絶対神」の存在に対する信頼とそれを崇める行為(畏敬)の二つをキリスト教から引き抜けば、「こんな世界で良かったね」ということを受け入れた気分になるのかもしれない。

 まぁ、ぼくにはまだ考察が足りないから、なんとも言えない。

 なにも「自己犠牲」というレベルまで考える必要はない。

 「それって、俺が損じゃないか。なぜ、そんなことになるんだよ」と自分の損失に敏感になってしまうと、幸福の女神は近寄ってこないかもしれない。

 この本は僕の生き方への警鐘かもしれない。

 もっと、笑顔で生きていきたい。決して恵まれているという環境にはないのに、なんだかいつも気分がよさそうな、あの友人のように。

2010年4月 5日

ぶれない

平山郁夫
三笠書房
お勧め指数 □□□□■ (4)

 「美の巨人達」という番組のなかでこの本の紹介があった。平山郁夫さんの絵の説明で「ぶれない生き方」についての引用があったのだ。その言葉はなんとも心に残り、もう若くもないわが身ながらも感心してしまった。そうだよな、がんばろうという気分になった。

 この本は買わねばならない。今でも「迷い」のなかにある自分なので、青年向けの本を読んでどうするのかという気分もするが、ここは一つ平山郁夫さんの話を聞いて見たい。ということで買ってみた。

 カラオケが上手な人よりも、自分の歌を歌い続ける人のほうが、結果的に生き残る。
「自分の絵を描くこと」を目指していた人がそう言うのならば、きっとそうなんだろう。その言葉の語り口からして、なんだか本当にそうなんだと思える気がしてきた。

 芸術家が持っているポリシーには、過激なものが多いが、この本での語りは平山郁夫さんの絵のように落ち着いた表現なので、ごく普通の人にもすんなり理解できるだろう。過激なことや驚くようなこと言って目立とうという意図がなく、ご自身の歩いてきた道を語ってくれている。

 成功する人のいうことは、岡本太郎は別として、同じようなことを教えてくれる。要するにそういうものなのだろう。ただし、だからといって、平山郁夫さんと同じようなポリシーをもち、同じくらいがんばって生きたけど、結果的にはうまくいかなかった人も結構いるのかもしれない。実のところどの程度「信憑性」があるのかははっきりしないのだけど、一つの物語としてはとても受け入れやすい。

 それにしても、世に名をなす人はそれなりに不幸な過去を持っているか、結果的に不幸な死に方をするのはなぜなんだろうか、とあらためて疑問になる。平山郁夫さんは、若い頃に広島で被爆し、原爆症を患っていた。そのとき、死ぬまでにはちゃんとした絵を描きたいと真剣に抱き、それが平山郁夫さんの絵のスタイルを獲得するきっかけとなっている。逆に言えば、そういう境遇を経なければ、スタイルを獲得できなかった。この本で紹介されている自伝部分を読む限り、そういう感じた。

 毎日を嫌な思いや辛い思いをせずに過ごしている自分には、平山郁夫さんのような生き方は結局は遠い世界の話のように思える。まぁ、可もなく不可もない人生ってのは、それはそれでいいような気もする。ぼんやりとそんなことを考えた。

2010年4月 1日

アホの壁

筒井康隆
新潮新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 表紙の印象からして『バカの壁』のパロディなのかと思ったが、まったく違った。「まえがき」にも「パロディーではない」と断ってあるし、実際読んでも確かにパロディーではない。それどころか、いや実に読みごたえのある愉快は本だった。だいぶ予想とちがった。

 人はどうして「アホなこと」をしてしまうのだろうか。この素朴な疑問に正面から取り組み、答えている本である。たとえば、何人かで話をしているとき、とつぜん話題からしてズレたことを言う人がいる。なぜ、今そんなことを話す必要があるのだろうかと腹立たしくまた不思議に思った経験をどんなひとでももっているだろう。そのひとはなぜ話の流れとは無関係に(しかも大抵つまらない)話をするのだろうか。著者のいう「アホ」とは、そういう「文脈を読まないとんちんかんな行動」をさしており、どういう人がどういう状況でどんな心理記的な帰結でアホなことをしてしまうか、つまりアホの壁を越えてしまうのか、について考察している。内容的には『バカの壁』と対等なものといえる。

 筒井康隆さんの著作を読んだことはない。嫁さんは昔(中学生くらいのとき)に好んでいたそうで、しょうもないショートショートが好きだったそうだ。この本を見せたあげたところ、「アホや、アホや」と心の中で叫ぶくだりをかなり気に入ったようだ。普段、新書であつかうような内容を読まない人にも勧められる、ということなのかもしれない。

2010年3月14日

捨てちゃえ、捨てちゃえ

ひろさちや
PHP研究所
お勧め指数 □□□□■ (4)

 タイトルからして仏教の本、内容もうっすら透けて見える。これまでにひろさちやさんの著作を何冊か読んでいて、お気に入りになっており、さらに新刊だからということで購入してみた。ほっとした境地が得られるかもしれない。

 「捨てちゃう」対象は、世間であり、世間からみた自分であり、世間から刷り込まれた自分像、ということのようだ。そういうのは簡単だが「実際問題そんなのできるか」と言ってしまうような悟りの勧めではない。「これなら俺でもできるな」と思える気づき、考え方の変化のきっかけが書かれているだけである。とはいえ、いくつかのトピックには「ちょっとステレオタイプな味方だよなぁ」と感じてしまう説話もあるが、折りにつけ読んでみる本として良いものだろう。人生の楽しみを探すヒントになると思う。

 よい話だなぁと思ったのは、宗教というものの考え方についてである。

 (略)信者になったら金もうけができるとか、入信すれば病気が治るというのは、どうもインチキくさい。ただし、わたしは、信者になっても金儲けできない、病気も治らないと言っているのではない。それらのことはあるかもしれないが、それが宗教の本当の存在理由だとは思えないのである。本物の宗教は、貧しい人は貧しいまま、病気の人は病気のまま、幸福に生きる道を教えてくれるものであろう。少なくともわたしは、宗教をそういうものだと思っている。

 なるほど、と頷く。このような考え方はある程度生きてこないと実感が湧かないだろうし、若い人はこれを認めないだろう。思い通りにならないことと対決しそうな気がする。それでうまくいかないと理不尽さを嘆くような気がする。

 しかし、さすがに不惑の歳にもなれば、そりゃそうだよな理不尽さというものを受け入れられる土壌が心に準備されるようで、ぼくにも不条理の不条理さというもの嫌悪感を感じなくなりつつある。もっとも、それは想像のなかの不条理感であって、リアルな不条理感についてはまだむりだろうけど。

 ひろさちやさんの本を読むと落ち着く。ただ、それでいいと思う反面、少しは工夫して乗り切ろうという気持ちも残っている。まだぼくにも未来を語る余地は残っているようだ。

2010年3月 1日

現代霊性論

内田樹
講談社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 釈徹宗さんという浄土真宗の僧侶と内田樹さんとが合同で講義した内容を編集して一冊の本にした。いいよなぁ、こんな授業が大学であるんか。この大学の学生さんはずいぶんとラッキーな。そもそも霊というタームをタイトルに冠した授業が存在する自体がにわかに信じられない。もちろん、それはぼくの常識感からであって、僕自身は「そんなものがあったら絶対受講する」のだけど、ぼくが通っていた大学にはなかったし、今でもないだろうし、あり得ない(だろう)。それって、普通の人の社会(というか、いわゆる世間)の感覚に近いのではないかと思うので、おおかたの人がどんな気持ちで手にするのか知りたいものである。

 「霊を感じる」と発言したとき、そこの運命予測のようなものをイメージするのか。幽霊とは違う。霊である。古い神社の境内の雰囲気を想像すればよい。見えるものは普通のものしかない。でも、なんか雰囲気があるようなぁ。それが霊である(と思っている)。心霊・幽霊の方は雑誌やテレビ番組の人気コーナーにもなる。占いもそれに入るかもししれない。両方ともに宗教に関係があるのは確かだけど、霊は芸術などを論じるにも必要となる。ならば心理学や芸術を調べていけば避けて通れないものが霊であるとすれば、そのテーマで授業は成立する。なるほど。さほどおかしな主張でもない講義になりそうだ。

 本書を読んでいて、なるほど、と合点したものがあった。それはこの本とは直接関係はないが、連想でヒラメキ、そして理解したわけだ。「意志あるところに道は開ける」という言葉について。

 通常であれば「どんな困難であっても、自分のやる気があれば成功するものだよ」という精神的主義の解説がつくだろう。あるいは、困難を乗り越えた勝者の回想をまとめるのに便利かもしれない。要するに、がんばれ、ということである。

 今は違う意味で考えている。それは、対偶を考えてみれば良い。つまり、道が開かなかったならば意志はなかったのだ、ということ。

 意志があるとかないとかは、自分が主張することが普通である。意志があるかないかを唯一知る事ができるのは自分である。そう考えるのは普通の発想。

 しかしそれは誤りで、実は自分に意志があるかないかを知る術はないのかもしれない。やる気といったものは気分でしかなく、意志とは違うものかもしれない。もっといえば、なぜだかわからないが、やってしまうことがあるとしたら、それは自分に意志があるからであり、その意志を直接自分が知覚することはできないがゆえに、自分の意図とは関係なく身体が動くように感じるのかもしれない。
なにかあるようだけど、よくわからない。でも、ありそうだ。それこそがぼくが考える霊性だろう。そう、理解した。

 なんだかわからないけど、何かある。たとえば物理を学んでいない人からみたら、世の中不思議なことが多い。電気工学をしらないと、携帯電話は魔法としか思えないはずだが、それでも使えてるようになってしまう。そして、それに人生を依存してしまうことまである。

 存在することはわかっていて、そのメカニズムについてはさっぱりだけど、自分の人生を賭けてしまうというようなことは、オカルトにかかわらず、古くからある宗教でなくとも、ごく普通に起きていることではないか。なんてことはない、現代霊性論というものは、それでいいような気もする。もっとも、この本にある内容の深さに遠く及ばない妄想でしかないけれど。

2010年2月15日

しつこさの精神病理

春日武彦
角川oneテーマ21
お勧め指数 □□□■■ (3)

 しつこいって、人としてダメな性質なんだろうか。しつこい人は嫌われるけど、職人さんは歓迎される。芸術家なんてのは「美を追求する」と言われ良い評価が普通だが、なんてことがない「しつこい」からそれが可能のはず。ならばどうして良い評価なのだろう。

 この本のタイトルを見たとき、そんなことがちらっと頭に浮かんだ。

 この本を読んでみてわかったのは、しつこさが問題になるのは、あくまで「程度」であって、しつこさが「異常」だからなのか。そりゃ、異常というくらいだから異常なのだろう。そう突っ込みたくもなる。がよくよく読めば、「ネガティブなことにたいして忘れない」ということも問題視されている。

 良い出来事については、予感することも体験することも思い出すことも気分が良い。楽しい。うれしい。一方で悪い出来事は全てにわたって悪い気分になる。どうやら、その気分のあり方が精神に与える影響が問題のようだ。

 嫌な事をずっと忘れない、憶えている、思い出す。つまり恨みをずっと抱えている状態が続くと、それ自体はどんな人にもあることだが、頭の中で反芻する機会が増えてくると何が現実で何が想像なのかの境目がわからなくなってしまう。人によっては嫌な気分が増幅していく。となるとどうだろう、最後には現実よりも想像のなかにいる嫌なものを相手にして生きはじめてしまう。

 人は、長いこと考えているものに現実感を感じるものである。現実感を感じるからそれに合わせて現実の行動を変えてしまう。養老孟司さんの著作で読んだが、現実とは、その人の行動に直接影響を与えるものだということだ。ならば考えた事を理由に行動するとしたら、考えていることは現実なのである。こうして精神の病と呼ばれるものが発生する。 とまぁ、この本をよんで僕なりに理解したことはこうである。もちろん勘違いかもしれない。ただし、そんなに間違っていないとすれば、しつこさについての対処方はいたって簡単なものである。

 嫌な気分になることからは、全速力で逃げろ。

 それでいいんじゃないだろうか。それが出来ない場合があるとしたら、可哀相だけど結局のところ精神の病に近づいている。もし周りにそういう人がいたら、状況を少し想像できるだろう。なにが危なくて何が大丈夫か、動機次第では全速力でその人から逃げないといけない。それは、他人ばかりではなく自分にも当てはまる。

2010年2月 5日

問題は、躁なんです

春日武彦
光文社新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

 躁については、鬱の対立概念から想像できるだけで、それは一体どういうものなのかを知らないできた。暗い時期と明るい時期を繰り返す傾向がある友人がいたが、躁はそのうちの「調子がいい」程度の雰囲気の方だとおもっていたので、それを精神病として捕らえることはなかった。いいじゃん、明るいのだから。

 鬱病の人はある種のオーラを周りに発しているために、秋の日の晴れ上がった空の下を歩いていても、その人の周りだけ暗くなっているように感じるからすぐにそれとわかる。躁についてはよくわからない。明るくなってはきはきして、という状況ならば、それはそれで結構なことのような気がするのである。が、どうやらそうではないようだ。

 躁になった人は明るいというだけでなく、他人への配慮は全くなくなるらしいのである。つまり、誰かの迷惑などという概念が消失し、世界には自分だけが存在すると信じるような人が登場する。どうやら、躁の人の面倒くささはそこにあるらしい。要するに、完全なる自己中心の人になる。そんな人、いくら明るいからといっても一緒にいたくないだろう。病気の症状があるとすれば、他人への配慮がゼロになることから生じる不愉快さであろう。

 躁の状態はずっと続くわけではないらしい。調子がいいときにしでかしたことをしらふになったときに反省するというパターンなのだろうか。なんだか酒飲みのような症状であるが、実際は知らない。そんなこところまでは本書から読み取ることはできなかった。

 具体的な症状の例として、笑っていいともに出演されたある作家のことが触れられていた。躁状態で出演されたため、番組の進行と関係なく一人でしゃべり続けたそうだ。お笑い番組で、司会はタモリさんという中で、番組ジャックが行われた状況は気味悪かったということである。

 そういう人が近くにいたらさぞ面倒だろう。それに、この手のものは「治らない」ようである。精神病で回復するものは、典型的な鬱病だけだそうだから、仕方ないのかもしれない。幸いなことに、躁の人は身近にいなかった。これからもそうあることを祈るままである。
 

2010年1月29日

心の闇に魔物は棲むか

春日武彦
光文社知恵の森文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)

 精神病の人が引き起こす負の面に着目した内容で、読んいてさすがにさっぱりした気分にはなれない。どちらかといえば気分が暗くなる。

 というわけで、半分読み飛ばしてしまった。

2010年1月28日

精神のけもの道

春日武彦
アスペクト
お勧め指数 □□□■■ (3)

 けもの道。林や野原のなかにある、人が通る道から少し外れた道のことで、普段は動物しか通らない。ハイキング中うっかりけもの道に入り込むことがある。遊歩道を歩いていたはずが、いつもまにやら薮の中を進んでおり、「あ、けもの道に入ってしまった」という具合に。

 「精神の」とあるのは、その人の行動を決めている考え方を道にたとえているから。それまではふつうの社会人として行動していたはずの人が、気づけば無差別傷害などの動機不明な事件を起こしたりする。多くのケースで殺傷事件に至る。こういう人は病院に連れて来られ、自己の行動責任をとれるかどうか鑑定される。そんな人を診断し、治療する医師でもある著者が、この人はどこで人の道から外れたのかを考える。そのとき「人の道」と「けもの道」という比喩がぴったりするというのだ。ただし、この本は論説文でも教科書でもなくエッセイである。だからだろうか、なんだか面白い。

 精神的に病んで異常な行動をとる人でも、意味なしに行動しないらしい。その人は「その人なりの論理」で動いている。なるほどそうかもしれない。自分でも身に覚えがある。例えばイライラするのは衝動であり、とくに論理的帰結ではないが、自分としては相手の行動にイライラの原因があると信じるようなものである。あいつの目が俺を笑ったとか。そんな場合の論理は冷静な人が聴いたら「おかしい」ものだろう。それでも自分としては論理的に考え、理屈を付けて、イライラしたのだと考えるものである。

 電車のなかでイラっとしたとしよう。ぼくの場合、頭の中でその先を想像してしまうが、行動に及ぶ事はない。その想像のなかでは、「なぜこんなことをしたのか」と問われたときの回答はつねに用意してあり、理屈の上ではイラっとさせた人に否があると断定したうでの行動を想像している。

 テレビを見ていると、おかしな事件を目にすることがある。借金や別れ話かなにかが原因で殺人に至ったニュースは日々起こっている。分かりやすい動機はべつとして、なんでそんなことで事件を起こしたのかと驚き呆れるニュースも意外にある。そういうときにこの「精神のけもの道」を考えるのである。あぁ奴は獣道に迷い込んじゃたのだなという具合に。ある種の神の視点を持って世間を眺めるような気分がある。

 けもの道は人が住んでいる近くにもある(とくに、地方ではだが)。同じように、普通の人の行動から近いところに精神のけもの道もある。あるとき、ある偶然がきっかけでけもの道に迷い込んでしまうこともある。そのまま進むと、「あーぁ」という感想を持つことになる。とはいえ、人はつねに論理的に行動しているはずだから、自分の行動を論理によって「けもの道」かどうかを知ることは難しい。それでも、迷い込んでないかなと周りの風景を見わたすことは必要だな。

 そんな感想を持った。

2010年1月27日

本当は不気味で恐ろしい自分探し

春日武彦
草思社
お勧め指数 □□□■■ (3)

 書名をもとに選んだ本なのだけど、自分探しについてのあれこれが書かれているわけではなく、雑誌掲載の原稿をまとめて編まれた一冊で、内容はエッセイと短い小説を束ねたものであった。エッセイの内容は、面白いものもあるけど、思弁的過ぎるものも多くて、全体的にいまひとつピントこなかった。毎回のエッセイに関係がある短い小説は、習作のようなものであり、もうひとつ面白くない。

 とはいえ、とても気に入った一片があった。この中で読む価値が一番高い。それは最後の一片である。「空虚なわたし」というタイトルのエッセイである。何冊もの著作がある著者が文章を書かこうとして書けなかったころの体験が綴られている。学生時代、社会人になってからも、文書で表現したいと思っていながら全く書けないでいたそうだ。もちろん、学業や業務に必要だった報告なり論文なりは書けたということだが、自分の頭のなかにある衝動を「表現」するということはできなかったそうなのだ。

 一般的に言って、文章を達者に使える人は子供の頃からなにかしら書く訓練しているもので、大人になってから始めても遅く、そういう人は文章を書けるにようにはならないものだ。そう諦めかけていたぼくには朗報だったのだ。

 何がきっかけで書けるようになったのか。それは「片意地はらないこと」にしてからだそうだ。自分が書くものは「優れたもの」「完璧なもの」でなければと思っていたそうで、そう思っているうちは何もかけなかったとか。そんなものを目指していから書けないのであって、文章によって何かを完全に表現することは無理だと認めていなかった。ところが文章には相手がいて、言葉が書かれていない余白などは相手が埋めることで表現が伝わることもあることを理解してから、気負いがなくなって書けるようになったそうである。手始めに、現在の仕事場の風景描写からスタートしたようである。

 なるほど。大いに勉強になる。想像力で面白い話をつくることは相当難しい。普通の人であるぼくに、そういうことは、まぁ無理だろう。だから気負いしないで、できることを淡々とやってみるよりない。こんどは今まで以上に気楽に文章を書いてみるとするか。

2010年1月23日

何をやっても癒されない

春日武彦
角川書店
お勧め指数 □□□□■ (4)

 春日武彦さんの著作、興味があっていろいろと読み進めることにした。この本も古本。内容は精神科医師のエッセイで、日々診療に訪れる患者さんのことについて、自分自身や普通の人のことを考え合わせて考察した思索である。雑誌連載エッセイなので重い内容のものは含まれていない。ごく普通の人が暮らしている日本の社会には、見ようと思えば見えるだろうという例もある一方、医師にでもならないと見えないものが当然あり、そういう「へんな」事例に付き合わなくていい普通の生活を続けていけることは結構なシワセなことなんだとあらためて感じた。

 タイトルにある「何をやっても癒されない」とは内容に直接関係はない。まぁ、ぼくが本書を読んだ動機に「癒されたい」という思いはなかったので、読んだときに違和感やがっかり感はなかった。精神科医の淡々とはいえない日常を垣間見るに、やりがいがある仕事なのかもしれないが、自ら進んでなりたいものではないなと感じた。ただし、お医者さんは必要だし、この本に登場する患者さんのような人を普通の人が相手にするのはとてもじゃないができないだろうから、是非ともいていただかなくてはならないのだけど。

 この本を読むと考えてしまう。ラッキーな一日があれば、ツキがない一日もある。気分がよい悪いは各自のクオリアがなせる技なので、自分を取り巻く状況を仮に制御できたからといって、感情までもが制御できるわけではないだろう。ある人にとって幸せなことが他の人にとって不幸なことになることは多々あるものだから。だから、この本に登場する患者さんの症状を読んでいると、それらの軽微なレベルのものは普通の人ならばだれでももっているんじゃないか。自己嫌悪、ナルシズム、心配、うそつき、思い出し怒りというものは誰でも憶えがあるだろうし、いわゆる「喜怒哀楽」を代表とする人間らしい感情に含まれている。病院にやってくるのは、こういった症状がどれもこれも「ケタ違い」にすごい人のようである。普通の人がマネできるようなレベルではない。だからこそ病気なのだろうけれど、逆に言えば患者さんと普通の人とは「地続き」なのだ。先天性なものか、事故やケガあるいは薬による副作用ということが原因で患者の人もいるのかもしれないが、そうでない人も多いだろう。

 春日武彦さんは、どちらかとえいば「強い」精神科医ではなさそうだ。何が強いのかといえば、絶対に患者さん側にならないという確証である。春日武彦さんの考えなどを読んでいると、何かあったら境界の向こう側に行ってしまいそうな雰囲気がある。実際「発病したかもしれない私」というものを想定しており、患者さんのことを「発病した私」として診ている眼差しがあるようだ。なかには、死んじまえと思うような患者さんもやってくるようだが、そういうことでは「名医」には成り得ないだろうし、名医でなければエッセイの依頼などはなかっただろう。陳腐な表現だけど、患者側にたてる医師がよいなと思う。

 この人に期待しているのは、精神科の患者さんと普通の人をつなぐ境界のようなものがどうなっているかである。精神科に対しては、なにか怖いものを感じるが、本当の境界はどういうものかを教えて欲しい。そうすれば、街や電車のなかで出会う「おかしな」感じの人との間合いのとりかたをもう少し上手にとれるようになるのではなかいかと思うから。

2010年1月17日

「狂い」の構造

春日武彦+平山夢明
桑社新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 気になっていたこの本を一気読みした。内容はさわやかとは全く逆方向のおぞましいものであり、狂った人が世の中そんなに溢れているのならば生きていくのが嫌になってしまうよ、というような人たちの話も満載で、面白くもあり不気味であった。そうか、これがホラーの魅力というものなのかもしれない。

 春日武彦さんについては、曖昧なものいいなしで精神病の人たちやその症状について教えてくれる著作がある人である。なかなか読むのをたじろいでしまうくらいで、できれば読まないで済ませたほうがいい。とはいっても、人は妙なことに興味を持つもので、ついつい買ってしまう。ということで、ぼくの本だなには買ったいいが読んでないこの人の本が溢れているわけである。

 もう一人の平山夢明さんは作家さんということなのだが、ぼくは著者を読んだこと画はない。『ダイナー』という小説の作家だよ、と嫁さんに言われた。年末の「闘うベストテン」というミステリー番付の番組のなかでベストテン入りするかどうかでもめていたあの『ダイナー』の作家なのか。内容はとっても面倒なものだということなので、なるほど「狂い」の放談をするにはちょうどよい人なのだろう。フィクションでは多くのこわい人を書いてきたのだろうけど、実際の怖い人を相手に仕事をしている春日武彦さんとはどんな話になるのだろうか。そんなワクワク感がないわけではなかった。

 で、実際「狂った」人の話を聞いている家に、薄ら寒い思いがしてきて困った。そこでの事例を希釈したものであれば普通の人にもあるということだが、大抵は犯罪絡みになっているのである。というか、自分の知人やまったく無縁の人を含めて死んでしまうからである。そこまで行かなくても不幸になったことは明らかで、もうたいへんな被害。幸せになるための条件があるとしたら、自分も自分と関係を持つ人にも、「狂い」の構造をもった人がない事ということになると思う。

 パチンコをするために赤ちゃんをバイクのヘルメット入れに入れて死なせた人は、ごく普通の市井の人ということになっているが、本当にそうなんだろうかと疑問になる。給食代金を支払わない人と同様に、「狂っている」人は殺人と関係しないまでも世の中に蔓延しているということである。別の都市に多いわけでもないだろう。ニュースを見ているとどこでだって起きているようだし、単に人口比に事件数が比例しているだけのような気がする。

 しかし、現代社会に生きてくのは面倒なことがおおいなぁとため息がでる。仕事だとかストレスフルな人間関係とか、生きていくには面倒なことはいろいろあるけれど、どうやら少なくない数の「狂った」人の中で生きていくのもあまりうれしい気分がしないものである。もちろん、状況によっては自分だってそうなるかもしれないし、自分の家族や知人がそうなるかもしれないという可能性はつねにありつづけることからくる不安もある。

 面白かったけれど後味もよくない、というかそれが事実なんだろうから仕方ないなと諦めを誘う本だった。

2010年1月15日

はじめての宗教論・右巻

佐藤優
生活人新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

 新刊で平積みなっているとつい手にしてしまうタイプの新書である。著者は佐藤優さんだから読みごたえ十分だろう。結構売れているようで、平積みされた本のうちこの本の高さが低くなっていた。

 のっけからキリスト教についての解説があるかと思っていたら、まずは現在の日本社会での宗教についての解説から始まっていた。新興宗教についてかなと思っていたがそうではなく、「宗教」とは名のらない宗教についてのことで、オーラの泉とかそういうものが蔓延している今の世の中の風潮について解説されている。スピリチュアルだのなんだのは「女子供」が好きな血液型や星占いのようなものだと考えていたが、いやいやあれは宗教なんだということだ。なるほどわからんではないが、スピリチュアルなるものは宗教の3条件(ABC)が成立していないから、必ずしも宗教とは言えんだろうとぼくは思っている。

 宗教とは、見える世界と見えない世界をつなぐものだという話である。この理解は必ずしもこの本の主張を100%反映していないかもしれない。というか、神学やら哲学やらが関わってくる解説は読み流してしまうところがぼくにはあるで、この理解は間違っているかもしれいない。間違ったとまではいかなくとも、ピントがぼけているかもしれない。それでも、見えない世界が存在していると考え、その世界と見える世界との関係を考えていくと宗教というものが浮かび上がってくるという宗教理解は、さほど外れではないだろう。

 現代社会では見える世界が重要なのは間違いない。見えない世界は「古い」ものあるいは迷信として残っているだけ。そう考えるのは、市井の人の普通の「基準的」な考えであろう。いやそうではないと思っていても、見えない世界について声高に主張することは、その人の社会生活を円滑にすすめていくことに対してリスクを伴うはずである。表層的には見えない世界を語る・信じる=知能が低い・古くさいという図式がまかり通っているから。日本の宗教や仏教の儀式に参列する機会は少なからずあるが、それは「社会性」を考慮してのことであり、仏教なり神社なりの主張を「リスペクト」しての行動ではない。

 実際のところはどうだろうか。占いをはじめ、マスコミでは「見えない世界」への扉をやたら開いている。スピリチュアルは占いの延長や物語として扱われているはずなのだが、実はそのまま宗教効果をもっているとも言える。

 養老孟司さんの本に、現実とはその人の行動に影響を与えるものだ、という定義があった。とすれば、占いやスピリチュアルな行動の勧めを参考にして行動を変える人がいたら、占いの世界やスピリチュアルな世界は「現実」ということになるのである。ウエルカムトゥ宗教ということになる。

 そんなことを思い浮かべならが読み進めた。後半は佐藤優さんらしくキリスト教神学がちらちらしてくる。普通の人ならば、その説明の入り口をちょっと離れたところから観察して終わりにするよりない。佐藤優さんは前提とする知識体系がふつうの人には足りないから、そうするのはまぁ妥当なところだろう。

 左巻が出版されたら続きを読んでみようと思う。

2009年12月25日

幸福論

春日武彦
講談社現代新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 タイトルがベタなだけに内容が気になって購入した。著者の春日武彦さんは精神科の医師で、いろんな著作があり、だから物書きでもあるようだ。内田樹さんのブログに名前が上がっていたので、試しに読んでみようかなと思い選択した。いろいろ著作があるけれど、お休みの日に精神病の話をされてもかなわない。とりあえず万人向けの内容だと思われるものを選んでみた。

 たいていの幸福論は「気持ちにありよう、心構え」になってしまうものだが、著者はそういうものを書くつもりはない、と言っている。冒頭に、著者自身が幸福だなと思った「具体的な状態」をその場所や出来事を12個ほど列挙することから始まっている。その話一つ一つは、1ページ程度のちょっとした短編物語になっていて、いずれも「ふーん」と思わず言ってしまうようなものであった。

 著者が考える幸福とは、宝くじが当たったぞ、というような「ラッキー」ではなく、静かな気分で「いい感じがするなぁ」という感覚を味わうことのようである。感動したぞぉというような、心が揺さぶられるようなものは幸福感の範疇にない。どちらかといえば、自分は社会の中の一人なんだな、とか、他人の事を考えくれる人がいてほっとするな、という感想を持ったときが幸福なんだということである。

 じつはその気持ち、ぼくもわかる。ごく普通の出来事であっても「へぇ、いい感じだなぁ」と思えることには毎日の生活で遭遇するものである。そんなことはない、と思っている人は「自分の内面」しか見ていないからだと思う。社会の中でぼくは生きているなぁ、と自覚することができると、意味なく楽しい気分になれるものなのだ。それに気づくと、普通の一日であっても結構愛おしく思うものだ。

 こんな気分を楽しめるようになったのは、ここ一、二年のことである。向上心に絶対価値がなくなり、立派なことをしなければという焦りから解放されたときからである。おいしい御飯を毎日食べられて、なんて幸せなんだろうかと思えるようになってからのことだ。

 この幸福論に頷ける人は、おそらくそういう人であろうと思う。

2009年12月11日

キラークエスチョン

山田玲司
光文社新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 何を話していいかわからないならば、話す必要はないだろう。そもそも、自分のことをすすんで話す必要などあるのだろうか。自分が有名人でもない限り、自分のことを知りたいなどと誰も思いはしない。それよりも相手にしゃべってもらえばいい。自分は聞き役にまわるほうがずっと良い。こう考えるのがこの本のテーマである。

 他人とコミュニケーションをとるとき、自分が話すよりも相手にしゃべってもらった方が良い結果を得る。これは経験則である。自分のささやかな経験を振り返ってみても、ついつい話してしまったときは自分にとって楽しい思い出になっている。誰でもそういう記憶を持っているはずだと思う。それが飲み会ではなく会議の席であっても自分の話を相手が聴いてくれたら結果的に気持ちがよいものである。会話の内容は自慢話、つまり、いかに自分が立派であることを話したとしてもそうである。単に雑談ならば、相手はずっとらくだろうけど。

 そして、不思議なことに、自分の話を聞いてくれた人を自分は信頼してしまうのである。あぁ、この人はいい人であると。なぜなんだろうか。

 これは特別な人だけ当てはまることではない。この本を読んで、人というものはそういうものなんだと思うようになった。言葉を発することができ、それを理解することができる。それを可能にするハードウエアをもった生物なのだから、会話が成立すると信頼してしまうのだろう。そうぼんやり思っている。

 どうやったら人と上手にコミュニケーションをとれるのだろうか。その技術について興味があるから読むわけである。そして、この本はそれに十分答えてくれる。しかし、それで終わったら普通の本であり、単なるビジネス本の一つでしかない。だから、そのうち忘れてしまう。kの本は印象に残る理由は一つある。

 どうしてコミュニケーションを取りたいと思うようになったのか。その動機に目をむけたらどうだろうか。いったい誰とコミュニケーションをとりたいのでしょうか。今までコミュニケーションを上手にとれなかった人に対して、どうしてまた気分が変わったのでしょうか。

 こんな問いが最後に書かれている。ちょっと面食らったのである。問われてから口ごもってしまった。その問いに答えようとするにつけ、自分を自分で眺めている自分をはっきり意識するようになった。そんな気がする。

2009年12月 3日

私にとって神とは

遠藤周作
光文社文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)

 そのものずばり、である。そう、遠藤周作さんはこの対象を一体どう考えているのだろうか。興味をもったので買ってみた。

 自分で考える事をしない人の答えならば予想がつく。聖書にそう書いてあるから、とか、誰々がそう言っていたから。そういうものだろう。ぼくはこういうことを真顔で答える人に質問をしたいと思わない。どうしても聞く必要があるならば、本人からではなく情報源である聖書を読むなり、その誰々さんに聞くだろう。

 相手は遠藤周作さんである。この人ならば、考えに考えた結論が聞けるだろう。そう思ってこの本を手にした。

 ぼくは遠藤周作さんの小説『死海』という作品には強く魅かれたことがある。ずいぶんと真摯にキリスト教と向き合って、なんとも言えない苦労をしているなぁと感心した。なんだか大変な感じである。尊敬と同時に、なんでまた日本人が西洋のキリスト教を支えにして生きなければならないのだろうかな、という違和感を感じた。この違和感はおしなべてキリスト教の人に対してぼくは感じる。どうやって聖書の「おかしな」「整合性がとれてないない」「とんでも話」を心の支えにすることができるのだろうか。不思議である。

 この本では、なんでまたそんなもんを信じているんですか? そういうようなぶしつけな質問をいくつか想定し、それらに回答している。質問は著者が実際に問われたことがあるものを整理したのであろう。自問自答の本である。インタビュー記事のような形式なので、あまり込み入った回答をしてない。込み入った回答をすると読まれないし、誤解されるからかもしれない。だからだろう、この本は読みやすい。

 で、それらの回答にぼくは納得したのか。ご本人はそれなりに工夫し、それなりに自分のものにしようとしたということは理解した。西洋生まれの思想であり宗教であるものを「自分の身体に合わない洋服」と表現し、それを自分に合うように仕立て直すという形容をしているからだ。つまり、額面通りに聖書なり教義なりを自分に押し付けるのではなく、自分の経験や感覚に合う異様にどれも際解釈しているのである。それはこう考えるといいのではないですか。そういう具合にである。

 なるほどそれならばまぁぼくでも理解できる範疇だろう。が、それって、何かを信じるってそんなことをするものなんだろうかと疑問に思う。

 遠藤周作さんが受け入れられるというものに変容させているならば、信じると行為ではなく、信じられるものを信じているだけであって、なんだか話がちがう。もっというと、なるほど「信じてない」ということなのだ。 一つ疑問が解けたのは、それって信じてないってことですよね、ということだ。つまり、自分の思想にしてしまったのである。オリジナルではなく、キリスト教をベースにして遠藤周作さんの感覚にあう思想になっているのである。そして、それを信じるからカトリック教徒ですと言っている。

 ぼくが判断するに、要するに遠藤周作さんは信じてない。そうではなく、こういうことを考えると生きやすいですよというものを作り出してしまっている。

 それはそれでいいと思う。まさに日本人がずっとやってきたことだから。それに、そういう改変をしているということに少し安心したのである。

 宗教人であるが原理主義とはほど遠い生き方である。ヨーロッパ人が遠藤周作さんのような態度をとっていたならば、世界の年表にある戦争や騒動の数は大分少なかったであろうと思う。

2009年11月21日

船に乗れ!〈2〉合奏と協奏、<3>合奏協奏曲

藤谷治
JAVE
お勧め指数 □□□□□ (5+)

 この3部作はすばらしい。本っていいなぁ。そうつくづく思った。あまりに良いので、「人生って素晴らしい」とすら感じた。

 この内容が「小説」だとしたら著者の構想力はスゴイレベルだと思うが、巻末の著者略歴を読むに、要するに自分の青春時代の報告がベースになっているのだろう。本当にこんなことがあったのかどうかはわからない。出来事のタイミングが良すぎるところなどは物語として工夫していあるのだろう。それでも、大きな出来事は体験ベースなんだろうなと感じる。

 記述のところどころに未来の視点から語られているところがある。その語りにはある種の諦観があり、そしてそれが不安感を煽る結果となる。須賀敦子さんの本にあるエッセイはどれも最後に「不安」にぶち当たるのだけど、それと同じような性質をもっているようだ。だからぼくはこの本に魅かれたのかも知れない。

 未来は不安である。そう思っているからこそ、未来の不安を予感させる語りに魅かれるのかもしれない。しかし、同時に、未来にカタストロフがあるわけではないと感じている。なぜなら、未来の視点で語っている人がいるということは、その人はなんとか生きてこれ、過去を語る余裕があるわけだから。不安の結果に不幸が待っているわけでもなさそうだ。ただし、そこには必ずしも「すっごく幸せ」という感情はないかもしれない。が、ごく普通の人の幸せというものを楽しむ時間はありそうだ。

 この物語もそうなっている。1巻を読んだとき、その青春っぽさに魅了され、2巻を読んだのである。普通の人には持てない体験がつづくのかなと思って。ところがビックリして(でないと物語にならないが)、不安のまま3巻に進んだ。そして、そこには、大多数の人の実情とあまり変わらない人生の報告が待っている。ぼくはそう感じた。。いや、それは著者の経歴を侮っているのではなく、見事にこの本の物語が着地したことへの安堵であり、ぼくは納得したということである。見事に物語が閉じた。

 この本を振り返って、まるで自分が目撃したようなイメージが残っているものは、南という女性のまなざしである。ある場面での一瞬の出来事。不安、恐れと同時に懇願とそして諦めと最後に振り絞った勇気とが混じった視線である。これでこの物語は決まったのである。こんな面白い本ならば、誰かが映像化するだろう。2夜連続ドラマのようなもので。その際、このシーンだけは外さないで欲しいなぁと漠然と思う。まぁ、そのドラマは見ないだろうけど。

 かりにこの話が実体験ベースであったとしたら、著者が40過ぎまで生きてくるのは結構タフだったことだろう。しかし、なんとか人を感動させる小説を書くまでに至ることができた。いくつか小説を書いた後に、この小説を世に出した。著者の経験は多くの人の頭の中に入り込み、その人たちが生きることを鼓舞するものになったはずである。一個人の青春時代の体験が日本語が理解できる人に共有され、それが人々の財産になったのである。

 この話が実話に基づいているって思いたい。実際のところは知りえないので、もう実話だったということにしてしまおう。そう信じてしまうと、本っていいなぁと思う。ぼくには何の関係もない人の個人的な体験なのだけど、それを通り抜けた後に思うのは、素晴らしき哉人生は、である。ぼくはこういう本をもっと読みたい。

2009年11月17日

しがみつかない生き方

香山リカ
幻冬舎新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 <勝間和代を目指さない>。この本の帯にそうあって、それを見たら書店で笑ってしまった。幸い人がまばらだからよかったが、しかし面白い帯だ。

 タイトルから内容を想像するに、もっと気楽に生きたらいいんじゃないんですかねぇというものだろう。日々の生活にでも気づけば結構楽しいことはいろいろありますよ。そういう精神科医の先生からの忠告のような本であろう。ぼくにはとりあえず必要ない本である。というのは、ぼくは仕事が忙しすぎるわけでもないし、つまらないわけでもないし、借金もないし、家族と問題なく暮らしているから。この本の結論にありそうな、「普通の幸せ」のまっただ中にいると思っている。

 そういう日々の生活にいてもときどき「勝間和代さんを目指さないと行かんのかなぁ」と思うときがあり、漠然とした不安を感じることもある。ぼくの仕事場には勝間本を読んでいそうな人も結構いる。ぼくはそんな人たちと勝負なんぞしていられんとばかりに、大きく方向転換してしまっているので、まぁ気楽な生活なのである。だからぼやっとした不安は、「とはいっても、まぁ普通の生活でいいでしょ」と開き直ることで頭から消えてしまっていた。

 この本でのテーマは、「普通の幸せ」というものを求めることが意外に難しいというものである。世間ではそういう状況になっているようだ。日本にもいろんな人がいるから、「日本人論」とまではいかない。テレビでも書籍でも「リーダーを目指せ」「勝ち組になれ」といったメッセージは溢れている。そんな社会に浸かっていると、リーダになれないならば人の価値は小さいといったような考え方する人は日本にも増えたのかも知れない。

 ちょっと考えてみればすぐにわかる。とんでもなくスゴイ人を目指すことを否定しないけど、とんでもなくスゴイ人というのは数人しかないのだ。勝間和代さんを目指す人は大勢いても、勝間和代さんレベルに達する事ができるのは数人だろう。ところが社会には数百万から数千万という人がいる。要するに、宝くじをどう考えるかと同じ問題のような気がする。みんな目指せば目指すほど挫折する人が増えることになる。社会にとって、それは良い事なのだろうか。

 この本での二番目のメッセージは、「努力は報われる」という信憑についてである。この言葉は「そうだといいよなぁ」という希望であり、昔ッから、人類史と同じくらい昔ッからある、とぼくは思っている。努力しても報われないからこそ、宗教なんてのが生まれるのだと思っている。がんばった人が報われるといいけど、実際はそうじゃない。それが社会なんだよね。この本はそう注意してくれている。

 この注意は別に目新しいものではない。しかし、不思議とこの注意をみな無視する。オリンピックの金メダル選手のような人が、優勝したあとで自分のこれまでを振り返って語るとき自分を物語の主人公にしてしまう衝動にかられるのだろう、「努力すれば報われる」と言い続けるのをよく目にする。そして、それがよい話になっていく。

 しかし、実際問題として、同じような努力をしてもうまくいかなかった人はたくさんいる。金メダルを取った人より努力したけれど、いろんな事情でうまくいかなかった人はたくさんいる。そもそも、スタートラインにすらたてなかった人もいる。そういう人の存在はすべて無視され、うまくいかなかった人は努力が足りなかったと断罪されておわるのである。

 著者がとりあげたことについては、不思議とぼくも同じような意見に着地していた。それは決して「人生を諦めた」という意味ではない。なにをどうやろうとも、人は死ぬんだよなぁとしみじみ考えていると、普通に今生きていられる事がとても幸せに思えるようになった。だから、幸せを得るためにがんばる、ということをしなくなった。ぼくにとってまぁまぁの生活。そんなものを目指すようになったのだ。そういう態度だと少し不安だったのだが、まぁこれもありなんだなと思うようになった。

 日々の生活をとくに楽しめるようになった。そのために自分なりに結論したことは、この本の結論とあまり変わらない。ただし、非常に上手に分かりやすい言葉で語られている。言葉の世界で生きている人は凄いなと思う。
 

2009年11月16日

頂きはどこにある?

スペンサー・ジョンソン
扶桑社
お勧め指数 □□□□■ (4)

 『チーズはどこへ消えた』を読んだことがある。なるほどなぁ、そうだよなぁ。いたく感心した。ようするに「自分から動け」ということを教えるおとぎ話なのだ。そりゃそうだ、という自明なアドバイスに恐れ入ったのである。

 ただし、ちょっと経ってから考えると、その当たり前のアドバイスは当たり前であるがゆえにアドバイスにならないことに気がついた。「母親の愛情は子供にとって大切なものである」というメッセージと同じで、そりゃそうだろうよ、で終わってしまうたぐいのような気がしたのである。次の一歩を踏み出すアドバイスは書かれていない。もっとも、おとぎ話としては良いものであることに変わりはないのだが。

 さて、新作。書店に並んでいるのを見ると欲しくなる。なるほど、という気づきが得られるようなことが書かれているかもしれないから。まぁいいや、と思って購入し、読んでしまう。なるほどなぁ、これもよいおとぎ話である。寓話なのだが、ナルホドという形出完結している。果たしてこれもビジネス書なんだろうかという気分になる。自己啓発というほどでもない。イソップ童話と同じカテゴリーに入れたい物語である。

 話が簡単なゆえに憶えてしまうところがある。ぼくが一番印象深かったのは、「持っているものを自覚しよう」というところである。何かがない、ではなく、今もっているものを知る。ある意味満足を知れ、というメッセージのようなものである。何かが欲しいと思った瞬間、自分は谷底にいる事になる。そして、峠を目指して登りはじめることになる。が、何かを持っていると自覚すると、今要る場所は峠になる。つまり、峠とか谷とかは、自分がどういう欲望をもっているかで変わる。絶対的な峠などない。

 そうだよなぁ。ある種の仏教説話のような気分になる。要するにそういうものなのだが、これをビジネス書として認めるかどうか。反資本主義的な内容でもある。というのは、成長しなければと思ったときに大変な毎日にから。

 よい本で、ぼくは好きである。ただ、それを読んでも何も進まない。というよりむしろ、立ち止まることを求めている。そうだよなぁ、で止まれる人と止まれない人がいるだろう。結局、立ち止まれない人はずっと大変な日々が続くんだろうなぁと想像し、ぼくは面倒なところにいなくて良かったと思ったりした。

2009年10月26日

45分でわかる! 新型インフルエンザの基礎知識

池上彰
(MAGAZINE HOUSE 45 MINUTES SERIES
お勧め指数 □□□□■ (4)

 新型インフルエンザについて基本的なことを知っておきたいと感じていたときにアマゾンでこの本の広告が目に入った。著者は「優しく解説すること」に人生を賭けていそうな人だし、そもそもからして「偏りのないような」配慮をたたき込まれたであろう人である。読んでおいて損はないだろう。

 手にして驚いた。まず本が薄い。フォントが大きい。そして、要らないものがないような配慮がなされている。それでいて高齢者向けの本や子供向けの本にありがちなレベルの低さはない。内容は「平均的な日本人」と期待できそうな人たちに向けに設定されているようである。役所が作るような「ちょっとおれらをバカにしすぎてないかい?」といいたくなるほどまで情報を加工したり落としたりしていない。普通の人ならば読んでいれば発見があるだろう。なんだ、それって無意味だったのか、というような。「解説書」というものはこのレベルを保ちたいものである。

 H5N1というインフルエンザのタイプ表示の解説がよかった。鳥インフルエンザのときにニュースに盛んに登場していた言葉だが、その意味についてこの本では完結に解説されていて、なんだそうなのかと知ったのである。Aソ連型や香港型といった、従来から耳にしたインフルエンザ、鳥インフルエンザ、豚インフルエンザについての整理が頭の中でできた。だからインフルエンザについては従来以上にさっぱりとした気分になれる。もう、変に怖がることなどないであろう。

 本で得たものは知識である。何かを知ったからといって厄介なことに巻き込まれないわけではない。しかし、することで心理的な覚悟はできる。インフルエンザはどういうものなのか。どいう種類があるのか。どういう仕組みで、どんな人に、どんな状況で広がっていくのか。感染したらどんなことになるのか。こういったことを「センセーショナルな味付けないし」で淡々と語ってくれればいい。不安を煽ってお金を手にするマスコミ、情報に不備があったことによる責任追及を逃れるための配慮に余念がない役所には、淡々とした解説などを期待するのは無理である。だからこそこの本のような、読む人を配慮した本が必要なのだ。その意味で、この出版社や著者は日本の常識のまともさを表してくれていて、ちょっとうれしい気がした。

2009年10月 1日

逆立ち日本人論

養老孟司+内田樹
新潮選書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 最近、昔読んだ本を読み返す機会が何度かあった。新刊だとがっかりすることも多いので、より確実に面白い本を読む方法として結構気に入った。どんなに感心し、そこから学んだ本であっても、一回しか読んでいないならまだまだ読んでみると発見はある。数年も経てばかなり内容を忘れてしまうもので、それならば新規に購入することを控え、過去に読んだ本を読み返すキャンペーンをやろうかとすら思っている。とはいえ、買った本のうち半分は読んでいないので、正直新刊を買う必要はないのだが、それでも買ってしまうという悪癖をなんとかする方法ともいえそうだ。

 この本は、大好きな両氏の対談であるから、どきどきしながら読んだことを憶えている。表題の「逆立ち」とは対偶のことを指しているようである。論理学か数学を学ぶと命題証明について学ぶが、対偶とはそこで用いられる考え方である。AならばB。もしこれが正しければ、BでないならばAでない。これも正しい。後者を対偶と呼ぶ。

 日本人を定義する方法に、日本人ならばこういう人である、記述するとする。ところが実際この方法で定義することは難しい。だからこの対偶を使うのである。こういう人でないならば日本人ではない。ちょっとじれったい表現方法である。知りたいことは日本人とは何か、なのに、日本人でないとはどういうことかを考えるのだから。

 内田樹さんはこのロジックでユダヤ人についての考察をしている。なるほど、と思える。なにか別ことにも追うようできそうだ。内田樹さんの問題の捕らえ方を養老孟司さんが高く評価している。そして、それをつかって日本人論になっているのだと思って読めばいいのだ。

 この二人の取り合わせの対談、別の機会に出版されないだろうか。新書サイズでもいいので。

2009年9月25日

妄想力

茂木健一郎+関根勤
宝島社新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

 久々に痛快な茂木健一郎さんの対談本を読んだ。最近は粗製乱造ぎみで暗雲たれこめてきた茂木本だが、この本はその暗雲のなかにきらりとひかる一条の喜びだった。気軽に読める対談本はこうでなければいけない。

 とはいえ、この本の面白さは関根勤さんの話に寄り掛かっている。この本の2/3はは関根さんの発言で、ぼくが思わず吹き出してしまったところも関根さんのものだった。

 関根さんの発言は自分の妄想についてばかりだが、それなのに不思議と感心したり笑ったり驚いたりバカにしたりと愉快な気持ちになれた。関根さんはそもそも嫌みを言うタイプの人ではないから、否定的な発言がない。あったとしても、後に引く苦味が一切ないのである。

 茂木健一郎さんの役目は話を引き出すことと、話題の中で脳科学の見地から専門的な注を加えることにある。ただ、専門知識がなくたって話題進行に全く影響はない。編集でカットしてもいいかもしれない。注はむしろ逆効果で、面白い話で蘊蓄を垂れる人が混じっているような感じがしたのだ。この対談のできからいって、脳のことなんてどうでもいいのだから。

 そう思ったら、なんだ茂木健一郎さんの役目は少し違うフェーズに入ったのかも知れないと気がついた。茂木健一郎さんは学者である。脳についてはよく知っている。質問すれば答えてくれるだろう。しかし、そういうものはもうあえてしなくていいのかもしれない。つまり、茂木健一郎さんの雰囲気があるだけで、相手は面白い話をしたくなり、そしてついついしてしまう。そうなったら脳科学からの解説なんて全くなくていい。一人の普通の人として、愉快に笑っていればいいような気がする。茂木健一郎さんの「師匠?」でもある養老孟司さんは、解剖学者であるという肩書きをすでに意識していないでいろいろ発言されているし、その話を聞く方も期待していない。だれも『バカの壁』に脳科学や解剖学の内容を思い出すことがないだろう。もう大学を退官されたからかもしれないが、解剖学的にこうである、なんて注を入れるなんてやっていないかった。それでも、面白い話をいろいろしてくれたし、対談では話者の話を引き出していた。

 面白いとなにか、いい感じの人はどういう人か。その辺りを脳科学の見地から見たらどんなことが言えるのだろうか。必ずしも「蘊蓄」や「注を入れる」という行為は、楽しい話を引き出すことには必要ないだろうなと感じた。

2009年9月 9日

化粧する脳

茂木健一郎
集英社新書
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 BOOKS SAGA長津田

 茂木健一郎さんの研究室で博士号を取得された人の研究をベースにした新書である。本書をコアになる内容だけにしぼったら1/4の厚さになり、新書としては成立しない。だからだろうけど話を膨らませすぎ。本題の周辺の説明ばかりが目立つ。もちろん、本書のどのトピックも茂木健一郎さんなりにきちっと解説しているのだが、尊敬し得る「良質な考察過程」はもうここにない。知っていることをそれらしく並べてあるだけ。言って見れば広告代理店の仕事である。ビジネスライクな本を掴まされると心底がっかりする。

 この本で展開されている考察はfMRIの結果に基づいている。fMRIは便利な機械である。今まで適用されなかったことに提供すれば発見が得られ、論文が書けるから。機械は考察のための道具の一つでしかないが、機械の出力の解釈次第でいろんな展開が得られてしまう危険なものである。科学は考えた事と実験とをすり合わせる行為なので、実験の質しだいで科学成果の質も変わってくるのである。この研究者には鮭もお化粧が好きなのかもしれないという可能性を考察してもらいたいものである(Dead Salmon's "Brain Activity" Cautions fMRI Researchers)


2009年9月 4日

宗教なんてこわくない

橋本治
マドラ出版
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 橋本治という不思議な人については、数冊読んだことがあるに過ぎなかったのだけど、なにかと内田樹さんのブログに紹介があり、そのたびに読んでみようと購入していた本が手元に何冊かあった。昨日フッとこの黒い表紙の本を読みはじめたところ、宗教について「わかっちゃった」というところまで連れていかれ、他の作業を中止し最後まで読んでしまった。実に「すっきり」した。正直驚いた。なんだ、宗教ってのはずいぶんと簡単なことじゃないか。なんでこんなことを怖いだのわからないだといって忌避していたんだろうか。そんなことを軽く言ってしまえる自分がここにいる。橋本治さんは、なるほど不思議な人なんだ。

 その道筋は簡単なもので、宗教はism(主義)と同等であり、いや主義そのものであるのだと言う。そして、そんなismが発祥した時期は普通の人が学校へ行くことがままならい古代という時代であり、「自分を認識する」などということがほとんどあり得ない状況。そんななか、物事を自分の頭で考えて決めるという行動をとれない人がほとんどだった社会のなかで生きていく知恵として昇級というismは発明されたということである。そして最後には、自分たちは特別な集団であるという気分、自然や社会そのものに感じる恐怖をやわらげるための錯覚という方法なのだと結論づけている。いや、ちょっと違うかもしれないけれど、ぼくが理解したところを表現するならばそんなところになる。一回しか読んでいない状況で全部理解するのは、まぁ無理であるから仕方ない。

 こう考えると、宗教の役割はすでに終了している。なぜなら、みな自分で自分のことを考えることが原理的にできる環境にあるから。とは言っても人間が一様な環境下にいるわけではないから、できる人もいるし出来ない人もいる。おそらく、永遠にそうなんだろう。日本人に限って言えば、みな自分で自分の事を理解していると信じている。

 鎌倉から江戸までの時代には、宗教にはそれなりの信頼と畏敬の念を感じていたようである。しかし、江戸時代の檀家制度によって宗教が社会システムに組み込まれてしまい、それによって宗教の内実がばれ、普通の人にとっては畏敬ではなく笑いの対象になってしまったようである。幽霊は怖かったが、仏教が怖いということはなかったのだ。それは平和のなせる技、ということなのだろう。そしてそれは現在に至る。

 この本を読むまで、宗教とは人の心に働きける方法だと思っていた。その部分をさらに客観的に分析すれば、宗教は「主義」と違わないとわかる。逆に言えば、主義は宗教みたい。ある人のこだわる価値感を論理で説明されたところで理解できるというものではない。何を良いと思うかは人によって異なるから。主義にどっぷり浸かっている人は、不思議とそれを理解していない。自分の主義は決定的に正しいと信じている。そんなところは宗教と同じだ。自分たちがよいと思うものは、時自分たちにとっては疑いなく良いものであり、その意味で特別である。他の似たいようなものとは一緒にするな。宗教も主義もそれをもっている人の行動は同じになる。

 宗教の価値観は、そもそもが他のものと比較できないようになっている。比較演算ができない。論理というものが適用できない。だから、信じなさい、なのである。信仰をもつとは、要するに考える行為を放棄したこと。古代や中世であれば、普通の人が学ぶということは無理だった。学ぶのは社会生活を営むうえでの身体を使う技術に対するものがだけであったはずだ。

 思索というものは、職業訓練学校では学べない。突き詰めて考えるには、それなりの訓練がいる。学ばなければそうことは出来ない。ならば、それは古代でも現代でも同じ。だから自分で判断しないタイプの人はすぐに宗教にひっかかるのである。主義主張も宗教に経験なのもとくに男性。

 こう考えると、Windowsがいいか、Macがいいかも昔ッから言われるとおり宗教問題である。論理で決着は着かないし、双方自分が正しいと思っているので和解もない。もっといえば、どっちでもいいと思っている人からみるとあほらしい。

 宗教はあほらしいと思う反面、薄気味悪い。巷で跋扈している宗教に対してなんとなく薄気味悪く感じている人は多いだろう。一昔前のオウム事件を初めとした新興宗教も、タリバンなどの古くからある宗教の原理主義も、彼らの行動はその人たちにとっては真剣そのもの。しかし両者ともに日本の一般市民からは阿呆臭く、迷惑以外のなにものでもない。今年の衆院選にも新興宗教の候補のポスターが貼ってあったが、平成初期の頃を思い出した。歴史は繰り返すというが、この人たちにはなんで普通の人の感覚というものがわからんのだろう。主義や宗教のなせる技である。

 いかなる宗教でも、現代ではただの主義、あるいはイデオロギーの一つに過ぎないならば、熱狂的阪神ファンとキリスト教とは構造からして同じに扱っていいのだろう。もちろん、歴史や社会に与えてきた良い影響というものは尊重したほうがいいし、人が大切に思っていることをけなす必要は全くない。普通の人がそれらに対してある種の恐怖のようなものや気味悪さを感じる必要もない。しょうがねぇなぁ、と笑い飛ばすのが一番である。これがこの本の一つの主張であり、主義や宗教にたする処方箋になっている。書名のとおり「宗教なんかこわくない」のである。江戸の町民のように、主義も宗教も笑ってしまえばいいのだ。なんとさっぱりしたものだろうか。

2009年7月20日

大麻ヒステリー

武田邦彦
光文社新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 武田邦彦さんといえば環境問題、とくにリサイクルを論じる人だと思っていた。が、大麻についての著作があった。何でまた麻薬について語っているのだろうか。この本のタイトルが何かを主張しているようでもある。興味にまけて購入したのだが、多少無駄遣いの感もないではない。

 一読して納得した。要するに、大麻=麻薬ではない。にも関わらず、最近多くの人が大麻草の扱いによって吊るし上げられている。それを見ちゃいられなくなった。そんな動機からの執筆のようだ。ホント、マスコミの報道が多いから最近。

 この本で著者の考える過程を見る事で、「考える技を見つけた人はどうやって主張するのか」を学べた。疑問から仮説をつくり、それを現実に照らし合わせて検証する。口では流暢に行程を説明できるけど、経験が豊富な人でないと実際に実行できないであろう。
それに、世間で流布している主張には根拠がないことや誤りが多いことを知っている人でないと、あえて実行する動機がないだろう。

 科学を身に付けた人が社会にどんだけ正当な提言ができるのか、その凄さにあらためて感心した。現実をきちっと把握できる科学者の数がその社会の今後を示している。そう考えても大げさではないだろう。決してマスコミ報道の量はその国の知性の指標にはならない。

 最近は麻薬関係で逮捕される有名人の報道を多く耳にするが、そのうちで大麻がらみで逮捕される人についてはもうちょっとなんとかならんのだろうかという疑問をこの本は発してる。現行の法律で大麻草を所持しているだけで逮捕されることになっているが、近代史をちょっと振り返えり、そして普通に考察するにつけ、大麻草くらいでその人の人生を全損させる必要があるほどの犯罪なのだろうか、という提言なのである。そして、否、そんなことはない、が結論。

 大麻草というものは戦前の日本には普通にあった植物だそうだ。麻がつく地名には、大麻がたくさん樹勢していたということだそうだ。

 一口に大麻といってもいろいろあり、日本にある大麻からはそもそも薬物成分がとれないそうだ。それに、大麻の薬物成分は身体に残らないということだ。タバコの方が問題だろうし、交通が激しい街道沿いに済んでいるこがよっぽど身体によろしくない成分を吸い続けているのだろう。

 いわゆる「常識」には、歴史的な理由によって誤りがあるものである。それが生きていく上で不利になることもある。それに気づき、その妥当性を判断するためのプロセスはこの本での著者のような方法を使うのだろう。科学的な思考をマスターするってのは、生きていく上で有利なんだ。よくわかった。

 とはいえ、それが世間の常識にあらがうものであれば、一悶着しないではすまない。社会を変えるための方法としては、扇動や恐怖を利用するほうが効果が絶大なのも事実である。

 地球温暖化もこの大麻問題のように、科学的根拠からの提言ではなく、政治的なアジテーションが科学を装っている。そういうのからどうやって距離をとればいいのか。まぁ、この著者の本をもうちょっと読み込んでみよう。

2009年7月14日

スティーブジョブズ成功を導く言葉

林信行
青春新書INTELLIGENCE
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 スティーブジョブズについての本は最近何冊も出版されており、ぼくも何冊か読んでいる。有名な言葉やエピソードが数多くある人でも、さすがに何冊分もの本にはならないだろうから、この本で語られるであろうエピソードはすでに聴いたことがあるものばかりになるだろう。なのにこの本は新刊だからといって買ってまで読むべきだろうか。普通ならば読まない。しかし、著者が林信行さんならば、さすがに自分の本と重複することは書かないだろうし、新たに出版する意味がある切り口が見つかったから新刊で出したのだろうと思うから買ってみた。

 面白い。ジョブズのことを書いているのに、なんだから人生論になっている。というか、これは林信行さんの人生論なのだろう。その題材はジョブズのエピソードと言葉から取ってきている。確かにジョブズには感動的な実例にはことかかない。ただし、著者に冷静さがないと教祖礼賛におちるが、この本はそうではない。あくまでも理想的な生き方の一つとしてジョブズを探っており、それを読者に語りかけることで止めている。下手な人生論よりジョブズの名言集ということである。

 カリスマはカッコいい方がよい。若い時よりも中年の渋さの方がよりカリスマ性が大勢の人に受け入れられるだろう。若々しさよりも、きれい事よりも、スマートな探究者として多くの人のロールモデルとなれば、崇めることよりも目標となる。ところが日本でのカリスマは、「俺は偉い」ということを示す人だったりする。その違いは注意が必要だ。外見的には偉そうにしようとする、他人を威圧する、そういう態度や言葉を取りがちだから、よくみればすぐに見分けられる。具体的にはその人が誰を見ているのかをみるのである。日本のカリスマは周りの視線をつねに追っている。

 何かを目指した探究者の目線は外に向けられている。その人を見ていると自然にこちらの視線もその先にあるものに向けられる。そして、そこにはいわゆる理想的な物が見えてくる。理想は人によって様々だが、その先にあるものは言葉で表現されることが多いので、見る人それぞれが適当に思い浮かべることができる。ならば見ている人みな楽しい。ジョブズにはそれがあるようだ。

 ジョブズの言葉にはなんだか仏教的な響きをもつものがある。それが仏教に由来するものなのか、どんな社会でも似たような言葉が存在するものなのかはわからないが、例えばこんなものだ。今日が人生最後の日だとしたら、あなたは「それ」をするだろうか?と自分に問うてみる。この言葉はスマナサーラ老師の本で読んだことがあるので、おそらおくは釈迦の言葉にもあるのだろう。一方で、レオナルド・ダ・ビンチも「一日の良き過ごし方」について似たようなことを言っているので、ヨーロッパにも古くからあるのだろう。だから、どこの世界にもあるのかも知れない。

 知識としての格言をたくさん知っている人はたくさんいるけど、実際にそれらを行動に反映させたことがある人は少ないだろう。今日が人生最後の日ならば、という行き方もじゃぁ実際にやっているのかと言われるとほぼ全員やっていないはずだ。実践しない格言など知っていても意味がない。他人に説教するだけの道具でしかない。それはジョブズだって同じことだ。

 とはいへ、ふつうの人の利用方法は、365日そうするのではなく、ここぞというときに実践するというものだろう。この本にはジョブズのそんなエピソードが紹介されていた。今の奥さんとは、スタンフォード大へ講演か何かで行った時に知りあったそうだ。感じのいい人だと思ったのだけど、その日はビジネスミーティングがあるのでそうそうに帰る必要があり、駐車場のところまで行ったのだが、そのときに言葉が頭に浮かんだそうだ。今日が人生最後の日ならば、ビジネスミーティングよりもあの女性と食事でもするべきではないかと。なぁるほど、しかしそれって格言をもっていると胸を張って言えることなんだろうかと躊躇するのだが、ぼくは。

 ジョブズは技術者ではないし、デザイナーでもないけれど、みんながどこへ行くべきかその方向を示せる「ディレクター」ではある。そして、それを実現させる実際的な組織の経営者でもある。さらにそれを「かっこよく」できる。日本で紹介されるカリスマ社長はくちでは色々いうけれど単に高価な服を着ていることがおしゃれだと思っているオッサン経営者ばかりに見える。ビトンのバックを崇めている女子高生と中身は同じなんだろうなぁとぼくに教えてくれているような人ばかりだ。そこいくとジョブズの存在は、ぼくのようなオジサンにも憧れるような人であり、そういう人がいてくれてとてもうれしい。ただ、じゃぁ、ぼくも三宅一生の黒いTシャツを着ようとか思ってしまうところが、ぼくのダメなところ。あの出で立ちはアップル製品のテーストそのものであり、ジョブズこそアップル製品の一つのイコンなのだと納得するのである。


2009年7月10日

ブッダが教えた本当のやさしさ

アレボムッレ・スマナサーラ
宝島SUGOI文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 bk1

 やさしさとは何か。哲学や宗教の面倒な用語なしで解説すると誰にでも簡単に理解できる。なんだ、そういうことか。考えて見れば当たり前ではないか。要するに、自分の望むことをしてくれる人をやさしい人と読んでいるだけなのか。自分が正しかろうが悪かろうか、多数派意見だろうが少数意見だろうが、自分の望むような行動をとってくれることを「やさしさ」と呼ぶのだ。実に簡単なことである。
 やさしさの意味がわかると、やさしさは本当に人にとってプラスのことなのかという問いが頭をもたげる。というのは、人のエゴを許容する環境がやさしさなのだと言えるから。たわいもない要求ならば問題ないのかもしれないが、エゴは必ず成長し、本人にも制御できない欲望へと成長する。やさしさに慣れた人はいずれやさしさが感じられない状況に飲み込まれる。「わがまま」のクセが生きるのに障害となるくらいまで成長してしまったら、もはや本人に為す術がないだろう。つまり、やさしさになびいた人の末路は、破滅になっているわけである。となれば、やさしさを推奨する行為は親切なことなのだろうかと疑問になる。

 スマナサーラさんの本は、漢字だけで構成される仏教概念をもちださないで仏教の神髄を説明してくれる。だから、ごく普通の人にも仏教の知恵の断片の良さを理解できる。スマナサーラさんの本を読む限り、仏教は「宗教」ではなく、「哲学」や「思想」というカテゴリーの活動である。なぜならば、そこには「教義を信じる」という行為がないから。信じるものが救われる、という態度がまったくない。仏教とは、真実とか正義とかに無縁の、いかに気分よく生きていくかという生き方論なのだ。
 この本は大変読みやすい文庫本である。小学生高学年にすら、すらすらと理解をもとめることができるだろう。もっとも、書かれた言葉を理解できたとしても、スマナサーラさんが意図したことを理解できるかとなるとわからない。というのは、理解するためには苦労を体験していないとダメだろうし、言われたことを「自分でできる」状態にないとダメだろうから。やさしさとは何かを理解するには、すくなくともこの本で定義されているやさしさを求めたことがあり、それを自覚したことがあり、それにひどい目にあった体験がないと「なぜそんなことを考えるのか」理解されないだろうということだ。それに、やさしさというものの怖さが理解でき、それを必要としないような考え方を望むようになり、その実践がこの本で示されたとしても、だからといってそれが自分で実践できるわけではないだろう。理解と実践とは次元が異なるから。どんなによい提言であっても、やって見ないことにはどうにもならない。

 スマナサーラさんの本はどれもわかりやすい。読んだ時はもやもやした気分の原因を掴むことができるのでさっぱりする。ある種のシャワーを浴びたようで気分がよい。気分が塞いだときには是非読むと良い本である。しかし、だからといって、読んで理解しただけではスマナサーラさんの言うような考え方、感じ方はできないのである。何冊読んでもそうである。
 イライラしたり、腹を立てたり、疑心暗鬼になったするのは非常に辛いことである。そんな状態からは一刻も早く逃げ出したい。そのような気分はすべて感情でしかない。嫌な気分は物理的実在ではないのだから、自分の気持ち一つで完全消去できることも知っている。げんに、少し冷静になれれば「そんなことは考えても感じても無駄なことである」という発想は浮かんでくる。ならば、あとは嫌や感情が発生するまえにエゴをいかににコントロールするかが勝負である。

 優しさは誰にでも求められている。社会においてそれを耳にすることは多い。しかし、他人の思った通りに自分が行動することがなぜ推奨されるのであろうか。困っている人がいたら、こちらが困らない範囲で助けてあげる。自分以外の人もうまくいくように願ってあげる。それだけでいいではないか。それはこの本の結論であると考える。そして、それは数あるスマナサーラさんの著書は同じ結論になっている。他の多くのことがらを扱った本の結論とこのやさしさを扱った本の結論が同じなのだ。ならば、なるほどスマナサーラさんの説く考え方を身に付けることは、生きていく知恵としていきなり自分を助けてくれるのだろうなとうなずける。


2009年6月10日

マンガは哲学する

永井均
岩波現代文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 マンガは哲学する。マンガはストーリが面白いかどうかだけを狙っているのかと思っていたが、確かにマンガの作者は哲学しているんだと知った。へぇ、そうなんだ。言われてみればそうかもしれない。そういう「深読み」もありだろうというのではなく、明らかに哲学的なテーマをマンガという方法で表現している人がいるのだ。


 マンガは子供のための娯楽と言われていた。そう言われ続けていた子供もオッサンになっているはずで、いまでも結構読んでいる人は多いだろう。その人たちは結局どうなったのだろうか。少年ジャンプのテーマは「友情・努力・勝利」だそうだが、そればかりを読んでいたらやっぱり単細胞な世界観しかないだろう。普段の生活においても、自分をマンガの主人公のように勘違いすることで楽しくすごすだけの人になるはずだ。それはそれで悪いわけではないのだが、現実と自分の関係を認識するのにマンガしなかいのは哀しい。とはいっても、教養のために本を読んだだけで、未消化な知識を振り回すインテリオッサンよりもいいのだが。

 もし、自分ってなんだろうか、に代表される答えのない問題を考えるきっかけになるようなマンガや、社会ってなんだろか、国ってなんだろうかを等身大の問題から考えることを教えてくれるマンガに出会った人は、娯楽小説ばかりよんでいた人よりは「哲学」を持っている可能性は高いだろう。マンガだろうが、小説だろうが、結局自分で考えることをすればいいのだ。そのための素材はなんだっていいような気がする。


 この本では、背景に「自分でゆっくりと考えてみる」価値のある問題を提示したマンガがいくつも紹介されている。マンガだけに、見ればわかるような形で表現されているのがよい。哲学の本は意味不明な記述で溢れていて、とても読めたもんじゃなぁい。素材の提示は分かりやすい方が言いではないか。問題はその後なのだから。

 そうかんがえると、大人だってマンガをよくよんでみる価値はあるのだろう。変な哲学の本を読むよりもずっとマシだ。ぼくも勉強してみるか、という気持ちで哲学書に何冊か挑戦したが、意味不明さに耐えられなくて読まないで終わった。当時から科学的なことは勉強していたし、日本語はそれなりに使えていたのだが、読んでも意味不明だったのだ。そのわからなさに絶えて読み続けたとしても、結局は人の名前を列挙するだけでで終わっただろう。(今やってもそうかもしれない)。


 この本の著者である永井均さんの本は、たまたま読んではまったことがある。意味がよくわかる哲学の本だったので、専門書は無理だったけど、新書や普通の人向けの永井均さんの本を続けて読んだ。哲学を扱った本でも「意味明瞭」なものがあるんだと知って、結構うれしかったのだ。ただし、ぼくが興味を持って読みはじめたときに都合よく新刊がでるわけもなく、他の人の哲学本を読めるとも思えないので、それっきりになってしまった。

 永井均さんの本を文庫コーナーでたまたま見かけた。テーマはマンガとある。いくら普通の人にもわかることが書ける人だからといって、なにもマンガで哲学書をつくらなくてもいいではないか。ちょっと嫌な気分もしたのだが、まぁ買ってみた。ぼくの読みが浅はかだった。面白いぞ、これ。

 哲学書は言葉で表現する。何を表現するにしても言葉という制約がある。単語の繋がりで表現するとおそろしく複雑になるものがあり、表現している人がある種の諦めを感じてしまう。いわゆる哲学書の意味不明さは、そういう制約の当然の結果なのだろう。言葉がだめならば、絵を使えばいい。絵ならば表現できる。ストーリーならば論理もつくれる。だからマンガを使うのである。

 この本で紹介されていた藤子F不二雄のマンガに興味を持ったので、早速買って読んでみた。1970年という時代にシュールなマンガを描いているである。スピリッツだから読者層は大人なのだろう。ということは、当時から大人がマンガを読んでいたということだ。学生運動をしていた人の世代のマンガだからか、ずいぶんと哲学的なものを読んでいたのだアと関心する。まぁ、それは言い過ぎかもしれないが。


 要するに内容が理解できればいいのならば、そしてそれが大切なことならば、マンガでもいいじゃんということ。漢字に音読みと訓読みがあるという日本語表記のシステムはマンガに向いているのだということを養老孟司さんの本で読んだけど、マンガというのは哲学まで語れる。そして、それをやろうとした人はたくさんいたし、今もいるのだろう。なるほど日本のマンガが世界で売れるわけだ。


2009年5月28日

仕事でいちばん大切なこと

アルボムッレ・スマナサーラ
マガジンハウス
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 amazonマーケットプレース

 これまで全く思いもしなかった考え方があった。

 たかが仕事ではないか。

 そうか、そんなことを口にしてもいいのか。

 生きるとは何かを本気で考えはじめ、幸せとは何かをあれこれ考察し、どうやって生きていこうかという問題と正面から対峙するようになれば、仕事という言葉が持つ価値観の「社会からの押し付けられた側面」に気づくはず。社会という生き方では、個人がもつべき「仕事に対する勤勉性」が需要な要素であるから、「たかが仕事ではないか」などということは決して人々に肯定されてよいはずはない。ところが仏教という「社会の外」ならば、そういう発言はあり得るのか。なるほど。

 ほぼすべての人にとって、仕事は生きていくための手段である。ならば、仕事が生きることよりも大切なわけがない。ところが「仕事が大事」という命題が人々がもつべき信念や価値観である。他人の信念を曲げさせるつもりはないけれど、でも多くの人はそれを信念として持っているのではなく、手段が目的になってしまうという、よくある勘違いをしているだけではないのだろうか。

 仕事が大切だ、と主張する人は一体誰なのか。雇用者だったりしないか。やみくもに「仕事=人生」的なことを口にする人をよく見てみよう。

 職人がそう口にすることに違和感はない。ただし職人は「自分のこと」についてのみ言及しているはずである。自分はそうなんですよね。こう言っているはずで、他人に対して仕事=生きるという考えを押し付けたりはしない。そんなことをいう人は、奴隷にむち打つ気分に違いない。

 社会から暗に要請された価値を無批判で自分のなかに入れてしまうと、自分の境遇あるいは不幸に対しての恨みを気分的に消化できなくなるだろう。

 生きることと生きる手段とはちゃんと分けて考えないといけない。簡単なことだが、この本を読まなければ気づかなかっただろう。スマナサーラ長老にはとても感謝いるのである。
 


2009年5月 5日

父と息子の往復書簡

山本七平+山本良樹
日本経済新聞社
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 amazonマーケットプレース

 金にならないことを一生懸命やっているあいだは、人は堕落しない。 
 山本七平というキーワードで定期的にブログを検索しているが、先日このフレーズがヒットとした。いかにも山本七平さんらしいの含蓄の深い言葉である。もっと読んでみたい。なんの本に載っているのだろうか。これまでそれなりに山本七平さんの著作を読んできたが、このフレーズを目にしたこととはない。どの本にあるのだろうか。インターネットで検索したところ、この本であることがわかった。ほんと、インターネットの検索って便利だ。人生を倍生きられるのではないか。

 この本は父と息子の往復書簡である。20年くらい前、ビジネスマン父がどうのこうのいう往復書簡の翻訳本がベストセラーになったことがあって、それがなんだかフィクションぽく、あまり良くなかった嫌な思い出がある。それ以来往復書簡本は読んでいない。この本の存在は知っていたのだが、敬遠した。ブログで注目したのも何かの縁だと思い、古本で買って読んで見た。
 読んで見て、正直感動した。今年読んだ最高の一冊の候補だろう。こんなによい内容なのだから、ぜひ文庫本化しておいてもいいと思うのだが、ここはひとつちくま文庫あたりががんばってほしい。
 内容は表題の通り往復書簡である。父である山本七平さんは東京、息子さんはニューヨークにいる。息子さんはキリスト教の神学校を卒業したあとアメリカの大学に留学し、ニューヨークで詩人(文筆業もだろう)をしてらしい。なかなか大変な職業で、作品が直接される世界だから、親の七光りは及ばないし、そもそもアメリカだから個人の力量でやっていくよりない。生活しけているのだから、なかなかの腕前なのだろう。

 書簡にはニューヨークやアメリカの出来事、現地で知りあった人などについてを父親に報告しているようなもので、それ自体が興味深いというわけではない。返信として父親が評論をしたり、疑問を投げ掛けたりする。山本七平の書く文章は、息子への手紙であっても、山本七平の評論であって、ため息がでてしまうくらい明晰である。なんでそんな考え方、分析ができるのだろうかと。一方、息子さんは父親にたいして父親に「尊敬」の念をもって接していることが読み取れ、やり取りが父と子のものである。少し前の親子はみなこんな感じだったのだろうか。ぼくとは違う立派な息子である。
 とはいえ、親子で意見の違いも感覚の違いもあり、それがもとで往復書簡がかみ合わなかったりするところがある。音楽でいえば「不安」的な調がある。決して素直な息子ではなく、議論を投げ掛けたり、父親を批判したり、反逆的なところがあったりする。

 なによりもこの本が親子のやり取りの理想型ということで終わらない凄いところは、山本七平さんが途中で病に倒れてしまうところである。親子で意見の違いが露呈し、息子が父親を批判するような挑戦的な手紙を書いたくだりがある。父である山本七平さんがどう対応するのかを息を飲みながらページをめくったら、病気で入院してしまったのだ。手紙からうけたショックなどというものが原因ではなく、単に老齢からくるガンによるものであったらしい。ガンはとにかく痛さとの格闘であり、痛がりつづける闘病についての息子さんの手紙を読むにつけ辛い気持ちになる。良くなったり悪くなったりしながらもやがて父は回復し、往復書簡の続きを書けるまでになる。
 こういうドラマチックな手紙のやり取りなど、作ろうと思って作れるものではない。さすがは山本七平さんだ。この本の最後を読み終えたとき、涙があふれそうになって困った。帰りの通勤電車の中だったから。乗り合わせた乗客はほろ酔い気分のサラリーマン、携帯をいじるOL風の人しかいなかったので、あまりみっともないことにならないでよかったのだが。

 別に感動して泣きたいわけではないし、それを本に求めてなどいない。しかし、感動して泣いてしまった本は、一生かかってつくるぼくの本のリストには無条件で加わる。本っていいなぁと本心から思えるかどうかは、そのリストがどれだけ長いかだろうなと思う。まだ入手していない山本七平さんの本をちまちまと集めようかな。

2009年4月18日

けちのすすめ

ひろさちや
朝日新聞出版
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 ひろさちやさの本だから読んでみたのだけど、これといって「なるほど」と納得してしまったようなことはなかった。悪い内容ではないと思うけれど、正直とくに感想として言いたいことがない。うーむ。

2009年3月21日

がんばらない生き方

池田清彦
中経出版
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 bk1

 休日にゆったりした気分で読むとよい。素敵な物語でも癒しでもない。とくにビックリするような内容ではない。今の生活が結構気に入っていると思っている人ならば、いわゆる勝ち組の人でも無い限り、この本で紹介されれる方法を自分なりに実践しているのではないかと思う。「そう言われて見れば、おれもそうしているよね」という具合に頷いてしまう部分が多いので、ついつい一気読みしてしまった。この本は、読むことで何かを学ぶという姿勢で読むのはお勧めできない。なんとはなしに聞こえてきたラジオで池田清彦さんがしゃべっているのを耳にして、ついつい番組の最後まで聴いてしまった。そんな感じの読書がいいだろうと思う。
 NHKのブックナビという番組で南伸坊さんがこの本を紹介してた。そのとき、「よい本です。いや、ぼくは内容わすれちゃったんだけど、読んでいるときには全くそうだなという気分がした」と言っていた。普通ならばこんな紹介ありかよと思うかもしれないけど、この本の紹介ならばこれでいい。
 本にもいろいろ種類があって、読んでいるその時にうれしい気分になるのだけど、読み終わって振り返ってもなんだったけなと思い出せないものがある。音楽のようなもの。「詩」とちがって論理をつかって物事を説いており「よくわかった、記憶しておこう」と思ったとしてもすぐに忘れてしまう。こういうものはノートとっても意味がない。そもそも、だれも試験にださないから。
 人の言葉には、言葉として記憶されることに意味があるものと、理解して考え方や行動に直接影響を与えてしまうものとがある。テストの材料になりうるのは前者である。ところが、学校社会から卒業した後に意味をもつ読書は後者のほうである。それはオトナの読書とも言えるかもしれない。宗教の聖典とは違うのだから、行動と無関係なものは必要ないような気がする。どうせ先が限られていることだし。
 池田清彦さんの本を読むようになったのはここ数年だが、読んだことがぼくの行動を大きく変えている。ぼくの仕事の取り組み方は周りの人とはかなり違うし、その方向もかなり別なものになっている。10年たつと信じがたいくらい軌道修正してしまったことになるだろう。それほどの影響を与えた人の本に大きく頷けるのだから、ぼくはそれなりに学べたのだろう。

2009年3月20日

スプリット

カルメンマキ+甲野 善紀+名越 康文
新曜社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 甲野善紀さんは素直な人だなぁと思う。歌手のカルメン・マキさんの歌に感動し、カルメン・マキさんが昔精神科医に興味をもっていたということから名越康文さんを誘って鼎談を企画し、それを本にまで仕上げている。出会いと気づき、そしてそれを本にまとめるという行動がつながっている。本来であれば、出版社が企画していくようなものを、ご自身で企画され実行に移している。何よりも、甲野善紀さんは武術家なのだから、本筋とは関係がないと思われそうなことをせっせとやっている。
 こういう一連の作業を職業という枠で考えると、この行動の意味がわからなくなる。しかし、甲野善紀さんは人生を賭けてある疑問について身体をつかって探究しているのだと知れば、行動の意味が見えてくる。武術家になることが目的ではないのだから、武術を関係なさこうなことを平気でやるわけだ。いわゆる普通の武道家とは違う。武術家のするべきことなどちう発想とは関係なく行動するのが自然なのだと頷ける。そういう生き方は、どのような人にも学べるところがあると思うのだが、ただ、ほとんどの人はそうする価値を見出せないかもしれない。
 鼎談のなかでは音楽の話が盛んにでてくる。カルメン・マキさんのお勧めの音楽などについて、甲野善紀さんも盛んにいろいろ発言されるが、ずいぶんと音楽を聞き込んでいるようである。ぼくなどはその一つとして知らない。ぼくが住んでいる世界は相当狭いようだ。とはいえ、もうこれで行くよりないなとも思っている。
 まったく月並みな感想だけど、生きていることをよく自覚しながら、日々を工夫していくような生活があれば、それは相当幸せなことなんだろうと思う。ただ、会社に言って給料もらって、パワーゲームに参加してというだけではないものがあるから。

2009年3月18日

人生の短さについて

セネカ
PHP研究所
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon

 岩波文庫版を読んだのは、自分の動機からもっとも離れた仕事をしていた時期である。今にして思えば、その仕事は良い経験だったと思うが、それでも当時はつらかったのだ。だからこういう本を読みたくなっていたのだろう。
 その後『ローマ人の物語』など古代ローマ史について少し学び、この本が生まれた時代背景やセネカについて少し知ることができたために、今読んでみると昔とは少し違う味わいがあった。
 この本の内容はセネカの友人へむけた手紙である。そんな仕事している場合なのか、人生は短いぞ。今でも日々誰かが誰かに向けて言っているような言葉が並んでいる。まったく、2000年前でも今でも、さして人の世は変わらないものなんだなと実感する。
 さぁ、今から人生をスタートさせよう、と思った時にはもう人生の最後の曲がり角をまがったときなんだというような警句はどこにでも転がっているし、自分にも別の意味で経験則として持っている(学校卒業が近づくと勉強がしたくなるとかね)。
 ということは、どんなにこういう本を出版して、学校で言い聞かせても「無駄」なことなんだ。つまり、人生の短さを実感するには、人生の最後にならないと原理的に無理なんだろう。青春期にこういう本を読ませても読まないだろう。
 よく、歳を取らないと意味のわからない事がある、という言葉を聞く。爺さんの戯言と思っていたとしても、自分が爺さんになるとその言葉の意味が分かるということだ。子供や少年には分からない。セネカのこの本には、そういうことだけが書かれている。ならば、この本はこれからもずっと、つかれた中年から爺さんたちに愛され続ける本なのだろう。あと、年齢とは別に、精神的にも肉体的にも疲弊して、死を身近に感るようになった人も好まれるのかもしれない。
 どんなに論理的に説明されても理解できないことの代表として、この本の内容がある。この理解出来ない理由は人の性質の一部なんだろうか。人生は短いぞ、と思っている生命体は人だけなんだろうか、という疑問をもつ。ありとキリギリスの童話にでてくるキリギリスは、人生が短いと知っていたからではないから夏を楽しんだのではないかとぼんやり空想してしまう。
 それにしても、セネカの文章力には頭が下がる。人間の能力やできることという基準で人を評価するならば、2000年はなんの変化も人にもたらしていないような気がする。

2009年3月15日

薄氷の踏み方

甲野善紀+名越康文
PHP研究所
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 甲野善紀さんの対談本である。この本はネット注文して自宅に届いていたのだけど、読めないから開封しないで数週間ほったらかしにしておいたところ、購入したことをすっかり忘れてしまい、こんどはアマゾン・マーケットプレースで同じ本を買ってしまった。ということで、この本は手元に2冊ある。
 対談の内容をあれこれ言ったところで仕方ない。というのは、対談は音楽を聴くような気分でもあるし、何が話されるのかはその場の雰囲気に大きく依存していて、よく練られた意図を読者に伝えるようなものではないと思うから。読んでいる最中に楽しければそれでいい。逆に、読まないと意味がない。ダイジェスト版、あるいは何かの知識として本書の内容を記憶することにはほとんど意味がないだろう。
 名越康文さんと甲野善紀さんとは年齢が結構離れているのだけど、両者は親友のようで、同じ時代に生きていられて良かったと宣言できるような仲だそうだ。年齢の違いが親友かどうかの壁を作らないということが可能なんだと知ってちょっとうれしい気分になれる。それは無理なことだろうと思っていたから。

2009年3月 5日

キリスト教は邪教です

フリードリヒ・ニーチェ
講談社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 ニーチェの本を読んだのは実に久しぶりで、二十年ぶりくらいだろう。さすがに、この翻訳ならばすんなりと読み通せる。本文中に不明な言葉などないので丸ごと分かった感がある。言わんとしたことがわかった。なんだ、そんなことを言っていたのか。いいやつじゃんかよ、ニーチェ。そう言いたいくらいである。
 とはいえ、この翻訳のできはどうなんだろうかと気になる。多少つっかかるところがあったにせよ、著者の意図を受け取れたと思っているのでとてもよい翻訳だけど、正確さは大丈夫なんだろうか。意味が分かってしまう哲学野本というのは少ないから、逆に心配になる。読んだその場から意味がわかる哲学の本はメッタにない。ぼくが知る限り、永井均さんの一般向けの本くらいだ。
 だから気になるのは内容の日本語への変換の精度。昔流行した「超訳」になっているんじゃないかと疑問もないわけではない。

 キリスト教がローマ世界を飲み込んでいく様子は、塩野七生さんの『キリスト教の勝利』に詳しい。蛮族の存在と生活の不安、とくに農業ができなくなり都市へ逃げ込んだ人の不安がキリスト教をコアとして吸い上げ固まっていく様は、どの時代どこの人々に起きてもおかしくはない。初期リスト教の布教者がどうやって人々の心を捕らえていったのかを知れば、宗教としてキリスト教を見る目は違ってくるはずだ。
 そういう成立の歴史を知れば、その宗教がいついかなるときでも意味を持つといことはないと自然に理解できる。社会的な状況が変われば必要なくなるものもある。しかし宗教側の人は流行りすたりで影響をうけると職業として成立しなくなる。だから、時代そって生き延びるために宗教の本来の意味がどんどん変容していく。その過程で、人の気持ちに安定をもたらしていたものが、いつしか人に物を考えさせない毒になってしまう。ヨーロッパにおける中世はそれが蔓延した時代だったのだろう。「そういうの、いつまでやっているんだよ」とニーチェは言いたかったんですね。なるほど。

 ぼくはスノッブぶるつもりないので、ニーチェはこう言った、などと口にすることはない。普通の人ならばそうだろう。だけど、だから関係ない、ということにはならない。学者じゃないのだから、人々に分からせたいのならば、分からせるように話す必要がある。この本のように、こういう態度で翻訳を試みたのは素晴らしいことだ。もっと、難解だからという理由で敬遠されている本もこんな形で再再出版されるといいのに。

2009年3月 3日

いたこニーチェ

適菜収
飛鳥新社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 哲学ファンタジーとでもいうものか。歴史上の人物が現代に蘇り、現代社会で生活を楽しむというストーリはいくつか読んだことがある。それがどんな人であれ、先端的な電気機器を楽しそうに使って喜ぶ姿が描写され、愉快なものが多かったが、この本もその系統にある。
 この本ではニーチェが現代社会に登場する。ただし登場の仕方がちょっと面白い。恐山のいたこを使うところが笑えてしまう。この本の表紙のイラストはインパクトがあってよい。ぼくはこの表紙が気に入って買ってしまったくらいだ。
 内容は『キリスト教は邪教です』の補足・解説を普通の人の生活の中でニーチェに語らせるというものだ。キリスト教の価値観のうち、知らず知らず普通の日本人の価値観にしみ込んだものを取り上げ、具体的な事例を使って説明しようという試みである。面白いし、なおかつ分かりやすい。なんだニーチェってそんなことを言っていたのか。これが現代日本の普通の人の生活目線で分かる。
 過去の人の学業の蓄積を人々に役立てるには、こういう形での「翻訳家」が必要なんだなと実感する。

2009年1月28日

古武術からの発想

甲野善紀
PHP文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 甲野善紀さんの本に興味をもったので、とりあえず文庫本の2冊目として手にした。インタビュー形式をとった本である。だからといって武術についてほとんどなにも知らない人がインタビューをしているわけではない。ぼくにとっては「はぁ?」という部分や「だれ、それ?」という箇所も結構あった。ちょっと甲野善紀さんに興味がないと読み進めることができないかもしれない。

 武術についてあれこれ書物にしたとしても、それ読み解き武術として再構成することは難しい。そもそも武術をやっている人でないと、何を言っているのかすら理解できないし、ましてや身体の動きに戻すことは不可能である。そもそも、身体の機能や動きと言葉対応するはずないのだから。
 そういう意味で武術そのものについては書かれていない。武術を巡る甲野善紀さんの考えやこれまでの行動について書かれている。
 例えば、古来からあった武術の達人はどういう形で存在していたのか、現代に一番近い人ではどういう人がいたのか。戦後GHQが県道というか今でいう武道を禁止しようとしたとき、武道というものの凄さを米軍上がりのひとに見せつけた有名な試合があったそうだ。そこでは、今で言うK1のような格闘を仕掛けてる米軍人と戦い、勝つことが武道解禁の条件だったそうで、そこでの試合には柔道や剣道といったようなものをあらかた高い技術で習得している人が必要だった。このときの試合に出た人が「武術の達人」だったそうである。まぁ、こうしてぼくが再話すると面白くもなんともないが、甲野善紀さんの語りで読むとなんとも面白い。ある種、恐竜が現代でも生きていた、というような興奮がある。
 
 何かができる人の話が必ずしも面白いわけではない。何かを追い求めている人の話が面白いのだと思う。甲野善紀さんは武術を探究している。ただ考えているだけではなく、現実に行動している。古い文献を探し、気になる文献を何度も読み返し、自分の身体をつかってためし、そこから発展させて体得していき、それを多くの人に伝えていく。この探究方向に「この人は凄い人だ」と思わせるものがあるのだと思う。
 甲野善紀さんは、単なる武術ができるだけではない。それだったら、社会においての位置づけがもうひとつあいまいになる。武術を求めるだけではなく、介護における身体の使い方など社会の人に還元している。単に「おれはすごい」ということを顕示することが真の動機である人が多い中、「身体の使い方への還元によって探究結果を社会に戻す」という見識に、この人は本当に武術を探究しているのだなと感じるのである。

2009年1月26日

武術の新・人間学

甲野善紀
PHP文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 八重洲ブックセンター

 かつての日本には、小説や映画に登場するような、現代人からみれば超人のような身体能力をもった人がいたようだ。剣術使いならば、現代の剣道家とはまったく異なる次元の達人達が存在していたというのだ。
 忍者や剣術達人話の話はすべてホラであり、超人的な武術使いの伝説はおとぎ話なのだ。そう考えるのが現代人としての条件であり、「いやあれは実在の人だった」と考えるのは子供かアホかだけだから近寄らないほうがいいと考えよ。このことに普通の人の感覚からは大きな意義はないだろう。
 ところがこの本の著者はそう思っていない。武術の超人的な身体能力を持つ人は実在したのではないかという疑問を持ち、それについて調べ、また自分なりにその身体能力の開発方法を探究している。そして、なるほど実在したのかもしれないと人を説得できるにたる技を、身体の使い方を実演してくれている。

 現代の武術の身体の使い方、例えば胸を張った姿勢などを普通のひとは「伝統的な正しい姿勢」だと考える。ところが著者は、あれは明治以後のものであって古来から工夫されてきた身体の使い方ではないと言っている。明治政府が導入したドイツ軍隊のものかなにかが反映しているのだろうと。そして、江戸時代までの身体の使い方をいろいろな証拠となるものを寄せ集めて垣間見せてくれる。これがひどく興味深い。
 例えば有名なナンバ走り。現代日本人の走り方や歩き方は、明治になってからのもの。徴兵制によって普通の人を軍隊として早急に育成する方法が必要になった。そのとき、行進時に手と足を逆に振る歩き方、走り方が一般の人に教育された。現代ではそれが「当たり前」になりすぎて、他の歩き方などは存在し得ないような顔をしているが、日本での歴史は浅い。
 江戸期までは、歩くときや走るときに手は動かさなかった。肩で風をきって歩くときなどですら肩と足がそろってでていた。それをナンバ歩きという。この時代の絵をみると地震で逃げ惑う人々は手を前に挙げて走っている。現代ならばそんな方法で走れないはずだ。

 今からすると不思議なこともある。江戸期までは一日150キロくらい歩く人は結構いて、有名な早い人になると江戸から仙台まで一日で走ったような人がいたそうだ。現代の感覚でいえば、無理なのだ。マラソンはランナーを見てれば、現代の走行方法には限界があるのは見えている。単に「身体が丈夫な人がいた」ということで済ませることができないレベルの違いである。現代とは違った身体の運用方法があったはずなのだ。

 現代ではそれが失われてしまった。著者はその失われた身体の使い方を探究している。
 この本を読んでいると、著者はある種の考古学をやっているようにみえる。失われた文明を発掘しているような、考察して現代でも可能かを実験しているような、コンチキ号をしたてて航海するようなことをしているのだ。それは、著者の本音のとしての疑問に答えを探そうと工夫している試みなのだ。
 シンプルな動機がその人の人生を駆動し、工夫に満ちた日々を送っている。そんな人にぼくは敬意と憧れをもつ。養老孟司、内田樹、茂木健一郎の対談本でしからこの著者のことを知らなかったのだけど、今では是非ともこの著者の本をいろいろと読んでみようと思っている。とはいえ、ぼくは武道をやっているわけではないから、ピンと来ないことばかりかもしれないけど。

2009年1月16日

脳を活かす勉強法

茂木健一郎
PHP研究所
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 BOOKS SAGA長津田店

 JR横浜線の車両の出入り口の扉に、この本の広告シールがあった。こんなところにまで宣伝しているのか。書店に立ち寄るくせがない人にこそ読んでもらいたい。そういう意図があるのだろう。ごく普通の人に向けた、誰でも読めそうな、クイズ番組をみるかような気軽さで勉強ができるようになる、というふれこみなのかもしれない。事実、何万部も売れたベストセラーだと耳にした。帯にある茂木健一郎さんの風貌もボディーブローのように購入しようかなという気持ちを後押していると思う。なぜなら、ぼくも買ってしまったから。
 この手の本は読んだ後で後悔することが多い。というか、後悔しなかった事を思い出すほうが難しい。それでも懲りずに買ってしまうのだから、茂木健一郎さんの風貌には魅力があるだろう。ぼくが広告代理店関係者ならば、茂木健一郎さんには、勉強ができるようになる本の次には、見た目も身体も若返る本、ダイエットに成功する本を書いてもらえるよう工夫するだろう。全部を脳の使い方にからめてしまえば、それなりに理由がたつし、出版すれば絶対に売れるから。

 買った本を手にしながら、しょうもない本なんだろうなと思っていた。電車の中で読んでしまったが、電車から降りるときには、読む前に想定したほどがっかりはしなかった。むしろ面白かった。題名から想定した内容とは少し違ったのた。というのは、この本は茂木健一郎さんの自伝ともいえるから。
 時の人である茂木健一郎さんは子供の頃どういうふうに勉強したのだろうか。教育ママに限らず、だれもが興味を持ってしまうだろう。というのは、学者さんであっても、普通の大学教授と感じがことなり、ひょっとしたら自分も茂木健一郎さんのようになれそうな気がするだろうから。そういう、人の警戒心をとく風貌だから。もちろん、茂木健一郎さんと同じようにやってもだぶんダメなのだけど、参考にはなるかもしれない。そんな期待は誰も持ってしまう。
 茂木健一郎さんは、要するに子供の頃からできたようである。この段階で、なんだぁ、でもまぁそうだろうと言って、本を閉じてしまってもいい。しかしせっかくだから、もうちょっと続けて読んで見た。茂木健一郎さんの勉強法は、特段変わったところがない。さして「めずらしい」ものではない。なんてことはない、要するに本を沢山読むことだといえそうだ。
 本を読むのは自発的な行動である。強制されてやれるものではない。仕事上どうしても読まなければならないと重々承知している本であっても、読めないものはよめない。そういうことは誰でも経験があるだろう。嫌いなものは嫌いなのだ。だから、子供の頃に沢山読むことはのちのちその子にとって良い経験になるのだと分かっていても、読まない子は読まない。そういう子供だからしかたない。それでかたづけるよりないだろう。強制したところで、全く無意味なのだから。
 勉強として、それ以外のことがいくつか提案されている。しかし、結局のところ、そもそも論まで立ち戻れば、本を自発的にどれだ読もうとしたかにかかっている。この事実におちるような。ロジックがものをいう世界で生きるには、結局のところを自発的に本を読む人かどうかで決まるのだな。
 そんな感想を持った。


2009年1月14日

響きあう脳と身体

甲野善紀+茂木健一郎
バジリコ
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 最近の茂木健一郎さんからは、考え抜かれた話を引き出せそうもない。もう、伸び切っている感がある。だから正直期待していない対談だった。しかし、思いのほか甲野善紀さんが話を引っ張ってくれ、面白い方向に転がった。読みごたえは十分。
 甲野善紀さんの趣旨は以下のようなものである。
 言葉は必ずシリアルな表現になる。何かを表現するためには単語をつなげていく必要があり、それを聞き取る方も時間の順番に受け取けとる必要がある。言葉で身体について表現する場合でも、頭で考えたものを表現する場合でも必ず時間的にシリアルなものするよりない。これが言葉の限界である。
 しかし、身体の使い方には、本質的にパラレルなところがある。手の動かし方一つとっても、一つ一つの部位を順番に動かしていくわけではない。多くの筋を「同時」に動かしているのだ。
 だから身体の動きを言葉で表現することは難しい。言葉でもって思考する「意識」も同じようなこところがる。だから、意識で身体の動きを把握することも難しいのである。
 難しい動きを体得するさい、簡単なものから難しいものへと練習することが一般的である。これは身体の動きだけでなく、頭で考えることもそういしている。その理由は意識が直接指令をだして行うにはそうするよりないからであろう。
 しかし、実際問題、あの種の身体の動きは、簡単なものから難しいものへという学習方法では体得できない。つまり、量をこなすことで質に転化することが実質ないものがある。世の中にはそういう性質を持つものが多くあり、その多くは「同時並行的に」何かをする必要がるものである。こういうことを、多くの人に理解されてないのではないか。
 以上、勘違いがあるかもしれないが、ぼくはこう理解した。これは言葉の表現に対して、身体側から境界線を引いたのである。身体であっても脳であっても思考であっても、本質的にパラレルな処理をする必要があるものを論文で表現することはできないのだといっている。それは、茂木健一郎さんへの問い掛けのように思える。
 この挑戦にたいして、茂木健一郎さんははっきりとした応答を示してない。なるほど、という程度である。あるいは、「参考になります」とか「そうか」と言ったりして終わっている。
 もちろん、茂木健一郎さんにとっては、いろいろ考えるヒントにはなっているのだろう。けれど、対談なのだからきちんとその場で「受ける」必要があると思う。両者は知り合いだから長い時間をかけて考えたあとに言葉を交わすことができる。そのほうが良い結果となるかもしれない。しかし、読者はそうはいかない。その場でないものは、永久に分からない。
 売れっ子だから仕方ないのだろうけど、茂木健一郎さんの本では、読者の存在が希薄になっている。仕方ない事とは言え、がっかりすることが多くなっている。

2009年1月 3日

合気道とラグビーを貫くもの

内田樹+平尾剛
朝日新書
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 朝カルでの講演をもとにまとめた対談本である。ごく普通の人であるぼくにはラグビーについて詳しい友人はいないので、この本を手にする人の多くもラグビーについて知らないだろう。でも、内田樹さんだからなんか面白そうだな、という理由で手にしているはずである。
 内田樹さんとの対談ならば、話の方向はおおむね決まっている。え、そんな話するの?ということはあまりない。身体の使い方の話になる、必ず。そして、トレーニングの仕方とかそうことではなく、身体を全体的に使うような話になってくる。そして、それを聞くのがまた楽しいのである。
自分では武道も運動もしないのだけど。身体の使い方にまつわる話の場合、それを聞いたところで実践に影響することはない。内田樹さんの場合、おっしゃる内容のレベルが、普段から身体を使っている人に向けたものだったりして、普通の人がきいても行動に反映できるようなものではない。
 じゃぁなぜ読むのか。それは、役に立つ経たないに関わらず楽しいから。内田樹さんの考え方を横で見ていると、なるほどそうやって考えるのかと感心することが多く、その技を見て楽しんでいるのだ。だからぼくは、対談本を芸を観賞するようにして読んでいる。読み終わった時点で、その本の価値は終了する。読んだことによって自分はどう変わるかなどは考えない。

2008年12月31日

街場の教育論

内田樹
ミシマ社
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 八重洲ブックセンター

 この本は二回読んだ。発売直後に読んで、年末にもう一度。最初に読んだとき読書メモをすぐにつけなかったたら、頭の中にあるこの本の印象がぼんやりしてきてしまった。だから大晦日にもう一度読んだのだ。この本の印象が薄いからではない。内容は刺激的で、ぼくは身につまされて悲しくなったくらい印象深い本である。それでも印象がぼけてしまったのは、この本の内容を無意識に忘れたかったからだと思う。それくらい、自分の嫌な面が醸造されたメカニズムをずばりと解説してくれている。
 教育をビジネスの言葉で語り、教育機関をビジネスの運営するのは間違いである。そう内田樹は主張する。もしビジネスとして教育をしたらどうなるのか。ほぼ教育というものが存在できなくなり、関係者おろか国民すべてにとって得にならない悲惨な結末を迎えるだろう。なぜか。
 教育にはそもそもが時間がかかり、その効果は定量的にとらえることができないからだ。そもそもそういうものを対象としてビジネスは成立しない。だから無理をする。すぐに結果を求めるマインドをもって、投資と結果の定量的関係を常に注意しながらの日々の作業として人を教える事になる。人にものを教えた経験があれば、こんな方法で先生は成立しないと思うだろう。ビジネスとうい考え方は教育とは全く無関係、いや真逆のことを行うことになる。だから、そんな教育は絶対に失敗すし、ビジネス側も失敗する。
 こういう趣旨の本である。また、最近はやりのビジネスとしての教育の失敗シナリオを提示し、過去の事例を思いださせてくれる。

 こんな趣旨の発言をビジネス経験がない人がしたら、ぼくは半分納得半分疑いの気分になるだろう。しかし、内田樹は教職に着く前は今でいうベンチャー企業で働き、ビジネスのタームで語ること行動することを実施し、そして一定の成功を収めた経験をもっている。普通のサラリーマンや大学教授がもつ視野が半分しかない人の発言ではない。この本は、事実を教えてくれているのだから。
 この本でぼくが一番苦手とする箇所は、現代の若者の行動性向についての解説である。なぜ会社に3年しか勤められないのか、なぜ自分探しなどするのか。その根底にあるその世代の価値観を消費経済の世界で人生に登場してしまった子供の悲劇として語ってくれている。この解説は『下流思考』に詳しく書かれている。期せずして自分がその世代のトップバッターであることを思い知るのは実に嫌な気分になるが、反省してみると自分に当てはまることが多いので事実を語ってくれているのだろう。こんなことは、自分で思索したところで気付くはずはない。
 この本ではさらに、最近の若者が口にする「やりがいのある仕事」についてとその発生メカニズムについての解説がある。なぜ、そういうものを求めてしまうのか。いまま何人かの人が語っているものを聞いた事があるが、内田樹の解説が一番良い。心底理解できるものである。この解説は感心するを越えて感動的である。自分の心の底にある考え方の基準が著者によって言葉にされてしまった。そんな驚きである。一方で、できればそれを読みたくは無かった気もする。欠点をずばっと言われたようなものだから。こんなことが理由で、この本について、良い本だと評価する一方で忘れてしまいたい思いが無意識にあったのだと思う。
 
 「やりがいのある仕事」とは何か。それは、モジュール化された仕事であり、自分に割り当てられた単位の決裁権が自分にあるものだ。そして、その成果全てが自分に排他的に帰属するもの。そう、この本では解説されている。いわゆるクリエイティブな仕事と呼ばれるものはこの条件を満たしている。裏を返すと、決裁権が自分になく、かつその成果があったとしても関係者全体のものになるものは該当しない。たとえ自分が行動主体としてがんばってもその成果を独占的に主張できないものは「やりがいのない仕事」になる。実に明解な説明である。チームでの行いに対してももある種の成果独占権が主張されていることに注目したい。要するに、一人でやれること、結果がすぐにでること、何よりもまして、自分の世界は自分のものだと主張できる仕事が若者が求めている仕事なのである。
 社会における仕事のなかでそのような性質を持つものはレアであろう。いわゆる芸術家くらいなものである。そういった仕事はつこうと思ってつけるものではない。ほぼ全ての人は失敗するはずである。それに、不思議なことだが、そういう道の人は職業選択の段階においてそういう仕事を既にしているのが普通なのである。学生の頃からそういった種類の仕事をアルバイトしているような人は実際たくさんおり、何を職業にするかなどと迷う段階がなかったりする。芸術家はある種の倶楽部であり、本人の努力でそのメンバーになれるわけではない。
 自分で何をするのか決められ、その成果は自分で排他的に独占できる。こういう仕事はそもそもが「モジュール化」されている。モジュール化とは周りとのリンクが少なく、また機能が明確に定義されている。だから仕事をする人は誰でもよく、人材の交換は簡単になる。
 モジュール化された仕事を求めるのは誰でもやれる仕事を選択することになる。そもそもが、余人を以て代えがたい仕事ではない。また、うまくいった場合の成果が独占できるのならば、失敗したときの成果も独占することになる。つまり、失敗したらその場で破綻してしまう。なんといっても「交換」はいくらでもいるから、その場で立ち去ることになってしまう。だから、モジュール化された仕事は非常にリスキーなのだ。

 やりがいのある仕事の意味がぼくの世代前後で変わってしまったようである。以前は、やりがいのある仕事とは喜んでくれる人が多いものだった。自分の知らない場所で知らない人が感謝してくれるものだった。今は自分に決裁権があり成果を排他的に独占できるものである。ぼくはこの両者の意味や良さが直感的に理解できるので、ちょうど過渡期の世代なのだろう。
 内田樹に指摘されなければ、後者の意味で「やりがいのある仕事」を定義してしまいそうである。誰が喜ぶのかなど全く分からない仕事であっても、自分一人で進められるものならばやりがいのある仕事ではないか。そういってしまいそうである。今の大学生ぐらいならば、やりがいの意味は後者だけになっているはずだ。
 前者の意味でのやりがいは、なぜよいのだろうか。内田樹によれば、それは「生き残る可能性が高まる」からだそうだ。誰のためにやるってるのかよく分からない状態であれば、自分のした事は直接自分のためにならなくても「自分たち」のためになっているはずである。ならば、他人の仕事も自分のためになっている。もし大勢でそういう仕事をやれば、自分の成果がぱっとしない時期があっても周りの人の恩恵に預かれるだろう。つまりは、生き延びる可能性を高まるだろうというのである。
 なるほど。つまりは、なぜ働くのか、その目的に関わってくるのだ。なぜ働くのかといえば、現代ならば自己実現のためであろう。しかし、しばらく前までは生き延びるためであったろう。その辺りの感覚のずれがある。そこでピンとくるものがある。
 モジュール化された仕事といえばクリエイティブな仕事だけではない。今社会問題になっている「派遣」も機能からみればその一つである。ジョブ・ディスクリプションが定義されているからこそ交換可能な仕事であり、だからこそ「派遣」という形の仕事にできる。必要なときは人を増やし、必要なくなれば人を減らす。これは、モジュール化の結果なのである。そもそもクリエイティブな仕事も同じで、ほんの一握りの先頭グループ以外の人の生活は不安定であり、生活水準はサラリーマンよりも低いだろう。幸せという言葉の定義として何を採用するかで、その仕事の評価が関わるが、クリエイティブな仕事は生き延びることは相当難しいことは確かである。クリエイティブな仕事に人気が集まる理由は宝くじと同じで、当たったときがでか過ぎるからであり、それに群がるほぼ全ての人は単に損するだけだというとも同じであろう。夢があるかもしれないが生き延びるには損である。

 この本を読んで、自分の方針について揺らいでしまった。というのは、「さぁ、みんなのためにやろう」と気分を入れ替えて仕事をしたとしても、周りの人もそう思ってくれないと他人に食われるだけだろうと思うから。周りがジャイアンばかりだったら、他人のためにがんばれば即死だろう。これが単に被害妄想ならばよいが、若い人だけならば妄想とは言ってられない。50歳以上の人がいないと、脱モジュール化は行えないかもしれない。つまり、今のままだと不幸になると理解できても、社会がモジュール化に向かった段階では個人にはどうにもならないということだ。逆に生き残りのためには後者の道を選択するしかないかもしれない。

 こんな不幸な考え方がなぜ発生したのだろうか。なぜクリエイティブな仕事やモジュール化できる仕事が望まれるようになったのだろうか。内田樹は受験とバイトにあると指摘する。そもそも、どんなに仲が良い人同士でも、受験とバイトは助け合いようがない。これらは、自分ががんばればがんばった分だけ成果があがり、自分の成功は自分のものであり、自分の失敗は自分のものであることがはっきりしている。誰かの失敗と自分の結果とはあまり関係がない。
 受験とバイトが世界のあり方の見本であるとして人格を形成してしまった人に、助け合いなど求めてもムダである。なぜ自分が働いたのに他人にバイト量が振り込まれることをよしとするはずはないし、他人が勉強しなかったことの付けが自分の受験失敗という形で現れる可能性を喜ぶ人がいるはずもない。この種のことは感情的なもので、勉強したり諭されたりしても納得することはできないものである。だから、もうダメなのである。

 最近、自分の行動を観察していても、他人への信頼が持てなくなりつつあることを前提としていることに気付く。だから、他人のために何かをせよ、ということに行動を起こせないでいる。頭では内田樹の言うことを理解できて本当にそうだなと思っても、感情の湧き上がりかたは「なぜ、自分の仕事ではないことをして損をする必要があるのか」と自然に疑問に思う。その一番の理由は、そもそも他人が信用できないから、である。
 これって、治り得るのかどうかぼくはわからない。

2008年12月29日

ひきこもりでセカイが開く時

爆笑問題+斉藤環
講談社
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 年末だからということで(いや年末でなくてもなのだが)本屋に行っていろいろと物色した。最近新書はブックオフで買うことが多くなったせいで、ブックオフにない新書には目が届かなくなっている。新書でおもしろいのないかな、と思って選んだのがこの本。

 爆笑問題の太田は賢い人である。本人はそれを全面に出そうとはしてないが、才能はいろいろなところで発揮されている。もっとも、テレビはある種のファンタジーだから、マスコミに流布している太田像をそのまま受け入れていいのかはわからないけれど。そんな真実などぼくとは無関係な話だからどうでもいいのだけど、単に、こういう人がぼろを出すということはあるのか、あるとすればどんなところなのかという視点で太田の言動を読むのも楽しいだろうと思って読んだ。
 この本は番組を書籍化したもの。番組内容は専門家へのインタビューである。
 普通、インタビュー役は聞き役に徹して相手の話を引き出すことが仕事なのだが、太田は自分の興味や考えていること疑問などをそのままぶつけてしまっている。だから、インタビュー番組ではなく、ある種の対談番組になってしまう面白さがあった。
 前もってシナリオが決まっていないときの発言は、その人の思想が出てしまう。何を正しいと考えているのかが、発する質問やテーマの選定で分かってしまうのだ。だから、こういう場面で太田の才能が裏打ちされるかどうかが見えるはずである。

 そんな気分で読み進めたが、あっさりと読み終わってしまった。太田は凄い人だとぼくは思う。その理由は、会話の中で偶然で話題になる人名や作品名などのトリビア的知識量にではなく、彼の中でのそれらが体系をなしているから。そんなことが話を聞いているだけで伝わってくる。
 会話における連想的な話題の発展も、どうなるかは制御していない場当たり的なものではない。太田は、おおまかな方向を考えながら誘導しているようでもある。つまり、話を発展させながら、きちんと着地を見据えているのである。そんなところに、この人は凄い人だと感じる。

 とまぁ、太田だけ持ち上げるとコンビの田中をけなしているような雰囲気になるが、ぼくはそんなつもりはない。田中は常識人だし、その役割をきちんとおさえて発言というか「存在」しているから。そもそもからして、田中は太田が好きなのだろう。昔ッからの友人だしね。コンビの間に軽蔑があったら、その関係は周りの人に透けて見えてしまうだろう。なによりも、嫌な雰囲気が漏れでてしまうはずだ。それがないのだから、彼らはうまくバランスしている良い友達なのだろう。
 さて、主題の齋藤環という人の話であるが、正直ピンとこなかった。「なるほど」という発言がなくはない。そういう発言は、引きこもりの人との関係も人に興味があればこそ思いつくものであって、サラリーマン家業として仕事をしている人の匂いは一切しない。好きでやっている仕事なのだろうなと思う。

2008年12月24日

「気にする自分」が変わる本

生月誠
青春文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 またやってしまった。この本は単行本で読んだことがある。その本とはタイトルが違うので別の本だと思って買ってしまった。実際手にとって買うときは巻末をみて「この本は〜を文庫化するにあたって解題しました」という注意書きがないか確かめるが、アマゾンではそれができない。気に入った本があると著者名で検索してアマゾンで購入するという方法をとるので、この失敗をたびたびやらかす。買ってしまったものは仕方ないと思って読むよりない。
 文庫本になるとき多少加筆修正してあるのだあろう、「あれ、これよんだじゃん」的なところがあまりない。大筋は同じだろうけど、この本を本当に以前読んだのかと問われると躊躇する。いや、読んでいる。単にぼくが忘れているだけなのだろう。
 この本のアイデアは単純である。嫌なことが頭から離れないのをどうやって直すのか。簡単に、そのことを考えはじめたら「考えるのをやめる」。ただそれだけ。実際問題それは結構むずかしいのだけど、だれでも試みることはできる方法ではある。
 どうしてそれでいいのか。その理由は人の考え方のクセにある。パブロフの犬という言葉で有名だが、あることとあることが同時に起きると、片方が発生すればもう片方も発生すると期待してしまう。もしあることを考えて嫌な気分になるなら、それを続けているとパブロフの犬になってしまう。因果ではない。そういう心のカラクリを説明してくれる。
 嫌なことを突き詰めて考えてもいかなる結論もでない。ただ、嫌な気分と考える内容が強く結びつくだけ。結論らしきことはでない。だから考えてもムダである。ならば、嫌な気分がすることは考えるのをやめたほうがいい。
 前回単行本を読んだ時、ちょっとこころみてみた。が、なかなかどうして、そうかんたんにはできない。それでも、因果ではなく相関である、という人の心理についてはわかったので過ごしやすくはなった。
 人はあまり因果で動かないものなんだ。相関が心理を支配している。それを因果だと勘違いして行動すると失敗する。そんな一般則めいたものについて、注意が向くようになった。

2008年12月18日

「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法

茂木健一郎
講談社文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 BOOKS SAGA 長津田店

 以前、朝カルの講義でちょっとだけだが赤毛のアンについて茂木健一郎先生が講義したことがある。赤毛のアンのファンなのだそうだ。ぼくも赤毛のアンは子供の頃から好きだったので、内容はほぼ覚えている。ただし、アニメを通じて知ったので、アンは山田栄子の声でしかないのだが。
 時の人である茂木健一郎先生はどんなことを話すのだろうか。先生も子供の頃にはまったそうだ。が、原著で全部読んだそうだ。その辺りがぼくとは大分ちがう。普通はアニメで知ったはずだ。本好きな子は児童文学書、オトナは新潮文庫というのが普通だろう。そのあたりから先生は常人ト違う。慣れない英語で読みはじめたが、シリーズ全巻読破するころには英語に慣れたということだ。まったく、うらやましい出会いである。
 赤毛のアンについての話ならば、想像力についてとか、友人との関係について、恋愛についてなどをテーマにするのが妥当だろう。しかし、そんな赤毛のアン論は内容透けて見えるのであまり興味がもてないでもない。では、我らが茂木先生はどのように赤毛のアン論へと突っ込むのかと思っていたら、「道の曲がり角」をもってきた。すごい。あれは、ぼくも衝撃をうけた箇所である。人生は見通せると思っているけど突然角を曲がるようなことがある、というあれである。この言葉を物語の中で聴くと、悲しさとワクワクとが入り交じった実に不思議な気分を感じる。そんな箇所である。
 ぼくが聴いた先生の赤毛のアン論の講義は、20分くらいの内容で、どちらかといえば講義の中では寄り道ようなものだった。その講義で気を良くしたのか、朝カルで赤毛のアンだけで特別授業をしたそうだ。ぼくは聴講しなかったが。
 朝カルの茂木先生の講座に集まる聴講生は圧倒的にOLだあろう、教室は一杯になるが、そのほとんどは若い女性である。ぼくのようなおじさんは珍しい部類で、むしろ場違いな気がする。
 今でも赤毛のアン人気はつづいているのだろうか。あのお話は子供の時に出会えば、おそらく一生付き合えるはずだから、その世代が子供に赤毛のアンの本を与えれば世代を越えて読まれていくはずである。そもそも赤毛のアンは女性が好きなのだろうから、子供に引き継がれる可能性は高い。

 通勤の乗り換え駅にある本屋に立ち寄った際、この本が平積みされていた。新刊は大抵平積みなるが、この本だけが残り数冊だったので平済みコーナーに穴が空いているで、この本がずばぬけて売れていることが分かった。というわけで帰宅途中に読み始めた。 
 本書の内容の1/4くらいは朝カルの講義で話したことである。ただし、想像力を「仮想」という言葉で言い換えている箇所も多く、アンの話を脳学者らしい解釈をいれている。同時に、先生の子供の時の体験談も交えて語られている。確かに、小学生くらいだと赤毛のアンが好きと公言するのはちょっと恥ずかしいだろう。ぼくもそうだった。
 この本の対象読者はOLである。女性を狙った表現やエピソードを意図的に入れている。もう、嫌になってしまうくらい気をつかっている。これ以上その意図が感じられたら読み続けることができなかっただろう。でも、つまらなくはない。単に抵抗を感じたまで。きっと編集者は女性だろうし、それを意図しているのが見え見えである。

「道の曲がり角」についての解釈。これが、この本の最後の方で紹介されている。なぜ、道を曲がるのか。というか、なぜ曲がってしまうのか。茂木健一郎先生の指摘は、なるほどと思えるものだった。
 赤毛のアンは、夢と現実とが両方ともに末広がりになっていくことを期待させる。最後には幸せに暮らしましたという希望を抱かせる。が、物語の最後で結果的にはごく普通の人の人生にしぼんでしまう。恐ろしいほど現実的な結末であり、そういう状態でどう生きるかを示唆しているのだ、という話である。
 講義でこう聞いて驚いた。そうなのか。あれは、末広がりが確実に思えた未来が、現実には歳を取ると当時にしぼんでしまい、ごく普通のオトナになってしまうという、誰にも当てはまる現実をモデルにした話なのだ。それを聴いたとき、茂木健一郎を茂木健一郎先生と呼ぶ事にした。立った数回の講義を受講した聴講生の一人に過ぎないが、そう言いたくなった。
 第49話が「道の曲がり角」である。48話の最後にある次週予告のナレーションは、今見ても怖さとドキドキが同居しているクオリアを感じる。YouTubeで全編みれる。ぼくは、小学生であり、毎週日曜日のアニメを楽しみにしていた。アニメではナレーションの男性の声が、世界のフレームを規定していたように思える。神の目を持ったやさしい存在がナレーションの声からうかがえた。もう最終回が近いし、しかもその先に何があるのかわからないでいた。でも、明るい未来ではないのだろうと予測できた。
 最終回を見てしばらくした後、本では続きが出版されているのだと知った。母親にせがんで大きな本屋へつれていってもらった。昔の東京堂書店だった。あの2階にあった背の高い書架と梯と。まぁ、そういう思い出と一緒に赤毛のアンはある。小さい時に本を読むのは大切だし、本を読んだあとでリアクションをとるのはもっと大切なのだなと今にして思う。

 茂木健一郎先生は、人気がでたために変な本が沢山でるようになってしまったが、それでもたまにこういうちゃんとしたものが出版されるところに救いを感じている。赤毛のアンについてどんな本がこれまで出版されてきたのか、文芸研究についてはとんと明るくないのでなんとも言えない。が、それを知らなくとも、この本は単体として「素晴らしきガイド」であろうと自信を持っていえる。ただし、この本は赤毛のアンを知っている人に向けた本である。知らない人が読んで、果たしてどこまで意味をなすのか、ぼくはわからない。たぶん、もったいないことになるだろう。だから、このガイド本を読む前に、本編を読む必要があるという、実に不思議なガイド本である。さて、原作をもう一度読む返して見ようか、それとも村岡花子訳ではないほうをよんでみるか。人生に置いて、なんど読んでも良い本は、結局子供の時に出会っているのであろう。子供の時の読書って、大切なものなんだなとしみじみ感じた。

2008年12月11日

虫捕る子だけが生き残る

養老孟司+池田 清彦+奥本 大三郎
小学館101新書
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 虫取り仲間3人の放談である。「人工的なものだけを見て育つ子供と自然のものを見て育つ子供とではオトナになってからの発想が大きく違う。自然のものはいくら細部を見ても細部が単調にならない。人工物は拡大するとすぐに単調になる。自然を体験する身近な方法は昆虫を捕り、それを観察することである。思った通りにはことが運ばないことを含め、複雑系の世界である自然を体験してほしい。」というような狙いをもとに対談するはずだったのであろう。もちろん、内容的にはそうなっている。しかし、ある種の飲み会のような雰囲気もある。周りにいる人にメッセージを発しようとしている場面もあるが、単に3人が話が夢中になってしまっているところもある。そうなると、一般人を寄せ付けない。まぁ、三人ともに世間での評判が高い人だからできる放談なのだ。彼らが楽しんでいる気分が読者にも伝わってくる。持つべきものは、同じ趣味をもった昔ッからの仲間である。そう、ある種のうらやましさを感じる本である。

 それにしても、小学館新書は後発だったためかしょうもないタイトルの本が多い。この本も養老孟司の名を使ってつくった本であるが、ちょっと安直すぎる企画である。

2008年12月 2日

「太陽の哲学」を求めて

梅原猛+吉村作治
PHP出版
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 表紙の写真に魅かれた。吉村作治が両手を使って説明している隣に帽子を被った梅原猛がいる。場所はエジプトのピラミッドかなにかであろう。逆光気味の劇的な場面である。
梅原猛はもう高齢だろう。それなのに、エジプトへ行った。すごい。しかも、ガイドは吉村作治。さすが一流どころである。どんな思いがあったのだろうか。梅原猛は仏教や日本について考えきた哲学者である。単なる「謎」といったことに興味を持つとも思えないし、わざわざ現地まででかける必要があったとも思えない。タイトルが「太陽の哲学」とある。たぶん、天照の神話とエジプトのラーとの関係を探るとかそういうことなんだろうけど、それにしても現地まで行く必要があるのだろうか。まったく元気な爺さんである。頭がさがる。
 八重洲ブックセンターで平済みされていたこの本を見たとき、そんなことをぼやっと考えた。差し迫って購入する理由はないのだが、まぁ、読んで見るかとばかり購入してしまった。日曜日や休日に本屋へ行くと大抵こういうことになる。休日の浮かれた雰囲気に「どれだけ時間があるか」とか「読んでない本は何冊あるのか」といったことは全く考慮されない。無駄使いになるかもしれないが、それでもそれがぼくの人生であろうと思い、楽しく本を読むことで休日の夜は更けていく。今日も多分そうなるだろう。
 読んでみた。エジプトの代表的な遺跡を巡り、その場所に関してあるいはその場所に関連したファラオやその時代、あるいは、政治的な動き、宗教、外国との関係について梅原猛が吉村作治に質問し、それに応えるというかたちで対談が行われている。ただし、その内容は一般的なエジプトについての本で読んだ事のあるものでカバー出来ている感があり、ぼくとしては目新しいものはなかった。太陽を神とする。そんな、自然への恐れの表現を宗教として形付けた人たちの感心は世界中で似たような形式となるであろうから、日本でもエジプトでも太陽神についての神話にはある程度の相似なものが起きておかしくない。それは、学者同士の議論でなくとも予想の範疇にある。だから、そういう議論を読んでも「へぇ」と感心する感情まではわいてこない。だからといって、つまらないということはなく、楽しく読めた。
 ちょっと気になったのは吉村作治のキリスト教のとらえかたである。余りにも平板な気がするし、聖書学については全く感心外なのであろう、キリスト教についての言及あるいは、古代ローマに付いての言及を聴くとTV野解説かと思えるくらい「べた」なものであって、意外であった。明らかに勉強不足である。エジプト学者というのは、エジプト学者なのだなと思った。

2008年11月24日

茂木健一郎の脳科学講義

茂木健一郎
ちくま文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 BOOKS SAGA長津田店

 帰宅時の電車内で読む本がない。仕方ないので乗り換え駅の本屋でささっと選んだのがこの本である。初めて目にしたタイトルで、インタビュー本ような感じがしたので買った。帰りの電車では集中力を必要とするタイプの本はちょとしんどいので。
 のっけから最近の茂木健一郎とは違うトークである。いや、これはぼくが非常に注目していたころの茂木だ。一途に「クオリア」を追いかけている研究者の匂いがする。言葉の端にもクオリアの探究への思いが読み取れる。あぁ、これは言い本だぞ。そう思いながら読みふけった。
 読んでいたら「そうそう」と頷づくところが多いことに気がついた。そして「あれ、この話は以前茂木の本で読んだな」という箇所が現れた。例えば、絵画展に行ったときはお気に入りの一枚の前で1時間くらいずっと立って見るようにしているという話である。確か「頭のモードが切り替わるのには30分から一時間必要だから」という説明だった。
 大分前の話だが、そんな説明を読んだあとぼくは素直にそれに従い、名画の前に30分くらいは立ち止まることにしたおかげで絵画観賞の良さを知ったのだ。この一例でだけで、ぼくは茂木に感謝しているし、この人の研究者としての態度が好きになったのだ。
 今読んでいる本の中で再び語られたとしても、まぁ、本人の主張は同じものだろうから話題になるのは無理はない。それにしても、説明がぼくの記憶と酷似しているので違和感を覚えた。
 最後まで読んだ後で、この本は単行本からの解題であることを知った。あぁ、やっちまった。この本、昔読んだわ。そう、ぼくが読んで感心したあの一冊だ。それだったのだ。最近やらと過去読んだ本を文庫本で買ってしまう。ただし、昔読んだ本であってもすっかり忘れてしまっているので「失敗」とはいえないのだが、なんだか損した気分になる。持っている本をわざわざ買ってしまったのだから。
 ふぅ、とため息。しかしだ。もしここで文庫本として読まなかったら、この本は二度と読む事はなかったかもしれないではないか。自宅の本箱にかなりの本があるが、それはおそらくもう二度と読まないものだろう。その時間はない。だからといって捨てたりしはしない。持っているのである。自分の記憶というか、自分の過去を体現しているものだから、なにかいとおしさを感じる。何かのときに読み返せるようにと整然と並んでる。
 文庫本ならば500円で買える。ならば、500円で「読むチャンス」を買ったと思えばいい。お金は本という物質に対して支払われているのだが、ぼくにとっては学びのチャンスに対して支払ったと思えばいいではないか。そう思ってしまえば同じ本が自宅に二冊あることに何の問題もないではない。二度も読む機会があった本ということだ。生きているうちに良い本を読めむという幸運は、お金を積めばかならず手にいられるわけではない。今回はそれが単行本価格で買えたののだから、喜ばしきこと。そう考えるようにした。

 この本を読み返して思った。最近と過去とでは茂木健一郎の興味の先が大分違う。昔は研究者だった。クオリアを追いかけていた。今は対談王である。有名人の話を聞くこと、色々な人と知りあうことが目的のようだ。出版される本を読む程度だと、なんか最近変わってきたなぁという程度の違和感を感じるだけだが、4年くらい離れた本を読むとかなり違う路線の人になっていることがはっきりする。
 なぜ変わったのだろう。おそらくだが、彼が追いかけていたクオリアの研究は、いわゆる「研究」という方法では掴めないと悟ったのかもしれない。そして従来の研究とは違う方法を試して現在に至っているのかもしれない。対談王となることが「研究」という従来方法よりもクオリアに近づけるのかどうか。ぼくはわからない。茂木健一郎はどんな考えで今のような探究形態をとっているのだろうか。興味がわいてくる。研究過程の中間報告として、そんな本を読んで見たい。

2008年11月22日

土牛禅図

松原哲明
主婦の友社
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 ブックオフ秋葉原

 土牛禅図について、以前新書で読んだものがある。ひろさちやだったと思う。土牛禅図とは、簡単にいえば自分探しの旅の寓話を10コママンガにしたものである。牛が本来の意味での自分(本当の自分)である。それを探す。
 それが禅と関係があるのか。ある。10コマは修業の過程を示している。自己を探すとは、要するに悟という状態である。ならば、悟までに10段階ある。
 指南書になるくらいなので、人間の心理的変遷は「似たようなもの」をたどるのだろう。現代も中世も違いはないようだ。別の本を読んだ理解ではこんな感じである。
 この本は秋葉原のブックオフで購入した。そんなに安くなったが、つい手にしてしまった。一応読んで見た。以前読んだ新書のほうがずっとよい内容だと思う。題材や意図はこの本も同じだが、その説明方法がいまいちだし、「土牛図」の絵がいまいちだ。その意味でこの本はもうひとつ。

2008年11月11日

異次元の刻印

グラハム・ハンコック
バジリコ
お勧め指数 ----- (-)
購入店 八重洲ブックセンター

 ハンコックの新作だし、精神や宗教の起源を探究する本だということで購入してみた。ハンコックの本は書店ならばトンデモ本と同じような位置に置かれている。だから、この本もトンデモ本として認識されているのかと思っていたが、大手書店でも結構平積みされていたりして、扱いはトンデモ本ではないみたい。ちょっとうれしく思った。ハンコックの古代文明探究は、ぼくはオーソドックスな学問が欠落している発想を補ってくれるものだと考えるので、この本もそういうものであることを期待した。
 が、上巻を読んだ段階では、いやこれは「やり過ぎ」の感があり、トンデモ本の領域にぐっと近づいてしまったのではないかという感想をもった。ただ、一冊全部に違和感を感じることではない。中盤までは非常に面白いし、学ぶことも多い。ぼくは自分では理系の勉強を積んだと思っており、そのぼくの視点からみても本書の前半まではこの探究方法はありだと思っている。しかし、後半はどうやらまずい気がする。ウソだとかペテンだという意味ではない。そう主張するつもりもない。ただ、余りにも「ある種の仮説」に突っ走ってしまっており、しかもその仮説を「仮説だ」とわかって進んでいくのではく、もう信じて進んでしまっている感がある。悪いことに、その仮説は「どうにも証明できない」たぐいのものである。
 ポパーだったかが、反証できない仮説は科学で扱えないと言っていたと思う。これまでのハンコックの説は反証可能性があった。この本の前半部分の説は十分に反証可能性をもっている。ある種の脳内物質によるトランス状態での意識のありかた、それに絡めたアブダクション現象や日本で言えば金縛りのような現象を結びつけるのは、仮説としてはありだろう。
 しかしどうだろう、この本のスピリチュアルなところの扱いは反証可能性がないように思える。後半以後の展開はトンデモ系すれすれである。では、下巻は全部そうなってしまうのだろうか。とすると、新刊で下巻を買うのは忍びない気がする。しかし、新たな展開がないとも限らない。となると古本で見かけたら購入するというのが妥当な線であろう。ハンコックの本はそこそこ人気があるので、ブックオフに登場するのも時間の問題であろう。そこで購入し、下巻を読んでからこのシリーズの評価を考えたい。

2008年10月26日

「イヤなことがなかなか忘れない人」のための本

生月誠
青春出版社
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 amazon.co.jp

 ぼくはイヤな気分を長く引きずるほうで、思い出し笑いならぬ思い出し怒りをすることも結構ある。いったん腹がたつとなかなか普通の気分に戻ることができない。もちろん、オトナなので八つ当たりをすることはないのだが、とはいえ腹が立つ事を思い出しているときは顔つきが悪くなる。いつも嫁さんが心配そうな顔でのぞき込んでくるので、そういうときはなんとも申し訳ない気分がしていた。    この本にはいやーな気分をどう扱うかのコツが書かれている。しかもかなり簡単なことで、頭で考えると簡単にできそうだ。なぜなら、単にイヤなことを考え始めたら、それを止めればいいということだから。目から鱗の本である。

 イヤな事をついつい考えてしまう人は、なぜイヤな気分になるのか、どうして自分はこんなことになるのかを極限まで考えようとする性質があるということだ。まじめな人ほど自分のなかでイヤな気分をため込み、さらにそれを増幅させてしまうとか。
 少しはまじめなところがあるぼくも「なぜなんだろうか」とずっと考え続けてしまう事がある。しかし、なんらかの答えがでたとしても、それで腑に落ちるということはない。答えが出てもまた最初から考え始めてしまう。歩いているときや電車の中にいるときにイヤなことばかり考えていると、涙がでそうなくらいイヤな気分に漬かってしまうことがあり、自分でも困っていた。

 この本が教えてくれるには、考えてもムダだということだ。そして、ある事柄とイヤな気分というものをセットで扱うと、それは深く結びついてしまうという。例えば、ある人を見ていやな気分になるのを続けていると、イヤな理由がなくてもその人を見るとイヤな気分になってしまうそうだ。
 人の感情の発生メカニズムは論理ではない。そうなるのだから仕方ない、と言うたぐいのものである。イヤな事とイヤな人との間に相関が生まれてしまったら、不条理だろうかなんだろうか、そういう感情が湧いてしまうのが人だとうことだ。同じような状況を長くつづけると相関は更に強くなる。原因追求など意味がない。
 ならば解決方法も簡単で、相関させなければいい。実に単純だ。
 
 イヤな気分になったときに、イヤな気分を感じる自分の注意をそらす方法が書かれている。
 まず、首を回す運動だとか、肩を回すことだとか、いわゆる身体を使う方法を推奨している。そして、ウソだと思ってやってご覧と言っている。
 あるいは、言葉による暗示。なるべく「できる」ということを言葉にしながら言葉が行動を誘うようにする。これも、言葉と身体の相関を意図しているのだろう。

 ぼくが一番気に入った方法は、イヤな気分を感じるようなことを考えるのを後回しにするという方法である。
 例えば歩いているときにイヤな事を思い出すことがあるが、そういうときは、「あとで考える、今は考えない」といってイヤことを考えないだけでいい。実に簡単なことだ。これ以上簡単な方法はない。

 イヤな事をなぜ考えるのかといえば、それは自分にとってはもはやある種の探究であり原因究明であるからだ。
 「なぜ、そんなイヤな結論になるのだろうか。」
 このように、ある種の不条理さを頭の中で探究しているのである。そして、その原因が明らかになった暁にはイヤな事が綺麗サッパり消えてなくなると自分では期待しているのだ。
 しかし、そんなことはない。イヤな気分が強化されるだけ。また、イヤな気分を抱えているときはストレスが頭の中に満ちているので、それは身体を蝕んでいる。そういうことなのだ。

 とうことで、これをしばらく続けてみる事にする。

2008年10月24日

どこにでもいる「イヤな奴」とのつきあい方

ジェイ・カーター
集英社インターナショナル
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 いかにもアメリカらしい本である。奥さんや上司とうまくいくはずないという前提で書かれているんじゃないかと疑ってしまう。読んでいるときにそんなことが浮かんだ。
 アメリカ人は幸せな人がたくさんいるのだろうけど、普通の人は幸せではないんだろう。

 この本には心理学のバックグラウンドを持った人のアドバイスが書かれている。そして、著者自身が体験したエピソードが具体例としてひかれている。
 しかし、日本で普通の生活をしているぼくからみると、そのエピソード自体がアメリカの映画やドラマのワンシーンのようで、自分の身に置換えて考えるのに抵抗をもってしまう。アメリカのドラマの中の世界に自分がいるって、普通の人ならば違和感があるんじゃないか? 日本のドラマだったら、まぁなくはないと思えるかもしれないけど。
 だからだと思うが、この本全体に説得力がない。そして、結局のところ医者に行けというようなメッセージを受け取ってしまう。
 まったく無意味だったかといえば、そんあことはない。例えば、イヤな人との対処法として紹介されていた次の助言には感心した。

 その人の発言についてその人に責任をとってもらうと断言すると、その人は離れていく。イヤな発言をしてくる人は、無責任なポジションにいるから好きなだけイヤな事をいえるのであって、リスクをとってまでイヤな事を人に言ったりしないからだ。

 これはそうかもしれない。
 しかし、あとはとくに感心するようなところがないまま、最後になってしまった。
 結局、読んで得たものはアメリカ社会には住みたくないな、ということだけである。

2008年9月23日

コドモダマシ

パオロ・マッツィリーノ
春秋社
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 パオロさんの『反社会学』は痛烈でしかも面白ろかったので、それ以後出版されるたびに読んでいる。イタリア人を名乗ることである種の本音暴露の許しをアピールしている。普通ならば、それをいっちゃぁおしめぇよ、ということを堂々と言っても許してね、ということである。煮詰まった人間関係からすこし離れて、あーあ言っちゃったという話を聞ける面白さがあった。

 本書を見たとき小躍りしたい気分で即効購入、読んでみた。しかし、あれれ、どうした。なんだか雑誌のコラムみたいに弱い内容。平凡なサラリーマンとその息子というステレオタイプの設定であり、ないようも切れがわるい。ほんわかタイプのものを目指しているようである。掲載された雑誌のカラーに合わせたのだろう、内容に毒がない。

 ひょっとしたらパオロさんのご自身の子供との会話のあるべき姿が投影されているのかもしれない。だから、未来に希望をもてるような人になってほしいのだけど、そのために必要な視点を何気なく教えてあげよう。そういう、か弱さのようなものを感じた。まぁ、それはそれでいいけど。
 

2008年9月21日

お金とモノから解放されるイギリスの知恵

井形慶子
大和書房
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 ブックオフ

 人々が歴史を経て勝ち得た知恵には一目置く必要がある。この本のタイトルを目にして、イギリス好みでもないぼくの手が動いた動機はそこにある。本だなから引っ張り出す行動は半ば無意識であった。
 「こうするとお得ですよ」という知識に必要ない。年収いくらいくらでも贅沢できるということにもない。チープなものを工夫して使うといったことは嫌いである。それは本音を騙しているから、だましは実践してもストレスがたまり侘びしい気分になるのが目に見えている。

 未来への不安は収入の安定性とつながっている。要するに、えさ場の確保は大丈夫かということだ。今あるものがなくなってしまうかもしれない。これが恐怖の源泉である。つまり、お金やモノが無くなってしまう恐怖。
 幸せになる方法には2通りある。一つは継続してお金やモノが増えていく日々を疑わない方法。もうひとつは、お金やモノに対しての別の見方を獲得する方法である。前者は自分のがんばりのみに依存するストレスフルな方法である。後者は簡単には獲得できないがよりローエネルギー・ローコスト・ロー欲望な生活を実現できる可能性がある。ある種の悟りに近いものだろう。ぼくは後者を探している。

 イギリスは世界の頂点にいた時代があった。文化的な面でいえば、頂点の座から追われたとはいえ、今でも世界一流の面がある。人々には賢い人がたくさんいる。
 彼らは彼らなりに歴史から学んだ事がある。1000年スケールでの蓄積は、教科書にのらないある種の価値観を形成しているはずである。それは何か。そこに興味をもっている。

 (親との子との人間関係があいまいなまま成長していく)多くの日本の子どもたちは大人になっても親に要求することを止められない。その背景には買い与えてもらうことを当然と思わせてきた安易な親の接し方も原因になっている。それが再び物への執着を生み、次世代に受け継がれてゆく悪循環を作り出しているのだ。
 「日本人の限りない物欲は実は家庭の中から発生している。幼少体験に基づいたこんな習慣は簡単には切り替えられないわ」
 新宿のデパートでおもちゃをつかんで泣きわめく子どもを見ながらイギリス人の主婦がつぶやいた一言は忘れられない。(P212)

 欲望をコントロールすること。これができれば人は相当幸せになれるのだと実はとうの昔に解明されている。少なくとも、仏教はそうだし、それを目指したのが仏教である。
 とはいえ、現代に生きる自分は、だからといって出家することはしないし、その必要もない。
 原因は既知であるが、それをどうすればいいのか。「これこれこうしなさい」と他人から教われることなのだろうか。

 イギリス人は一端上昇しすぎた生活レベルを、満足度を保ちながらいかにして下げることに成功したのだろうか。その工夫は歴史の検証をへたものである。とくに、市民生活に根付いた工夫は、日本人のぼくでもいろいろ参考になるだろう。この本を読んでその一端を垣間見ることができた。
 これからの日本で生きていくには、なるべく幸せに生きていくためには、先輩の工夫を大いに吸収するほうがよいだろうと思っている。

2008年9月19日

他者と死者

内田樹
海鳥社
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 ぼくは哲学の専門的な訓練を受けていない。そういう人にもわかるように書いてくれるのが内田樹である。ならば、内田樹が著者の本ならば、ぼくにも分かるだろう。そういう勘違いをした。逆は真なりではないと身にしみた。

 一回読んだからといって分かるものではないかもしれない。哲学ってそういう学問なんだろう。いや、思想だったかな。
 そういったことを扱った本では、頭の使い方や用語の意味する範囲が日常生活と大分違っているのだろう。ゆっくり考えていけば、少しずつ確認していけば、あるいは、なれればなんとかなるかもしれない。

 となると、なぜそうしてまで読むのかという疑問が浮かぶ。自分が求めている問題の解答がこの本に書かれているわけではない。非常に興味を魅かれているわけではない。本来ならば、読む理由など見あたらない。
 などと読まない理由を思いつくが、それは自分がすんなりと理解できなかったことへの拒否反応なのだろう。この本に書かれていることが自分にとって必要かどうか。それはこの本を理解できたあとでないとなんとも言えないはずだから。

 この本には既知のトピックがあった。弟子と師匠の関係とか村上春樹のウナギなるものだとか。これまでの内田樹の本にたびたび登場した話である。それらの話は、この本をつくる過程で思いついたものなのかもしれない。
 この本の内容でピンとくるのはそういう話の部分だけであった。著者が本当に伝えようとしたことはついにはわからなかった。

 また、しばらくして読んでみよう。今よりまともな感想をもてれば、自分はそれだけ進化したということになる。

2008年9月12日

まわりにあわせすぎる人たち

名越康文+ロブ@大槻

お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 amazonマーケットプレース

 くわー、ってくらいつまらない。内田樹との対談ではとても面白いことが読めた先生なので、別の本も読んでみようと手に入れたのだが、なぜか苦痛なくらいつまらなかった。

 扱っているテーマはいまのぼくとは縁が薄いからつまらないと感じたのだろうか。しかし、内田樹との対談でも同じようなことを言っているのにそれは面白いと感じた。だから違う理由だろう。

 すでに知っていることだからつまらないと感じたのだろうか。知っていることを再読しても面白いものは面白い。だから、それが理由ではない。

 では、対談者だろうか。それはあるだろう。ライターの人の文章は好きではない。ライターってなによ、という不信感があるからだろうか。調査して調べて書く。その行為は探究だから、研究者と同じ。となると、ライターが「フリーの研究者」だから気にいらないのだろうか。

 よくわからない。ただ、信用の問題なのだろうと思っている。ぼくにですら底の浅さが見えてしまったら好きになりようがない。それ以外、はっきりした理由は思い浮かばない。

 この本に対しては不当な感想といえなくもない。しかし、身銭切ってかった本がつまらないのはなんとも残念な気分がするのだから仕方ない。

対話する生と死

河合隼雄
だいわ文庫
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 店頭で目に付いた。ぱらぱらとめくる。ユング心理学のことがあるようだ。神話についても書いてある。読んでもいいかなという気分。購入。

 執筆された時代が少し古いこともあり、新聞をにぎわせるような事件の解説には興味がもてなかった。猟奇殺人のようなものついて、これまでいろんな人がいろんなことを言っていた。どれもこれも証明不可能だから、適当なことを言っているよなぁという印象だけがぼくに残っている。だから、これを読んでもその一つのような気がしたのだ。立派な人の発言だからといって、それが正しいわけではないから。

 河合隼雄という人はとてもいい人だと聞いてる。カウンセリングができる人だから、人の話をきちっと聞くことが出来るはずで、そういうところが評判になったのかもしれない。だからといって、エッセイもいいかといえば、それは作品によるようだ。ぼくは残念ならが引き込まれるには至らなかった。

2008年9月10日

健全な肉体に狂気は宿る

内田樹+春日武彦
角川ONEテーマ21
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 amazon.co.jp

 精神科医との対談。うーーーーん、つまない。内田樹の本は全部面白いものだろうと思っていたが、そうでないものもあるんだとわかった。

 つまらない理由を明示できない。なぜ、面白いと感じなかったのかをはっきり言えない。内容が重複しているとか、科学的な根拠ない発言だとか、そいういった理由ではない。

 話がかみ合ってないという気もしない。でも、読んでいて「両者は本当に面白がっているのだろうか」と疑問に思ってしまうようなところがある。本人たちは良かったと言っているのだから、それはぼくの勘違いなんだろうけど。

 

2008年9月 7日

14歳の子を持つ親たちへ

内田樹+名越康文
新潮新書112
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 今現在14歳くらいの年齢の子供がおかれている社会環境についての考察。対談形式だから論理の鎖が長くなってしまうことがなく、話題もぽんぽん連想的に移っていくのでテンポよく読めてしまう。

 筆者の一人である精神科の先生の話。診断に訪れる14歳くらいの子供とその親たちについて、どんな現状なのかを教えてくれる。なんでも、子供よりも親がおかしいということだ。親がまずいことになっているんじゃないか、当然そういう環境だから子供も結構辛い状況になってしまう。そうなんだ、ふーんと半分人事になる。親の年代といえばぼくらもそれに該当する。となると、ぼくも注意しないといけないのだろう。

 話はそこから「下流思考」の枠組み(文化資本の不平等制の結果、消費者として社会に登場する子供)へとリンクしていく。

 文化資本の話になると、自分を省みて心もとなく思う。ぼくも「消費者として社会に登場した子供」であったはずだし、まぁ、下町育ちなので「上品な文化資本」を持っていない。しかし、そういうことは今言っても始まらないだろう。まぁ、そうだろうな、で済ますよりない。

 文化資本がなかろうと、下流に属していようと、楽しくやっていければいい。下流だから精神的におかしくなるわけではないだろうし、そんな相関もないだろう。ただ、自分の行動や「自然だ」と思える行動指針をすこし客観的に見るクセを強化したほうがいいだろう。

 この本で語られている親・子の関係を知って少し怖くなるのだが、それは精神科医師の窓からの風景でしかないはずだ。みんながみんなそうではない。だから過度に心配したり不安になったりする必要はない。そう考えるようにする。

 NHK教育でたまに放送している中学生くらいの子供を集めた話し合い番組。発言する人は、一昔前ならば、みな病気と診断されていてもおかしくない表情なんだそうだ。でも、今は正常ということになっているとか。ぼくはそういう番組をみると気持ち悪くなる。だから見ない。あの気持ち悪さを感じる理由、それはまだ一昔前の基準をぼくの身体は持っているからなのかもしれない。などとムシのいい解釈をする。

 消費者というという存在、人類の存在のあり方としてはよくないことなのだろう。どうにかしなきゃといって、どうにかなるのだろうか。おそらくならない。となると、日本もある坂を下っているのだろう。それはそれで仕方ない。

2008年9月 6日

死と身体

内田樹
医学書院
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 bk1.co.jp

 医学書院という出版社名と本書のシリーズ名が「ケアをひらく」ということとから、この本は医学っぽい内容なのかと思いきや、なんてことはない普通の内田本であった。カルチャーセンターでの講演などをベースにした、コミュニケーションなどについての論考で、気軽に読めた。

 じゃぁ、どんなものだったのかまとめて言えといわれると難しい。合気道での身体の使い方からの発想なんかの話だと、個人的にそのような経験がないので「これこれですよ、はは」という説明ができない。

 それじゃ読んだ意味ないではないか。確かにそんな気もするが、読んでいるときにずいぶんと頭を使ったし、楽しかったし、それ聞いたことあるとか、そんな風に考えるのかなどという細かいことは沢山あったので、勉強にはなったであろう。たとえばメタメッセージについて。最近メタメッセージに関することで失敗したことがあり、酷く身につまされた。メタメッセージとはそういうものか、なるほど。一端理解できると相手への腹立たしさが払拭されてしまった。と言う感じの「読んだかい」はある。

 しかし、こんな立派な本を読んでも、それに見合うような立派な感想を持てないでいる。なんだか情けない。読んだ直後はいろいろ考えたことがあったのだけど、1週間もするとほとんど忘れてしまっている。するとまた、読んだ意味あるのかなという疑いが頭をもたげてくる。

2008年9月 4日

身体知

内田樹+三砂ちづる
バジリコ
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 女性の身体についての話を軸に展開されている対談なだけに、もうひとつピンとこない状態であったが、時たま面白いこと言ってくれる。

 極論しちゃうと、なんでもデタラメな時のほうがいいんです。アウトプットの査定が標準化してくると、活気がなくなってきて、やがてジャンル自体が死滅する。そういうもんなんです。ぼくのいたフランス文学がいい例です。仏文は一九五〇〜一九六〇年代の途中まではすごく活気があった分野なんです。戦後のフランスという国に文化的な発進力があったからですけど、実際に仏文科から面白い人が輩出した。日本では六〇年代から大学の新設ラッシュがありましたね。(中略)

 その後で大学数が落ち着いてきて、大学院卒業生がコンスタントに供給されるようになると、標準的な評価システムが整ってくる。そうするともう秀才しか大学の教師になれなくなる。そして、ほんとうに不思議なことですけど、大学の教授陣が秀才だけになると同時に、その分野の学術的な生産性が一気に落ちるわけです。あたりまえですけど、秀才というのは、定義上、既存の標準的な査定基準でハイスコアを取る知性ですから、既存の領域では累積的に研究は進むのですが、新しい学術的パラダイムの創出にはほとんど寄与しない。逆に、学術的な地殻変動をおこすような因子は構造的に排除されるようになる。

 だって、業界の承認を受けないと教師になれないんだから。教師になるためには既存の学問での標準的な査定をパスしないといけない。どれほど独創的な知性でも、スタート地点では同業者集団の規範を受け入れなければそもそも教師になれない。結局、標準的な査定システムが整った領域には、秀才だけが集まるようになる。そうやって英文も独文も仏文も国文もダメになった。

 この発言は本書の本流からすこしはずれた場所のものだけど、何度か読み返してしまった。これは文系の話だけど、大筋理科系でも同じだ。標準化ということが対象にまで適用されると、そもそもそんな学問どこが面白いのだろうと思えてくる。ぼくはそう思っていたし、周りの人もそうなのかと思っていたが、意外に違うようだ。自分では新しもの好きだとか言っている秀才君は、自分が中心になれそうもない話は「くだらない」って言うんだよね。べつの学問にかぎらず、いちいち全部そうだったりすることに気付くと、秀才君と一緒にいるのは人生のムダでしないことに気づく。

 こんなことをこの本で語るべきではないだろうけど、人って読んでいる内容から勝手な結論を引き出して頷いていることが多いのだから、まぁいいだろう。


2008年9月 2日

身体の言い分

内田樹+池上六朗
朝日新聞社
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 神田三省堂

 武道をやっているわけでもないから、身体の話をされても想像できるけどピンとは来ない。そういうことがあるだろう思うところ止まり。

 この本で印象に残った言葉はチャンスについての考え方だ。それは向こうからしかやって来ない。

 社会的認知を求めるということが全部エゴイスティックな動機づけの語法でしか語られない。その能力を使って、どんなサービスをして他人を喜ばせて、世の中によいことを積み増しできるだろうかとということを本気で考える人は、「キャリアパス」なんてことを口走りませんよ。

 そうやって、キャリアを積んで云々という人は、「ドア」を自分でこじ開けようとするんです。でも、その「ドア」というのは自分じゃ開けられない。

 池上先生は先ほど仕事はあちらから来るとおっしゃっていましたけど、ぼくもほんとうにそう思うんです。仕事って「これ、やってくれる?」ってあちらから来るもので、「これ、やらせてください」って自分から言うものじゃないと思うんですよ。本来は。

 「あなた、これをやってください」って向こうから行ってくるわけですけど、何でそんな事を言うのかと思うと、「あなたなら、これできると思って」というわけです。この「あなたなら、できるんじゃないの」という評価をもって社会的承認というのであって、ドアをこじ開ける力のことを言うわけではないんです。ドアは向こうからしか開かないし、梯は上からしか降りてこない。それを自分で「ステップアップ」と言って、あたかも梯を自力でかけて自力で上がれる可能ような幻想をふりまいて、「成功のドアを開けよう」なんてとんちんかんなことを言っている(笑)。成功のドアは向こう側からしか開かないし、ステップアップの梯は上からしか下りてこない。

 この言葉の意味が体感としてわかる。いろいろな条件がそろって行動できることがある。ある人が成果を挙げることがあっても、それはその状況に居合わせないとそもそも成立しないことがあって、それはその人の実力に入らない。だから、自分で努力したら何とかなるということでもない。

 この言葉はただちに「理不尽さ」へとつながる。つまり、運不運という人とは関係ないことだけが問題ではなく、誰からから好かれているから嫌われているからという贔屓の結果であるもあるから。嫌われている人がチャンスを得られることは、好かれている人よりも少ない。まぁ、そういうことである。だから、努力云々がまず第一にあるのかといえば、そうでもない。これは事実なんだけど、多くの人は目を伏せることだろう。だって、元気が出ない話だから。

 幸せないなりたいと思ったら、人の作ったシステムをあまり当てにしないことだ。システムはみんなのために出来ているのではない。少なくとも、作った人が有利になるようにできている。自分にとって、そのシステムが常に有用だとは限らない。

 皆が法律にしたがうと幸せになるというのはウソで、法律通りに社会が動くとひどく得をする人たちと、奴隷になってしまう人と、その中間の人とがでてくるはずである。考えてみれば当たり前なのだけど。これは、どのようなシステムを取ってもそうなるのであって、現行のルールに欠陥があるとう話ではない。

 さて、うまく生きるにはどうしたらいいか。自分の場所を探すことだろう。それは仕事を探すいみでもあるし、住む場所を探す意味でもある。どこへ行ってもいい。そこで、ドアが開きそうなところを探すことだ。そして、準備することだろうな。それ以外に方法はない。努力と結果は無関係であるのだ。

 なんだからいろいろな思いがあまたを巡る。考えるきっかけを与えてくれる本はいい。市井のぼくは偉大な人に出会うチャンスがないのだから、せめて本を通していろいろな人と会っているのだと思っている。


2008年7月21日

思想の冒険家たち

森本哲郎
文藝春秋 1600円
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jpマーケットプレース

 旅人と思索の世界へ。だれけた格好で冷房のきいた部屋でソファーにねっ転がっているくせに、なんだかスゴイ思索をしている気分に、あるいは世界中を旅した記憶を思い出している気分になってしまった。ぼくの完璧な娯楽の一つである。これだけだらだらの生活をしているが、学ぼうというマインドだけは持っているのだと苦し紛れに自分に対して実証しているような気分がしなくはない。なんといわれようと、ぼくは勉強しているのだが。

 この本も旅と文学と思索のセットである。対象は20世紀の人。取り上げられた人は文学者も哲学者も歴史家もいろいろいるけれど、著者が旅人セットで語るにふさわしい人を選択したものだろう。それぞれの章において、対象となる本、引用箇所、それにまつわる思索、その人にふさわしい旅先の記述がある。司馬遼太郎の街道が行くというようなものをずっと昔からやっていると思えば良い。しかも、世界規模で。

 どこかへ行きたいなと思っていてもなかなかでかけられるものではない。金銭的な理由や社会的な理由がある。そんなときに腐っていても時間は過ぎてしまう。想像力を使えばいいのだ。今は写真なりビデオなりが無料で入手できる時代なのだがけど、人を動かすものは「物語」であろうと思う。

 旅行記でつまらないのは、旅先を紹介するだけのもの。珍しい話があっても、おいしい食べ物を紹介されても、結局心にのこらない。旅行記ではあるものの、きっちり勉強した人が現場でいろいろ思索したことが、その土地ならではの人やり風景なりを交えた物語を語ってくれる。そういうものがぼくはすきなのだ。

 この本も紹介される人たちの物語を語ってくれている。それは知識ではない。著者が自分の成長の糧になったような、本当に考えて学んだことを語ってくれている。だから、この本にあるのは情報とはいえない。森本哲郎から離して語っても意味がないことがこの本にあるのだと思う。

 いいなぁ。もっと勉強して、できれば旅をしてみたい。人生の目標など大それたものをもう抱くことはないが、しっかりと考えていく道を歩いてきたいものである。


2008年7月13日

南無そのまんま

ひろさちや
ビジネス社 1400円
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 PISMO人形町

 近所には何店か書店があるが、よく行く店は一つだけだ。書店の大きさではない。扱っている本の微妙なセレクション、書店の顔というか胆というか妙に凝っている棚というものがどの書店にもあるものだが、そこのどんな本が置いてあるかで決まる。その棚はカテゴリーや著者という枠、ベストセラーというマーケとは離れての書店主なり店員なりのセレクションで置かれる本が決まるのだと勝手に想像しているのだが、その出来で決めている。あるいは、新刊書を一角に平済みしてあれば、そのセレクションで決めるときもある。ともあれ、そこに売れ筋とかつまらなそうな本がなければ行くことはない。amazonで最古有りならば、翌日には手に入るからリアル書店で特定の本を買う理由がないから。
 この本はひいきにしている書店にあるそういう本だで見つけた。ま、結局のところ著者で選んだのだけど、ぼくがそのとき読みたい本が置いてあって、ついつい買ってしまったのだ。

 ひろさちやの本である。いって見れば現状肯定に近い本である。人によっては嫌いかもしれない。でも、最近のぼくの結論に近い考えなのでいろいろ勉挙させてもらうにはちょうどよい。しょうがねぇじゃねぇか、こういう自分なんだか。それを肯定してくれるのだ。ムシのいい本のようにも思えるけどね。

 あるべき姿というものがあって、自分がそこにいない、あるいはそこへ向かっていないことに対して叱咤激励するような本は、まぁありだろうということになるだろう。一生懸命にやれ、ということだ。それを悪いことだと思う人はあまりない。
 しかし、大抵の人はそんなにがんばれるような人ではない。そうなると、他人からも自分からも「ダメ人間」のレッテルを貼られることになる。そうなると、生きていない気がする。一種の恐怖心がわく。それが、やりたくないけどやらざるを得ないように考えさせ、それが不幸の元なんだということがかかれている。
 著者は仏教からの結論として、あなたは今そうなんだからしかたないじゃない、ということを諭してくれているのだと思う。あるべき姿ではなく、今を見よというわけだ。
 そういうことを言ってくれる人がいたらその人は結構幸せなかじ取りをできるのだろうと思う。全員が全員裕福な暮らしができるわけではないので、他人と比較する限りどういう方法をとっても不満な結果になるだろう。つまり、そういう行動はそもそも負け戦なのだ。

 この本はインタビューでの問答で構成されている。だから、ちょっと本を読むのはめんどいなぁ、と思っている人でも抵抗なく読めるのだと思う。


2008年7月11日

MADE TO STICK

Chip and Dan Heath
arrow books
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 『Presentation zen』の中で紹介されていたので購入した。どうすれば記憶に残るのだろうか、についての考察である。アイデアでもプレゼンでもいい、それがどういうものならば人は憶えてくれるのだろうか。そのコツが紹介されていた。

 それは、SUCCESsということだ。よくある頭文字をつなげたもの。Simple, Unexpected, Concrete, Credible, Emotional, Story。どういうわけか、この性質を持てばもつほど憶えちゃうのだ。簡単で、思い掛けなく、具体的で、感情に訴えてくる、物語。これらの性質を合わせもてばもつほど、憶えちゃう。この本はそれだけしか説明していない。

 どうすれば印象付づやすいかを教えてくれる本なのだから、この本自体がそういう作りになっているはずである。もっといえば、この本の内容を読んだ僕が覚えいていないようならば、この本の主張はおかしいことになる。リトマス試験紙となるものだ。

 で、どうだろうか。憶えているのかといわれれば憶えている。内容についての違和感を感じないところには「Unexpected」をバイオレーションしているが、論理的な説明であったので引っかかることなしに読み勧められた。そして、今後のぼくの行動には大幅に採用されるアイディアになるとも思っている。

 ただし、本書の内容をよく覚えている理由は別にあるかもしれない。というのは、この本を読むには実に時間がかったのだ。通勤電車で読んでいて3週間もかかった。英語力に自信がつき始めていた矢先だったので、ちょっと思い上がっていた自分の頭を冷やしてくれる本となった。

 なので、英語の得意な人にはお勧めできるのだけど、そうではないひとにはもうひとつかもしれない。


2008年6月27日

世間も他人も気にしない

ひろさちや
文春文庫 640
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 ブックスサガ長津田駅

鯉をバケツに入れて火にかけます。鯉はじっと我慢して、ついに茹だってしまいます。だが、鯉を熱湯に入れると、ぴょんと飛び出します。

 新書の帯にある言葉が目についた。これって、「湯で蛙」の話じゃないの? いろんなバリエーションがあるもんだ。蛙も鯉も、実際にそうなのかな? 実験したくわない気分だ。

 ぼくはひろさちやの本が好きである。これまでも何冊か読んだ。その主張はぼくも納得がいくし、部分的には実践もしている。もう70過ぎの爺さんだが、だからといって主張する内容が古いともピントが外れているとも思わない。本はいいな。電車で説教されたはら聞く気分にはならないが、本をかえしての対話ならばぼくは喜んでしたいし、実際買って読んでいる。ということで、内容は買う前にだいたい予想が付く。でも、買ってしまうのだ。好きになるとはそういうものなのだと思う。

 書店で見かけて、迷わず買ってしまった。帰宅途中だった。どうにも疲れていた。自分の力の足りなさに悲しくなっていて、なんでこんな面倒なことをやっているのだろうと疲弊していた。そういうときには、ひろさちやである。ものごとをそれ以上悪く考えることをしなくなる。その場で止まる。では、それで明るく生きるようになるのかといえばそうではない。この本の効用がへんな新興宗教とちがうのは「治す」ということを公言しないところだ。あくまでも、立ち止まって、自分を後方上空から見えるようにしてくれる程度に気分を開放させてくれるだけだ。しかし、それがあるのとないのとでは、大違いなのだ。

 世間虚仮。世間からは逃げるに限る。なるべく実践している。予想以上に問題は発生しない。


2008年6月11日

命と向き合う

中川恵一+養老孟司+和田秀樹
小学館 1400円
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 中川+養老のガンについての本ではずいぶんと考えさせられる結果となったので、この本も期待して購入した。まぁ、和田秀樹の部分はご愛嬌かな、と思って(あまり参考になること言わない人だから)。

 

和田 結局、がんも認知症も、つまりはどちらも老化現象なんです。ですから、「この薬を飲めば治る」というような類のものでもない。老化は止められないですからね。

 なんだから、この一言でこの本の内容が全部わかってしまうと思うが、まぁ、そういうことを理解せよという警告を発している本。それが対談形式で、よくいえば分かりやすく、悪く言えばもと足りないく書かれている。

 要するにこの本の著者は、がんになったらどうのこうの考える前に、お金を集めるためにどうこう考える前に、生きろ、と主張している。生きろの意味は色々にとらえられるのだが、お金があったら何をする? の回答を真剣に考え、今出来る範囲で行動することなのではないかとぼくは解釈している。時間はまってくれない。最大の治らない病気は「老化」という気がする。若い若くないということで争ってもしかたがない。時間は進むのだから。

 治せるガンと治せないガンがある。治せないものは何をやっても同じ。そういう対応をとるつもりである。それは誰に対しても。時間には勝てないし、老化にも勝てない。そう納得すると、話がはやい。やれる範囲でやっておこう。もしも、を考えても対応策がないのだったら、それは時間を過ごすだけだ。ガン検診だのなんだのをまめに受診するよりも、ベースとなる知恵を身に付けておいた方がいいだろう。それにはこの本は持って来いであろう。



2008年6月 6日

十牛図入門

横山紘一
幻冬舎新書 760円
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 BOOKS SAGA

 疲弊した自分のまま帰りの電車で読む本を持ちわすれていたので、駅構内の書店でこの本を購入。いまの自分にはなるほどと学ぶことが多い良い本だった。宗教という過敏になりやすい言葉を忘れれば、仏教は心理学的に落ち着きやすいものになるのは確かなのだから、こういう本がもっと出回ってもいいといいだろう。

 十牛図は自己を探し、飼いならし、自らのものにし、そして周りの困っている人を助けられるようになる様子を10枚の絵によって表現したものだそうで、古くからあるとか。この著者がもともと科学者だったためなのか、ぼくはしみ込むようにその説明を理解することができて、新書ってのはこうあるべきだなぁと感じてしまった。

 日常において避けられないいろいろなことについては、おそらく過去からずっと似たような問題を人は抱えていたのだろうから、今でもこの十牛図の意味するところが理解できるのだろう。人は変わってないなーという思うのか、変わりようがないと諦めるのか。どんなに社会が成熟しようともよい教えがあろうとも、人は生まれてきたときはゼロですから、まぁ、この先も大きく変わることはないのかもしれない。というか、変わるのだったら、とっくに変わっているのだろう。

 たった十枚の絵だけど、それを必要とする人にとっては実に学ぶことが多い。面白いのはこの本が今新刊で出版されていること。おそらく、社会においてこういうものを必要とする人が多い、ということなんだろうと思う。意外に同じような気持ちで世間の人は生活しているのかもしれない。