書名から想像するのは、「おれって凄い系」の人を罵倒する話だ。だから買うのに抵抗があった。しかし、中身を読んでみたら言葉も出ないくらい感心してしまった。うん、頭のいい人はネットにもちゃんといて、ちゃんとしたことを人にわかる言葉で発言してくれているだ。ただし、そういう人が「ちゃんとした」社会貢献を仕事としているわけではないみたいだけど。著者はネットの人なのだから、こういう話はネットでしてくれてもよさそうなものだ。しかし現実には著者が主張されているように、ちゃんとした人はネットを読まないでお金を払って本を買うだろうから、著者が言いたいことを理解してもらうためにはネットよりも出版のほうが効果的なのだろう。不思議なものである。
本書の主張は、要するに、繋ぎっぱなしにできるインターネットの大多数のユーザーは地上波テレビと同じで、バカか暇人であり、その目的は暇つぶしなんですよというもので、書名そのものである。それで尽くされている。この本を読んだ後であらためてそう言われると、そう頷くよりない。
ところが、おそらくだが、こういう物言いだと普通の人は読んでくれないだろう。というのは、この書名に自信を持って対抗できる人は少ないだろうから。おれって頭よいといえる人はすくない。ひょっとしたら自分が罵倒されるかもしれない。そう考えるだろうから。
この本でさすバカとは、勉強ができないという意味ではないからだ。単語の意味が最初に思い浮かぶものと違う。バカの意味を例えて言うならば、一時電車でよく見かけたドアの前にべしゃと座って人の出入りの邪魔していてもなんとも思っていない高校生のことだ。あるいは背広着て会社に通勤しているが「俺って凄い」という話を他に人も聞こえるように電車で自慢している社会人のような人だ。要するにうざったい人をさす。暇人も同様に、忙しく働くということをあえてしない人や事情によりできない人を指すのではない。実生活では他人と接点がなく、自宅でただインターネットを覗いているような人を言っているのだろう。これはぼくの解釈であって、間違っているのかもしれない。もっとも、こうして読書メモをちまちま付けているぼくような人間をずばり指していると言えなくもない。ちょっと不安ではある。
インターネットを使う人はバカみたいに増えた。携帯電話なども考慮したら、日本人全体だ。となれば、使っているほとんどの人は「優秀」でも「劣悪」でもない普通の人のはずだ。この「普通」という段階は実に色々な人を巻き込んでいる。日本語の読み書きは問題なくできて社会生活も普通の営めるが、「自分のことを正しい人で自分のみなマネするべきだ」と疑う余地なく思っているタイプの人が多数含まれる。そして、この本の主題である「バカ・暇人」と呼ばれる人は、基本的にはそういう「正しい指摘をネット上で行う模範的な常識人」のことである。
バカと暇人のものという言い方にかちんと来るかもしれない。ここで小学校の時の友達を思い出してみる。30過ぎになって振り返ると、その当時の同窓生達は学校の成績とは関係なく、幅広いキャラクターを持っていたと気づくだろう。大人になった今からその当時の友達を考えれば、高校、大学、職場にいる友達とかなり違うだろう。
それは、学校に入学するごとに付き合いうる人が「フィルタ」されているからである。頭のいい奴もいるし、ぱっとしないのもいるし、おかしなやつもいる。それでも学校ごとにある範囲にある。ところが小学校や中学校だと今ではとても知りあいになりそうにもない人がたくさんいる。
ネットで大勢の人が参加しはじめるとなれば、そこには自分の知りあいが多数やってくるのではなく、自分とは世界が違う人が大挙してやってくることを意味する。すると自然に拒否反応をおこす。それは相手も同様。つまり、大勢の人がネットに集まれば、その人々はほとんど「違和感のある人たち」なってしまうのだ。違和感は不信感にかわり、やがて「バカ」であり「暇人」という蔑視に変わっていく。そういう心理的な必然性があるのだとまず理解しないと話が見えなくなる。付き合わん出いい人に出会ってしまう確率が高いがネットであり、コメントやクレームを通じて、そういう人が近寄って来やすい。それを理解していないと、ネットはバカだらけと考えるようになり、自分が常識人だと信じ込み、ネットの人を教育しなければなどと考えてしまい、ネット中に「バカ・暇人」画結果的に溢れてしまうことになる。
日本人の圧倒的多数は普通の人だ。ならばネット上にいる圧倒的多数も普通の人である。普通の人は他人に感心してもらえるような「作品」を生み出すことはできない。どんな分野においても、それなりに訓練しなければ第三者が気に入ってくれる作品を作れるようにはならない。絵や音楽ならば誰もが頷くはずだ。文章についてもそうなのだ。
日本語くらい話せるし書けるのが日本人であり、識字率は100%と言っていい国だから、日本人ならばだれでもが文章を書ける。だから、だれもが書き込みやブログができる。問題は、だからといってそれは面白くはないし、興味深くもないということ。訓練よって必要な技術を身に付けていないからだ当然なのだ。この本では、「書く」ことにもそれなりの訓練が必要であるということを認めない人のことを「バカ、暇人」に含めて注意を促しているのだ。
ここまで理解すると、この本で指摘されている人はインターネット時代に突然現れたわけではないと気づく。クレーマーは昔からいた。新聞の投書欄やテレビ局にクレームをかける人、あるいは、役所に文句をいう人(大抵は、自分の子供に悪い影響がでないよう社会を修正しようとする母親だったりすが)もそうだ。以前からいた人たちが、インターネットが盛んになったおかげでインターネットにもしみ込んできた、というだけの話なのである。そういう人に迷惑してきた人はこれまでのたくさんいたし、それがネット上の普通の人にまで被害が拡大したということなのだ。それを嘆いても意味がない。社会というのは、同類ばかりの人で満ちているのではないのだから。
自然界の存在する「特質」というものは、ほぼすべて正規分布する。ほぼすべては普通のものであり、優れているものとダメなものは数が少ない。極めて優れたものと際編めてダメなものは極めて数が少ないのである。となれば、ネットを利用する人のある特質についても同じである。
その分布は注目している「特質」ごとに異なる。例えば書き込みの内容からバカと判断されるとしても、別のことでは優秀となる人もいるだろう。面白いことを書けない人であっても、楽器の演奏は上手だということがあるかもしれない。ただし、これも経験則と一致するが、大多数の人はどれをとっても普通になるはずである。だからこそ安定した世の中になっているのである。食べ物を食べた後でそれらを栄養分にかえる能力という特質は全員できているのだから、生命として合格。生きていく上で、文章書きなどどうでもいいことだ。それが下手でもどうってことないだろう、という程度の違いである。優秀の人だけを集めて集団をつくれば、その集団のなかで分布が発生するために、その社会のなかで結局優秀な人と劣悪な人が生まれる。きりというものがない。優秀になるために生きているのではない、大切なのは、つまらない争いをどうかわすか。そして、それを理解している人は上手いこと逃げていく。
この本を読み終えて、別のものが見えてきたような気がする。日本人のクセというよなものがネットを通じて垣間見得るし、閉鎖環境で生きている人々(例えば女子高のなかとかね)では、どんな陰湿ないじめがあるのか想像できるし、なぜ日本人がそろって太平洋戦争に突入していったのかわかるような気がするのである。