帯に内田樹さんの推薦があったので購入した。
この手の脱力的な絵のマンガを好きではないのだけど、ぱらぱらと立ち読みしていたら、テーマに魅かれたから。
登場人物であるスーちゃんには嫌な人がいる。
社会で生きていれば、普通それくらいの人はいるだろう。
そう説教じみたことをスーちゃんに言いたくなるのだが、そういう我が身にも嫌いな人はいくらでも覚えがあって、だからどうすればいいよなど問題解決へのアドバイスを申し上げることはできないと自覚している。
すーちゃんはどんな嫌な目にあっているのか、そしてスーちゃんはそれにどう対応するつもりなのか。
他人事だが自分のことでもあるような気分がして、どんどんと読み進めた。
このマンガの作者である益田ミリさんは実によい観察眼をもっている。
そんなことは人気本の作者なのだから当たり前なことだろうけど感心してしまう。
声を上げて叫びたくなるような事柄ではなく、ちょっと嫌なことであり、どんな人でも経験があることを取り上げている。
相談してってどうにもならないのは、ある意味多くの人が認めていることだろうに。
他の人もみんなそうなんだ、と知ることが問題のシビアを緩和させてくれる一つの有効な方法だろう。
だからこの本は実際売れているのだと想像する。
この本については、最初に奥さんがいたく感心していた。
奥さんはOLを10年していただけあって、そういう体験があったのだろう、深く頷いてしまうと、自分のことのようだと感想を言っていた。
そういえばNHKBSのブックレビューでも女子アナウンサーがこの本を取り上げており、彼女も我が身のような思いがしたのでといって推薦していた。
共感してしまうのは女性だけではない。
なぜなら、スーちゃんがいう「嫌な行動をとる人」には性差を越えた類型が確立しているように思えるから。
というのは、ぼくにもいくつも思い当たる節がある。
とくに言挙げをしてその人の非道を非難する必要があるとは思えなく、またそうすることは自分の大人げなさを露呈させるだけ。
こちらがそう思ってしまうような嫌なことをする人は身の周りに結構いるものだ。
ホントに。
このマンガを通じて、そういう人がどんな人の周りにもいるものだと知ったわけである。
そういう嫌な人は、結局のところ「誰」なのか。
一言でいえば「ガキ」なのである。
自分本位な言動を社会に向けて発信し、その発言や行動の責任を取らない、またとらなくてもいいように防御している人のことといえば、ガキだろう。
幾か嫌な人の特徴をあげてみる。
一、発言の語尾に「前言撤回」を意味することばを付け、人が嫌がることをあえて言う。
二、より強い権力の加護下にあることを誇示し、自らの意志がその権力から発せられていると見せかけ自由に振る舞おうとする。
三、発言や行動の目的は自己利益拡大のためで、それらが周りに引き起こすであろう迷惑については考慮しない。
これだけで十分であろう。
これらは要するに子供の行動でははないか。
幼稚園くらいのちっちゃな子供がそういう行動をとることはよくあり、それは「こどもだから仕方ない」と大人は目に麗しく子供の成長を見守るものである。
しかし、どういうわけかいくつになってもこれをやり続ける人が発生しはじめた。
1984年生まれ以後の人は、軒並み危ない。
「嫌な人」はどういう人たちか。
少し別の方向から考えてみる。
一言えば、可愛い人であろう。
しゃべらなきゃ誰からでも好かれるかもしれない。
CanCan的なファッションできめるような娘さんとかも入るのかも知れないし、御局様も入るのかも知れない。
あるいは、既存権力にどっかりと座っているオジサンならば親族の女子は全部可愛いだろう。
この本で登場する嫌な人の例は、要するにそういう人たちである。
自分がしがないOLで、こんな人たちと働かなければならないときはさぞかし大変だろうなと、深々とため息をついてしまった。
これが素直な感想である。
なるほどOLは大変な仕事だなと。
しかし考えてれば、そういう人の出現は今に始まったことではない。
イソップ時代かあらあるのだろう。
「トラの威を借るきつね」とか(あれ、イソップだよな?)。
もし世の中にトラの威を借るきつねがいないとして、自分がきつねで、トラの威を借ったらすばらしく住みやすい世の中だろうなとも想像することができる。
それはちょうど、高速道路の渋滞でだれもがろくに走れない状態のときに路肩を爆走するのと同じ気分だろう。
痛快ということ(いかん、内田樹さんの受け売りが混じってきた)。
トラの威を借るきつねが通用するのは、みんながトラの威を借らないからだ。
トラの威を借らないで世の中を築こうとしている、うるわしい世界である。
ところがみんなが路肩を走りはじめたら、その世界は立ち消える。
もう、一瞬にして。
そして相当に面倒くさい利用規定ができるか、そもそも高速道路を維持できなくなるだろう。なにせ、ルールが向いているのは「路肩野郎」であって、普通の人ではないのだから、利用者にとって都合のよいものにはなり得ない。
スーちゃんの結論は、そういう場所から逃げるというものであった。
読んでいて「えぇ」だった。
だって、これほどの本ならば、これが「正解」だと思う人が多いはずで、実際このとおりに「止めちゃう」ことを選ぶ人は多いだろうし、あるいはこれかも選ぶ人は多いだろうから。
しかし、それでいいのだろうか。
単純な疑問なのだが、違う働き口へ移動したあとに同じようなことが起きたりしないものなのだのか?
そういうリスクは考慮しないのだろうか?
というのは、この本の中で、スーちゃんの友達はすーちゃんの境遇について「よくわかる」と言っていたではないか。
ということは、嫌な人がいるのは「それは世間でよくあること」だということではないのか。
世間でよくあることならば、移動先でまた同じことになるのではないか?
もうひとつ疑問になったこと。
それは、スーちゃん自身は誰か他人にとって「嫌な人」になっている可能性は本当にないのだろうか、ということ。
自分が常に正しくて常識人ということはないだろう。
どんな人も少しかおかしなところがあるもので、それは他人からしたらイライラの原因になっていることはありそうな話だ。
だからスーちゃんがいなくなって「良かった」と思っているだっているのかもしれない。
自分の嫌いな人が悪人ということは決して決まっているわけではない。
自分が悪いという考えはなかなか真剣に考えようとしはしないだろうけど、可能性としては大いにあるものだ。
で、この問題についてぼくが考えるだろうこと。
この問題はすーちゃんが現在のスーちゃん自身でいる間は決して解決しないだろう。
それはスーちゃんの生活の中には、スーちゃん自身が追い求めるものがないから。
仕事のなかでも何かを目指す途中ならば、障害は「障害」であって、嫌なことではない。
障害があっても目指す先があるなら、障害にいちいち付き合っていない。
目指すものがなくても、「疑問」なり「魅力」なり、あるいは「謎」といったものが、スーちゃんの生活にはないものなのだろうか。
これがないと、人の生活はどこへ行っても同じところになってしまうだろう。
誰々さんが嫌なことをするんだとか、そういうことが問題になるのは、現在の生活がある種の平衡状態に達してしまい、すでに人生に対する疑問を消失してしまっていることに原因がある。
今ある状態を「何もしないで維持したい」と思うのならば、その場所は人生のゴールになっている。
ならば、それ以上に良くなることは絶対にない。
悪くなるだけである。
生活のなかに、仕事やそれ以外の時間の中で、気になる謎があれば、自分の関心をそっちへ持っていけば、それ以外のことはどうでもよくなってしまうものだ。
ぼくがいう「謎」とは、人はなぜ生きているのだろうというようなレベルの根源的な問いであってもよい。
誰かがおいそれと答えをだせるようなものではないものでも、「なんだかしれないけどひかれるのよね」といえるものならば、それでよい。
それを考えていれば、もっといえばその疑問に自分なりに答えを求めることが生きることになる。
それって、なんでもいいのだけど、それが全面にでてくるようになると、目の前に嫌な人がいて悩ませられるのは山道でヤブ蚊に悩まされるのと同じようなもので、くそみたいな問題でしかない。
もちろん、くそみたいな人によるくそみたいな問題なのだが、問題には違いない。
どうやって、それを交わすのかは、まぁすーちゃんの方法もありではあるが、最終回答では決してないだろう。
漱石の草枕の冒頭は、それを言っているような気分がして、あらためて読むと涙がでてくるわけである。
山道を登りながらこう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。