現代語訳 徒然草
古文の教科書には必ずのっている「名作」の現代語訳。 じゃぁ、もう一度読んでみよう、現代語ならすらすら読めるだろうし。 兼好はそもそも「本を書こう」とは思っておらず、気の向くままににつれづれ書いただけだ。 新しい発見もある。 |
古文の教科書には必ずのっている「名作」の現代語訳。 じゃぁ、もう一度読んでみよう、現代語ならすらすら読めるだろうし。 兼好はそもそも「本を書こう」とは思っておらず、気の向くままににつれづれ書いただけだ。 新しい発見もある。 |
面白い。 飛行機にのるとき、機内で読みたくなるであろう本を予測して持ち込むわけだが、基本は塩野七生さんの著作にしているのだが、今回は内田樹さんもそれに追加した。 この本は、日本語で書かれた「わかりやすい論説文」の最高傑作の一つだと思う。 来週しめきりで、社内報に出張した先での紀行文を書いてほしいという依頼が広報からきている。 読んだ後にまた感心する。 |
何度読んでも感心する本がある。この本はその筆頭だろう。 通勤電車でもう何度も読んだ。海外出張先での夜にでも読み進めればきっと愉快だろう。そう思ってカバンに入れてきた。 で、実際読み進めると、もう何度も読んでいるのに、知っているはずのことを憶えていない。まいったなぁと気づく。 本なんてものは、一回読んだだけでは何もわかっておらんものだ。つくづくそう実感する。 正直にいえば、ぼくはこの歳になってそれに気がついた。 何を今さらという感もあるが、本は何度も読むべきだ。 読んでいくほどに、本全体の構成が見えてくる。最初に読んでいるときは、一時限的な展開としてしか把握できないものである。 解説であったとしても、物語のように過去と現在と未来があるように読んでしまう。そして全部読み終わったところで、すべてか過去になる。その時点で話の展開など一切をひっくりめたものが「過去」のこととして頭に残る。 それを「知識」と呼んできた。
しかし何度も同じ本を読んでいると、話を全体として把握できるようになる。最初と最後という一次元的な流れでの理解ではなく、全体を全体のまま。これが結構面白い。 とはいえ、だからといって「内容を理解した」とはとても言えない。やっぱり本を読んだくらいで、何かがわかるようになどなるはずはないから、仕方ないけど。 そう言葉にしてみてから、疑問が思い浮かぶ。 理系の判断基準ならばさほどむずかしくないが、文系のこういうテーマにについては、「理解した」とは一体何をさすのだろうかなぁ。 |
マーク・ピーターセンさんの本を何冊が読んできたが、話題が他の本と重複しているものをちらちらと見かけるようになった。なかには全く同じものもあった。ピーターセンさんは作家じゃないのだから、そういうこともあるだろうとは思うが、それでもピーターセンさんの本はもういいかなという気分になった。英語のちょっとしたヒントを知るうえでマーク・ピーターセンさんのコラムは面白いし、勉強になるのだが、切りがない感じがする。 マーク・ピーターセンさんの一連の本を読んできて思った事。それは、ニホン語と英語の違いを知るときには、単語と単語の対応を探すよりも、言葉の意味する内容(あるいは、世界の切り方、現象の名付け方)に注意を向けましょうということだ。日本語と英語とが対応していることなど実は殆どなく、日本語では縦に切れているものが英語では横に切れていたりするから、単語=単語の表層的な神経衰弱をやっている限り互いの相手の言葉を理解する事はないだろう。 著作のなかでも言われているが、日本人が英語を学ぶには、長い時間かけて取り組むよりなく、お手軽で楽な方法はないということだ。実に当たり前な結論だけど、何かを学ぶということはそういうことだ。そんなことを確認できて、ぼくにとっては有り難いことだった。 |
日本文学の良さは言葉の響きにあるのだろうか、それとも内容にあるのだろうか。 内容にあるとしたら「世間」を前提としているはず。多くの人が当たり前と思っていることと微妙にズレたものに気づくから感動するのだろうか。 だから世間の前提を知らなければ日本文学の良さもわかるわけがない。世界で受け入れられるのは日本文学ではなく世界文学だからで、それをいくら読んでも日本文学の良さをわかったことにはならない(と思う)。となると、どれだけ世間を理解しているのか。子供の頃からの暗黙の了解のようなものの集合が世間であって、言葉を上手に使えるようになっても頭に世間がないならば文学はわからないのではないか、と思ってしまう。 では、マーク・ピーターセンさんは世間についてどれだけ理解できたのであろうか。まぁ、10年、20年と滞在していればわかるのだろう。ときたま鏡を見て自分が日本人でないことに気づいてビックリするくらいなのだから。 文学の理解についての考え方は理科系人間であるぼくがそう考えているだけ、それが正しいというわけではないだろう。それに、文学についてあれこれ語るほど文学について情熱を持っているわけでもないし、生きてきた年齢が長いわけでももない。とはいえ、あたらずとも遠からずであろう。 マーク・ピーターセンさんの日本文学の紹介を読む限り、なんだかすごく理解されていりょうで、ぼくも読んでみようなどと思ってしまった。母国語でないことばの文学を理解することなど不可能だと思っていたが、長い時間ずっと使っていることで慣れてくるのかもしれない。 |
養老孟司さんの本が好きで、読んでいない本を見つけたら即購入する。養老孟司さんといえば『バカの壁』で世間の認知度が上がった。だが、ぼくとしては『唯脳論』の人である。『唯脳論』には大学時代に「なるほどなぁ」といたく感心し、それ以来ずっと養老孟司さんの本(といっても一般向けのエッセイばかりだが)は読んでいる。僕の本棚には120冊以上並んでいる。 養老孟司さんの本はベストセラー作家になる前からたくさんあったし、近年は出せば売れるからだろうがゾクゾクと出版されていたので、定期的に新刊を楽しめていたが、最近はめっきりと出版数が少なくなり、新刊に出会えるチャンスは貴重になってしまった。だから昔に読んだはずだよな、という本でも新刊ならば買ってしまう。新刊が文庫化されただけでも買ってしまう。実にばかげているとは思うが、もはや趣味なので許されるだろう。そういう人、結構いると思う。 この本は文学、それも三島由紀夫について語ることが目的のようだ。いきなりミシマについて語るのはなく、歴史にそってミシマに至る方法。時間の流れの主軸は「身体」である。いかにも養老孟司さん風の文学史。 江戸期以後の日本文学史をなぞるだけでも、知識人の脳裏から「身体」が消えて意識がでしゃばってくる「都市化」の影響をうかがい知ることができる。なるほど。そう頷きたいところが、実際問題本書の内容はそれなりに日本文学への興味がないと取っつき難い。しかも、少々高級な内容になっているので、正直ぼくにはピンと来ないことろだらけであった。この本は、養老孟司さんがまだ一般向けの本をあまり出していない頃のものである。だから、かなり面倒なロジックを使い、それについてこれるレベルの人に向けて書かれているから仕方ないのかもしれない。 言いたい事は想像できるし(本当か?)、問題意識のポイントも予測がつく(正しいか?)が、だからいってストレートには「なるほど」とは言えない、なんとも自分の教養のなさを自覚させられる本である。読んで少し自分にがっかりした。 |
「極東ブログ」に『ローマの休日』についての記述があり、引き込まれてついつい読んでしまい、元ネタであるこの本へのリンクをクリックし、表紙を確認しただけでアマゾンでそのまま購入した。大変面白い本であった。 マーク・ピーターセン。この人名を聞くと大学時代をモいだしてしまう。英語ってよくわからないなぁ、どうやったら話せるようになるのだろうか、と思っていた時期に『日本人の英語』を読んだ。へぇ、と驚いてしまった。英語の解説書でも面白く書けるのかと。University of MEIJIを「明治な大学」という意味になると解説してあった箇所だけは今でも憶えている。もっとも、だからといって英語の上達には関係がなく、当時も今も英語はろくに書けないし話せないままなのだが。 この本は雑誌連載のエッセイをまとめたもので、原稿は当然マーク・ピーターセンさんが書かれたもの。漢字混じりの日本語も完全なもので、ぼくの日本語など、足元にも及ばない。もっとも文章は、勉強すればよいものが書けるわけではないだろう。大学で日本語をしっかりと勉強したら漢字交じりの日本語の文章は書けるようになるだろうが、それが面白いかどうかは学ぶことで身につくわけではないだろう。 表現を学ぶことができても、それを自在に適切に使えるかどうかは学ぶことが難しいあろう。なぜなら、とっさに表現できるかどうかが問われるわけで、それは無意識が行うことであって、訓練の対象にはならないような気がする。ならば「逆もまた真なり」ということで、ぼくがいくら英語を学んだところで、適切な英語表現を自在に使えるようになるかどうかは不明ということだろう。もういい歳であり、それで全くダメならば、別の事に時間を注いだほうがいいのかもしれない。 この本で印象に残ったこと。それはyouの使い方。youが特定の人(あるいは二人称)をさすのではないということは授業で聞いたことがある。先生がそう話されていた記憶はあるし、知識としてはもっている。だからといって、それを「信用」していたわけではない。指摘されると思い出す、という程度の理解でしかない。典型的なテスト用の知識としてもっているだけだった。ところがこの本でyouの翻訳の例を挙げており、村上春樹まで含まれている。海外で何年も生活している人すら誤訳するのであれば、果たして何が正解なのかわからない。どっちも正しいような気がしてくる。 ともあれ、マーク・ピーターセンさんの本を何冊か読んでみようと早速アマゾンのページを開いた。 |
永井均さんの一般向けの哲学の本である。これまでに『翔太とインサイトの夏休み』をはじめ、子供向けのものや新書を何冊か読んだことがあり、ぼくでも理解できるような話を展開してくれるという印象を持っている。哲学者の教授の話というのは、意図的なのだろうけど、普通の人にわかってもらおうと言葉を選ぶ人はほぼいない。おれは偉い、という事を主張したいだけの人ばかりだ。ソクラテスは普通の人に向けて話したのに、いつも間にやら現代の哲学者は同僚たちにさえ話す言葉を持っていないようである。だからこそ、永井均さんのような人がいてくれるほっとする。 ニーチェのルサンチマンについて最初の100ページぐらい読む。なるほど、ふむふむ。「なんとなく」わかるし、多分だが、著者の話に付いていけた。第一章は読み切れた。 ところが、続く章はちょっと様子が違う。こりゃ論文だ。数ページをめくってみたが、「読むと面白そうなこと」がこの先待っているような予感が全くしない。読んでいる時点で面白くなく、この先も面白くないだろう文書を読むのは苦痛なことで、あっさりと放棄した。 最後の川上未映子さんとの対談を読みはじめる。川上未映子さんの作品をぼくは読んだことはない。彼女は哲学者と語るほどにインテリだったのか。すげーなーと思ってページをめくってみたが、正直ピンと来ない。がっかりして読み終わる。 |
実に遠回りな説明である。なにせ、1/3は本の話ではなく日本経済の話なのだから。大不況という単語は経済の状況を意味するから経済の記述があってもおかしくないが、著者は経済学者ではない。読者もそう思っている。だから読みはじめて大いに戸惑う。これって、経済の本だったけか? じゃぁ、その経済の話はつまらないのかといわっれば、そんなことは全くない。橋本治さんの理解を順に説明してくれるので、とりあえずは聞いてみようと思う。が、長い話になりそうだ。そう思って読んでいると、なるほど経済とはそういうことだったのかと感心するところが多くある。経済に疎い普通の人は今の条ッ今日をこう理解すればいいのか。専門用語、特殊な概念で煙に巻かれるということもない。下手にそんな単語を覚えると、自分でもわかった気になるところが怖いのだが、こほんは単語でななく状況を理解させてくれる。なるほど、この本は「あり」である。 大不況になると本が売れなくなるらしい。不景気だから本屋も流行らない。お金を使うもの全てが売れない。一般にはそう理解されている。 しかし、それはうそだろう。不況だろうが何だろうが、流行っている店はある。そういう店は「安くて品質がよい」ものを扱っている。食べ物でも洋服でも同じである。だから本だって同じはず。そもそも本は分厚い単行本ですら二千円しない安い商品である。文庫本は五百円以下のもの結構ある。それが売れないのは不況のせいではないだろう。問題は、本が面白くないことだ。あるいは、好景気でないと売れない本しか出版されていないことによるのだ。 一理ある考え方である。ところで、好景気でないと売れない本って何? 「いるんだかいらないんだかわからない」ようなものがこのカテゴリーに当てはまるそうである。本もそう。なるほど。でも、それって何さ? どんな内容のことだろうか。 橋本治さんによれば、本は「どう生きようか」ということを考えるときに読むものであるという。人生論だの哲学だの難しいことを言わないでも、いわゆる小説だって「どう生きるか」を扱っているはずである。となれば、大抵の本はこのカテゴリーに入るはず。経済状況によらず人は生きていくのだから、本だって景気によらずそれなりに売れるはずだ。となれば売れない理由は、どう生きるかに関係ない本が書籍売り上げの主流になっているからだ。 最近の街の本屋さんはスゴイことになっている。行きつけの本屋が決まっているぼくは、めったに知らない本屋には立ち寄らない。が、それでも待ち合わせのために時間潰しで小さな街の本屋に入る事がある。そして、寒気がするのである。書店に並んでいるのは雑誌と背表紙が白い本ばかりだから。 白い装丁の本は基本的に「実用書」である。何々の仕方。昔から定常的に売れるのだろう。いわゆる「知識」が本棚に並んでいると思えば良い。そして、そういう本は100%つまらない。こういう本を読んで「面白かった」などという感想を持つことはあり得ない。 もし多くの書店がこんな感じの品揃えだとしたら、なるほど出版業界は不況の影響を受けるはずだ。そして今後はますます斜陽化するだろう。ネット情報はただだから、品質をとわないようなやっつけ仕事のために実用本を買う人は減る。それにこういう本屋で本を買っても「面白い」ものに巡り合えないだろうから、「本好き」の人は育たない。となると、今後も本を買う人は減る。売れないからつまらない本しか出版されなうなり、さらに本を買う人が減る。こういうデフレスパイラルのなかにあるらしい。 しかし一方で、大型書店が近所にある人はそんな思いですむ。いろんな本を見て取れるから。とはいえ、最近の大型書店であっても例えば1Fの新刊展示の方法をみていると売れる白い装幀の本が増えつつあるようだ。ぼくのお気に入りだった八重洲ブックセンターも最近の展示替えでつまらな本が全面に展示されるようになった。本のデフレは本格的のようだ。 読む本の傾向を少しずつでいいから変えていこうかと思っている。この先の社会、お金がなくとも「愉快」で「学べる」娯楽は読書しかないから。生きている間は感動する機会を増やしたい。それには歴史に耐えた「良い本」を自分なりにしぼっていきたい。 |
教養があるとはどういうことか。 なんだ、そうか。そう言ってしまえばいいのか。歴史を知っていることだとか論理的に考え行動できることとだか、そういう知識やスキルに関係することじゃないんだ。「自分とは一体何なのだろうか」という普遍的な問いに答えに対する最適解のようなものじゃないか。 こんなことを知ったおかげで、知識があるとかないとかあるいは頭が良いとか悪いとかに対するコンプレックスが解消してしまった。 本を読む楽しさは、こんな気づきにある。そんな機会を持てることにある。だから、本を読んで勉強することに終わりはない。 |
英文の原著を読んでいて、その本の内容について続きが知りたくなっていたら、英文で本を読めてきたのだとある。ナルホドそうかもしれない。まず「英語」があるのではなく、内容に意識が向かっているのならば、伝達の手段としての英語はすでに消えている。つまり、道具と化したということなのだから。 そんな状態に達する一番良い方法は、とにかく英文を読むこと。この本のタイトルはそういう意図をストレートに表現しており、裏も意外性もない。直球の主張であるだけに分かりやすいけど、これで一冊作っていいのだろうかという疑問も抱く。英語は勉強するな、というようなタイトルを付けて売り出した本もあったが、あれは半分引っかけでだったので、この本のタイトルの方がいくぶん正直ではある。しかし、正直であるがゆえ、面白みがない。 本を読むという努力を最小限にしたいからこういう本を読むのである。そういう本に、とにかく努力しろという正論をぶつけても、読者の期待と内容がかみ合わない。読者としては、そりゃそうだろうよ、と思うだけである。皆さんこの本を読んで英語の本を多読するのであろうか。それはないだろう。言われんでもわかっているから。「なるほど、多読しなければダメか」と驚く人はあまりいない。物事で上手になるには数をこなすことが近道であり、それは経験則として大抵の人は理解しているからだ。水泳や陸上の本を新書で読んでも無意味であることを知っている。 そういうことを考慮しないこの本は、新説にも参考文献をリスト化して提示してくれている。使われている語彙やストーリーの面白さで推薦書を挙げてくれている。やさしい先生のような行為である。生身の人間でなければこういう教え方もありだろう。しかし、読者は現代人である。しょーもない人ばかりである。この本を読む人が、つまり新書を読んでいる人が、そういう地道な努力の指針を求めていないだろう。地道にできる人は学生時代にそれをやっているはずで、そういうことができない人だから新書を読んでいるのである。英語を含む外国語の本はかなり出版されているが、それが効いたという話を耳にしないのがその証左である。著者が悪いわけではないが、編集者のセンスが相当悪いよなぁ。 そう思っていたが、勘違いも甚だしいのは自分であった。この新書は子供向けであった。だから、数をこなすという必然を知らない人向けの本なのだ。だから、これでいいのかもしれない。いままでプリマー新書は、内容として年齢を問わないものが多かったのだが、この本はこの本の内容通りシリーズのコンセプトを直球で受け止めて書いたものなのだろう。 |
前作『スロー・リーディング』はとても良い本だった。読んだ本の冊数を増やすことに気を取られていたぼくには、目から鱗の本だった。本を読むとはどういうことか、今の読み方で何を見落としているのか。こういったことを教えてくれた。著者には感謝している。 次の考え方がこの本で一番印象に残った。どんな小説でも「メカニズム、発達、機能、進化」の四つの点にしぼって考えればいい。メカニズムと発達は、個人を対象として注目するべきことで、機能や進化は個人が集まった社会や集団を考えるときに着目するべき指標だというのだ。そして、メカニズムと機能、発達と進化は対象が違うだけで、やっていることは同じなのだと。 そんなことをうれしく思いながらこの本を読んでいたら、あっさり読み終えてしまった。ただし、それは必ずしも「良かった」と言う意味ではない。ぼくは、「四つの着眼点」以上に面白い箇所が見当たらなかった。だから、この本の評価は微妙である。 |
この本はしばらく前に読んでいて、この読書メモブログにエントリーも書いている。それなのにすっかり忘れて新刊でこの本を買ってしまった。内田樹さんの本に引用されていたから無条件で買ったのだ。まったく情けない。悪いクセがついたものである。 白川静といえば漢字の偉い博士。不勉強なぼくでもそのくらいは知っている。逆にいえば、それしか知らないのだけど。すっごく偉い人だ、では一昔前の高校生の解答だな。 日本人の考え方の根っこには「言霊信仰」があり、それが日本文化の方向性を決めてきたらしい。井沢元彦の著作を読んで少しは知っている。その言霊は音声である。同じような発想が古代中国にもあったみたいだ。言葉を漢字で表現し、それを神に捧げることで祈祷する。その紙を入れる箱が「サイ」である。 |
詩についての本をわざわざ購入するほどの文学への興味を持っているからではなく、「人類最古の文明」というのはおそらくシュメールだろうから、シュメールの詩について読めるのだろうかと思い衝動買いした。一冊のうち極一部をとても気に入ったので、全体的にはよしとする。詩についてのあれこれは、どうもぼくにはピンとこないのが残念。 さて、シュメールの詩はこんなものがあった。 人の楽しみに結婚がある ちょっと、お面白い。 腹がふくれるのは楽しいが これなんかもくすくす笑える。と当時に、やっぱりというか、都市に住んでいる人の生活というはかわらんものだと思う。これらは詩でもあるが、川柳という感じである。ないより、シュメール語(アッカド語?)を上手にトランスレートしている。訳者のセンスが光っている。 個人的な内面などを綴って芸術だとうそぶいているへ若い人の詩などは読みたくもないが、こういう人類的に普遍なものを直観でわかるような形式で言葉にしてある詩ならば大歓迎である。そういうモノはもっと読みたい。 ゆく河のながれはたえずして、しかももとの水にあらず。 こういう内容があり、形式におぼれれず、かつ日本語の音声パーサー(語句を切り取る機能)にやさしい(3,4,5,7文字の切れ目)をいれているエッセイのような詩が良いと思う。エッセイは論理で人を納得させるが、これは論理もあるのだけど、言葉の響きとイメージで感情から納得させてしまう優れた能力をもった言葉である。最後はこういう日本語をすらすらと書きたいと思うが、まぁ、その実現はどうでもいい。 |
漢字の成り立ちについて、白川学を小学生にも手が届く範囲で解説する本。文字の原形(金文体)までにもどって、それをイラストと併記することで印象とともに漢字のそもそもの姿をしることができる。なるほど、漢字が形成されていく過程には神との関係や軍事、そして、習慣など当時の中国の人々の考え方がモロにあらわれていて、現代の中国の人よりも身近に感じることができる。もっとも、言霊の重要性や占いの信用などは、現代に生きるぼくとは直接つよくは結びつかない。しかし、古代ならそう考えても不思議ではなく、ぼくもそう思って行動しただろうと思うから、漢字のもとつ妖しい雰囲気も素直に理解できる。 こういう本で漢字のそもそもの成立を知ってしまうと、旧字体のほうが新字体よりも合理的だとわかるし、そもそも「書き順」なるものがどの程度意味があるかを疑うようになる。どうせ、どこかのインチキな学者が文部省と手を組んで自分の権威を普通の人に広めるためにつくったのだとよくわかる。どうして、そういうものが今でも充満しているのだろうかとがっかりする。 自分としてできる範囲でいいから白川静から漢字を学び、それを使っていくように勉強し直そうと思う。漢字そのもに興味をもつきっかけになり、漢字を見るときに「味わい」を感じるようになれた。白川学への紹介本を作ってくれた人の感謝したい。 |
再び目からうろこの本だった。参った。この本のおかげで英語への理解が深まった。当時に、なんだかヒヤリングが楽になってきた気がする。これは気のせいではない。ヒアリングが楽になると、英語の読書も気が楽になった。ヒアリングとリーディングはつよく関係していると思う。おそらく、リーディングは黙読であってもぼくは頭の中で音に変換しているので、結局のところヒアリング能力が重要なんだろうと思う。 この本はアメリカで読んだ。夜寝れないので、深夜から明け方にかけて読んでいた。まったく、と思うけど、それでも「なんでこういう風に学校で教えてくれなかったのだろうか」と恨みを感じながら、また、この歳であっても読めて良かったなとも感謝しながら読んでいた。私の真の意味での英語の先生はこの二人であると思う。一連の本との出会いは幸せなことだったと思う。 何に感動したのか。それは実は単純なことだ。英語は単語を配置する言語である。ただ、それだけ。前から限定し、後ろから追加説明する。配置によって意味が生成される。これが、てにをはによって単語をくっつける言語との本質的な違いである。そんなこと、知っている。そう言われる人も多いだろう。でも、本当にしっているの? ぼくは知っていると思っていたが、この本を読んで「あ、わかった」と思った。だから、そういう人も結構いるのではないかと思う。英語は単語を置くだけで意味が生成される。TOとかATとINとか、そいうものがなくてもいいのだ。 気付きは大切である。英語は左から順番に意味が確定していく。だから、左から順番に理解していくことができる。だから、全部を記憶して、遡って理解する必要はない。だけど、英文和訳って、大抵全部よんだあと順番をかえて自然な日本語に訳させるが、あれがヒアリングの能力を妨げているなぁと思う。ヒアリング時に翻訳をしようとすると、いったん全部憶えておかなければならない。そして、一文が終了したあとに一気に翻訳し、次の文章をまた記憶していく必要がある。そんなこと、できわるわけない。あの和文英訳のクセがぼくの英語力を羽交い締めにしていたのだ。それに気付いた。左から順番に理解することができれば、憶える必要はない。左から限定、右は説明。その繰り返しで英語を日本語を経由せずして理解できるのだ。大発見だ。 なるほど。ぼくが英語を教える立場になることはない。とすれば、世の中の英語の先生、どうかこういう教え方を子供にしてくださいな。本当に、お願いしたい。でも、無理なんだろうな。 |
英語で論文を書かざるを得ないときに頼りになるのはGoogle。お金がないからNative checkなんて受けられないけど、だからといって英文に自信があるわけではない。むしろ、積極的に「ない」。この本に紹介されているフレーズ検索をぼくは多用している。丸ごと検索して、そういう文を含んだページがどれくらいあるか見てしまうもので、友人から聞いたときめからうろこだった。ためしに、"Is this a correct expression?" と "Is this expression correct?" とをGoogle先生に聞いて見たら、 http://okwave.jp/qa1755295.html というようなページがでてきて度肝をぬかれてしまった。やっぱりGoogleはスゴイ。 ぼくの場合は、「こんな英語あるのかな?」を試すときに丸ごとグーグルで検索する。ヒットする件数場多ければ多いほどありえる表現であって、そのページが英語圏のもならば信用できるだろうと考えるから。それは、この本と同じ。しかし、もしNativeの人が友人にいても同じことをするだろう。丸ごとその人に見てもらって、「これってありえるか?」と聞くのだろうから。 ただし、Googleには限界があって、それは「より適切だと思われる候補を教えてくれる」ことがないことだ。文法的に正しいかどうかを計算機が判定することはできるけど、言いたいことかどうかを判定することはなかなか難しいだろう。文脈についての説明がなされえていないからだ。言葉の意味は、その言葉の周りが決めているのだから、周りについての知識なしで、つまり文脈なしで、適切な言葉やフレーズを選択することはできない。まぁ、ちょっと人工知能の話にはいってしまいそうだから、ここでやめる。 それにしても、Googleに聞くと適切な回答を示してくれるのならば、それはチューリングテストをパスしてしまうようで、なんとなく本当にGoogleが先生に見えてくるかもしれない。 言葉の正しさといったものは、人々が判断する。どんな表現でも人々がそれを今日すればそのうち正しくなる。物理のような正しさなる型は存在していないのだ。ということは、もしGoogleのバグかなにかで、ある表現についての検索結果が多くでたりすると面白いことが起きるかもしれない。その表現は「正しい」とグーグルがいっているようだからということで使った本かなにかがベストセラーになり、一般化してしまうなんてことがあるかもしれない。 そんなことをぼやーと考えられたので、この本をとても気に入った。
|
司馬遼太郎さんの文章を読みたくなり、エッセイでも読もうかとぶらりと本棚を探していたらこれを手にしていた。日本語についての対談ならば面白いかなと。ところが読んで見たら少し想像していたものと違っていた。この時代の人はどの人も賢い(というか、知識のカバー範囲がかなりちがっている)ので、その対談が「なぜ、おもしろいのか」についてピンとこないところが想像していた以上にあった。これをつまらないというのだろう。本の善し悪しではなく、マッチングの問題なのだ。 普通の人が使える文章日本語を明治の頃の作家は工夫してつくった。情報伝達ツールとしての現代日本文章語を週刊誌や松本清張さんなどの小説が作っていた。一つのセンテンスには一つの意味しか担わせないというのは、これまでの日本語と真逆をいくことのようで、何気にこうしてメモをつけている言葉もその人たちの工夫の結果なのだなと思う。子供の頃から当然のごとく使われているものは、古代からあるものだと思いがちだから、新しい発見をしてしまったかな。 対談というのは、それが行われた当時の雰囲気なり問題なりを気付かないようでも反映しているのだから、数十年たつとピンとこなくなるようだ。対談は自分の年齢までの古さがよく、それよりも戻る場合は散文によるよりなく、できれば社会事情や社会の価値観を少しでも多く持っておかないと楽しめないようだ。 |
|
ソポクレス 要するに、短編のミステリーです。良くできた作品。そういっては、あまりにも失礼な感じがしますが、哲学も文学も芸術(演劇)も神聖視していないので、損直な感想を申し上げるとそうなります。昔、「走れメロス」という大宰の短編を読んだことがあると思います。セリヌンティウスが登場する話です。あれ、面白かったですよね。今読んでも面白いです。そして、ちょっとした教訓もある。それと同じような感じを受けました。 古典はまず脚注でやられてしまいますよね。うざったくて、先に読み進められない。この岩波文庫版は、日本語訳の面からも脚注の面からも、一般の人に親しんでもらおうと配慮されているようです。漢字もフォントの大きさも。これ以上読者に妥協すると、逆効果になっていまうような気がする。そういうギリギリの状態ともいえます。ここまで古典がすり寄ってきているのだから、是非読んでみるといいと思いますよ。 |
|
風間喜代三 悪い本じゃないと思うけど、よくわからないところが多いので困り者でした。いや、私が悪いだけなのだが。前半と後半とあって、前半は新書的に読めるし、エッセイ風でもあるので面白かったのだが、後半はちょっとついていけない。難しいというより、要するにラテン語を学んでいないし、文法も活用も覚えているわけないので、置いていかれた。通勤電車ではつらいです。ただし、ラテン語って、興味アリという動機付けにはなるので、トータルで考えれば読んで良かったと思います。 |
|
角川書店篇 古事記の現代語訳。さすがに「古事記」というものがあることは知っていても、内容までは知らない。日本の古典も1000年以上の歴史があるのだし、「知らない」というのももったいない気がしたのでこの本を手にした。なにせ、現代語訳ですから。 へんな名前の人が多い。でも、いくつかの物語は知っている。因幡の白兎とか、海幸彦山幸彦とか。イソップ物語と同じような道徳的な短編だと思っていた物語は、いわゆる大和朝廷の歴史の「流れ」の中に配置されいているトピックだと知った。ちゃんとした「編者」がいた。そんな事を知った。 古代とか現代とかいっても、一人の人間の歴史はたかだか100年に収まっている。古代の人が編纂した物語でも、現代人の私が楽しめるのか。もっと読んでみよう。そう、思わせる本でした。 |
|
金谷武洋 主語が鋭角に現れたのは、実は英語の歴史でも比較的最近なのだ。人間の意図が幅を利かすようにあったあたりから発展してきたのだ。非人称主語など考えれば、本来は主語などない表現が英語でも普通だったのだ。 著者は、英語は他の印欧語と異なり、言語をしゃべる人が攻撃的な性格になると言っている。それは、バイリンガルな子供が英語と別の言語を話すときで性格が豹変することがよくあるという一般的にしられた事実と照らし合わせて解説している。自己中心的で、すべてが「意識のもと」にあるという、アメリカ、イギリスのやりそうなことである。これらの国が、その言語を話す限り、地上からそういう人類がいなくならんだろうなぁ。 私はスペイン語やイタリア語が好きである。論理的なものを求めるのであれば、ラテン語がよい。一方で、「自分の行動とは関係なく、自然にそうなったのだ」という真理が下支えをしている日本語も好きである。そんなことをゆっくり考え直す機会になるよい本である。 |
|
金谷武洋 "映画館を出て「ああ、楽しかった!」という時、何を主語に選んでそう発話したのだろう。「映画」だろうか。「私」だろうか。” 日本語に主語はない。この主題について、前作よりも柔らかい感じで話をすすめる。上の文は「完全な」日本語である。何かを将来したり、砕けた悪い表現であったり、ということは全くない。ということは、日本語には基本的に主語はないのである。 主語をもつ言語は、何かが主役である必要がある。それが人である。そして、人が意図をもって何かを「する」。それが印欧語の文法の基本である。その関係をもとに「文法」を作り上げたのだから、主語・述語は必要なのであり、主語、述語が文法の柱になる。一方、日本語はそうではないはない。自分とは関係なく「ある」言語である。その説明が余すところなく、この本でなされている。 人が文章の主役ではないので、日本語には他動詞が本質的に「ない」。一方、印欧語では他動詞が多く存在する。場合によると、他動詞の目的語を自分自身(再帰代名詞)にして自動詞をつくることがある。これくらい、人間の行為中心の言語なのである。いやはや、英語は面倒である。 |
|
金谷武洋 すばらしいです。日本語には主語はなかったのですね。そもそも、主語、述語という文法のとらえ方は印欧語の研究から生まれてきたものであって、日本語の構造とは関係ないのですね。「(ヨーロッパの)文法では主語・述語がある」から、日本語にもあるはずだと仮定し、無理やり日本語の文法をねつ造しただけだった。そんなことが暴れています。もう、感動的です。 明治はあらゆる意味において偉大であったというようなことを司馬遼太郎さんが言っています。私もそう思います。だからといって、大槻文彦や橋本三吉に従う必要などないのですね。文部省が正しいと言っても、権威ある有識者が「日本語に主語がある」と言っても、「そもそもないものはない」のだから、アホみたいに付き合う必要ないです。日本語には主語がない。ないものはない。 日本語の基本文型は3つ。(1)名詞(だ、です)。(2)形容詞。(3)動詞。これだけです。英語みたいにSVCなどのS(主語)は必要ないのです。これが、どこまで理解できるのか。 このような論理の展開は、愉快といえますね。今までずいぶんとくだらないものに付き合って文章を書いてきたのかと思うと悲しくなります。論文を日本語で書くときに、無駄な努力をずいぶんとしてきたのだと思いました。 |
|
サイモン・ウィンチェスター 英語の辞書の創製に関わるストーリー。オックスフォード英語辞典(OED)はどのような経緯で誕生し、どのような人が関わったのか。その中でびきり面白いエピソードをつまんで本にしていある。が、この本は半分でいい。無理に話しを延ばしすぎる。内容をかくとネタバレしてしまうので多くは語れないのが残念。 OEDクラスになると、百科事典をかねれているような気がする。大英帝国というのは、ブリタニカだのOEDだの、時間を資金が必要な事業をいくつも成し遂げている。こういうところは覇権国家だとつくづく思い知る。 |
|
風間喜代三 印欧語の故郷を探る。印欧語が文明の始まりとどう関係あるのか。そんな疑問を持ったので読んだ。 言葉の使い方で知性を計ることができる。そう考える人には印欧語がどこで発祥したのかを知る必要があり、そして、ドイツ人はそれがヨーロッパではなくゲルマンである必要がある。そういう争いのようなものまで読み取れる。ゲルマン民族は優れている。ナチを後押しするかたちで印欧語の故郷探しが変遷し、反対論をとなる学者が消えていくさまが記述されている。もちろん、そればかりではなく、歴史や考古学の裏付けを求め、純粋な疑問を追求する立場の著者の見解もしめさている。しかし、印象にのこるのは、20初頭のドイツの人たち、インド・ゲルマン語といまだに主張する人たちのメンタリティーである。 この本を読んでいて、科学に対する姿勢について考えてしまった。仮説を立ててから証拠を探す、実験を行うという姿勢には、「見つけちゃったもの」に対する真摯な態度が必要だということ。不利な証拠は「見ちゃったら最後」ではなく、「みちゃったら、それを高らかに示す覚悟はあるか」という気概をもてない人は、科学をやると迷惑をかけるということだ。みたくないデータをどう扱うのか。学者というのは、自分の意志よりも感覚よりも、この態度を大切にする人でないとまずい。また、ナチのようなことをして、多くの人に迷惑をかけることの片棒をかつぐことにもなるのだから。 |
|
風間喜代三 比較言語学の成り立ちを解説しています。言語学が成立したきっかけ、その後の動きをまとめてあります。おそらく、この分やの勉強を始めるか、ある程度勉強したあとで自分がやっていることの歴史的な成り立ちを知りたいと思った人には最適な本でしょう。逆に言えば、言語学と関連が薄い私には「そこまで知らなくてもいいです」という気もします。 インドヨーロッパ語族ということば、世界史をやると必ずでてきます。私は違和感をもったまま通りすぎましたが、単語だけは覚えていました。シナントロプスペキネンシス、という言葉と同じような「扱い」でおわりました。そういう人種がいたのだろう、きっと。これが勘違いだということがわかりました。 あることを勉強すると、その対象のそもそもが知りたくなります。知っていくと、そもそもを問いたくなります。結局、歴史の始まりに行き着き、ある種の感慨をもって想像するよりなくなります。文系でも理系でも同じでしょうね、きっと。 |
|
小林標 ラテン語についての紹介。「そもそも」論。言葉の由来、単語の由来などが紹介されている。英語なんぞ、ゲルマンのアングル族のものではないか、という気分になれる。 なぜ、α、β、γがa、b、cになるのかよくわかった。γはGに対応するのにCなのはなぜか。KやQと機能が似ているのはなぜかがわかった。普段「そういうものだ」としていたことが、なぞときのように理解できるものだ。結構楽しい。 「赤毛のアン」がラテン語にぶつくさいっていたことを思い出す。非常に難しいものなんだろうと思っていた。たしかに覚えることがたくさんある。しかし、それは「形式=意味」を保証するための「システマティックな方法」なのだから仕方がない。動詞や名詞の変化は、プログラム言語以上に「WELL-DEFINED」な感じがする。合理的を言語で表現すれば、ラテン語のありようといえるかもしれない。 ラテン語をもっと知りたい。そんな気にかりてたててくれる本。 |
|
白川静 甲骨文字から漢字の由来を教えてくれます。いわゆる象形文字の原形を提示し、それがどんな意味をもち、それがどう発展していくのかを見ていくことができます。本当に、象は象なんだ。そんな楽しい気分になれます。 漢字といえば、部首や旁(つくり)ごとに意味があり、それを配置、構成することで一つの別の意味を持たせるものだと和私は理解していました。例えば、草冠があればそれは植物に関係があるとか。しかし、実はそれだけではないらしいです。本来の字形をさぐっていくと、たまたま変形されて、整理されていくうちに「草冠」ようなものができたのだと。そして、この段階で漢字が持っていた本来の意味をうしない、草の仲間という後付けに意味が付けられてしまうのだと。後から考えだされた理由の方がもっともらしいですが、しかし、その文字の由来は単純ではないのです。 |
|
白川静+梅原猛 白川静という先生の本に興味をもっています。漢字の先生ですよね。とくに、象形文字について著名ということです。しかし、私はどうも漢字や中国史については詳しくないし、興味ももてないです。三国志すら読んだことがない。とりあえず、梅原猛さんとの対談ならば取っ掛かりになるだろうと思って読んでみました。 甲骨文についての記載がおもしろいです。なにやら遺物らしき骨に、筋がたくさんついている。それをよくみると「雨降らんか」って書いてある! 久々に驚きました。本当に象形文字って使われていたのだ。しかも、すごいシステムなんだ。かなり賢い。私はこういう「工夫」にはとてももろい。涙ぐむくらい感心してしまうたちなのだ。 |