「ゴッホ」にいつまでだまされ続けるのか
そうなんだ。 いろいろな証拠を示して「だから贋作ですよね」という論理でその所有者に同意をもとめても、「そうですね」なんて認めることはない。 ただ、この本では贋作と判定するときの根拠をきちんとしめしているし、ぼくにはその道筋は「なるほど」と理解できるものであった。 夏休みにでもゴッホ展に行こうかと思っていたが、そんなものはやめて別の展覧会にお金を使うことにした。 |
そうなんだ。 いろいろな証拠を示して「だから贋作ですよね」という論理でその所有者に同意をもとめても、「そうですね」なんて認めることはない。 ただ、この本では贋作と判定するときの根拠をきちんとしめしているし、ぼくにはその道筋は「なるほど」と理解できるものであった。 夏休みにでもゴッホ展に行こうかと思っていたが、そんなものはやめて別の展覧会にお金を使うことにした。 |
この本のタイトルは少し大げさだろう。「真実」というほど何かをつまびらかにしていないし、「読み解く」というほど図像を解析していないからだ。旧約聖書学者である著者が、新約聖書のプロットをネット閲覧できる絵画を用いて解説し、新約聖書の「トンデモ度」をおちょくる本という紹介が一番ぴったりな感じである。なので、真剣にキリスト教と向き合っている人には腹立たしく感じる内容だろう。でも、普通の日本人に対してならば、面白おかしく知識を獲得する手段であろう。 著者は聖書に書かれた物語のおかしなところをいろいろ挙げてくれる。「信じる」ことからほど遠い人である。学問対象として聖書を選らんでいるからだろう。キリスト教とは無縁の育ち方をした日本人の感覚に近い解説をしてくれる。なので、それはそれで普通の日本人からみればありがたい。 しかし、それではなぜ聖書を研究するようになったのだろうか。研究の動機は興味であり、もっといえば、好きだからというのが普通であるし、また素直なものである。好きでもないものを探究するなんて、もっと言えば自分がおちょくるような本を研究するなんてことをどうして始めたのだろう、その必要があったのだろうか、不思議である。きっと勉強しはじめたときは好きだったが、勉強していくうちに「聖書」が形成されていくプロセスとその人間臭さのようなものを十分に知ってしまい、とてもじゃないがやってられなくなった。そういうところだろうか。 西洋絵画のうち、名画と評価されているものは聖書の物語を題材としているものが多い。とくに中世から近代までの長い間、絵といえば聖書物語の一シーンといってもいい。となると、名画を観ると女性と子供が主役なのが意味不明であるはずだ。キレイな女性は絵になるが、この子供はちっとも可愛くない。西洋人の子供は可愛くないものなのだろうか、と疑問が湧いてくる。実際ぼくはそう思っていた。 わけわからない状態で絵を見続けるのは辛い。だから、絵画なんてつまらんと思ってしまう。だからだろう、日本で名画といえば「印象派」に限定されてしまう。これならばキリスト教の知識ゼロでも楽しめるからだ。 でも、それじゃぁもったいない。絵画はその意図することを知ることで、味わいが増す。 とはいえ、聖書をゼロから読んでもピントこないものである。というのは、信じる人たちに向けて書いている本を普通の人が読んでいくと、突っ込みを入れたくなる箇所ばかりでとても読み続けられないからである。 ならば、絵の解釈に必要な部分の聖書物語の解説があればいい。著者である秦剛平さんはそういうコンセプトでこれまで何冊か著作を出版している。それらを読んだが全部愉快なものだった。しかも山本書店の翻訳本がある人だから信頼度は高い。 この本も面白いだろうなぁという予想を持って読んだのだけど、どうだろう、もうひとつだった。新約物語の進行に合わせて、重要なシーンを挙げ、それの解説を行っているというスタイルは以前の本とかわりない。また、物語全体からみた各シーンの矛盾点などをきちっと?おちょくってくれている。それでも、なにかが足りないのである。はて、どうしてこの本はもうひとつなのだろうか。 多分だが、『美術で読む〜』という以前の著作をぼくが読んでいるからであろう。つまり、この本はそれらの焼き直しの要素が多いからだと思う。「しってるなぁ」「聴いた事あるなぁ」というところが結構あるのだ。そして、決定的なのは、秦剛平さんのカルチャースクールでの講義をぼくは聴いていることだ。そう、この本はその講義での話題を再構成してまとめたようなものなのだ。だから、面白いはずない。というわけでこの本は秦剛平さんの著作を全く読んだことがない人にお勧め。 |
十月に休暇をとってフランスへ行く。目的地は古代ローマ遺跡であるポン・デュ・ガールの大水道橋。とはいえ、当然パリ市内をうろつく時間もとってある。ルーブル美術館で何日か過ごすつもりである。ならばガイド本が必要。 大きな美術館や博物館で長い時間を過ごすのはなんとも幸せなひとときである。贅沢というもの。とはいえ、ヨーロッパに行くと実際には時差と疲労とで思ったより楽しくない。これまでの経験からそれを身にしみてわかっている。しかし、そこがどのくらい「良い」美術館なのかで帰国後に旅行を思い返すときに違いがでる。全く何も憶えていないのか、それとも不思議と細部が思い出されるのか。 ロンドン大英博物館には合計二十四回、ロンドンナショナルギャラリーへも二十回くらい行った。そして、そこで過ごした思い出は大げさではなくぼくの一生の宝になっている。思い返せばそれだけ楽しめるし元気がでてくる。実際に滞在した時間以上の時間、思い出がぼくを励ましてくれる。ならば今度のルーヴルもそれらと同じくらい実りのあるものにしたい。 広い博物館は急ぎ足できょろきょろしてしまいがち。しかもあたふたしたわりにはなんにも記憶に残らない。そういうのは避けたい。オリエンテーリングではないのだから、有名な作品の前へ行く事やなるべく多くを見る事などが目的ではない。気に入りそうなものの前で長い時間を過ごせばいい。なるほどなぁ、これはいいかも。そう思う時間を持てれば持てるほど結果として一生ものの思い出が持てることになる。 ではぼくはルーブルで何を見ればいいのか。モナリザやミロのヴィーナスという超弩級の一品もよいが、その他にもいろいろ見た方がいい。「見てきたよ」という事実を他人に誇ることなどどうでもよく、あくまでも作品に感動できればいいのだ。広いルーブルで何に注意すればいいのだろうか。そんなことを考えながらこの本を手にした。 結論から言えば、なんてことはない楽しめばいいんじゃないのか。そもそも著者にガイドしようという姿勢はない。この人は自分なりに写真をとって、絵をみて、なにか面白いものを探しているだけである。ここを見なければ、などという気負いはまったくなく、単にルーブル内を「ぶらぶら」しているようである。 いやぁ、ルーブルなんでまた来れるよ。そう考えてへんな「気負い」を一掃したほうがいいみたいだ。とはいえ子供のようには観賞したらダメ。子供達が美術館で何をやっているのか眺めると、楽しんでいるだけである。もっとも、彼らは(やっぱり)何も見ていないので記憶には何も残っていない。それじゃね。 ということで、この本では何がどこにあって美術館はどういう雰囲気なのかを知っただけで目的を達成できたと思うことにした。ぼくはぼくなりルーブルの中をぶらぶらしてみよう。 |
安野光雅さんの画集なのだが、全体を透して描かれているエッセイというか説明というか、ベネチアでのことなどの文章がさわやかで、絵を見ながらちらちらと読んでいくのがとても快感だったので、この本もメモとっておくことにした。 安野さんの絵は淡い水彩画で、鉛筆?の下書きの線がふわふわしているところに置かれている水彩の淡い色合いがなんともやさしい。こういう水彩画ならば描けるかもなどと思って真似をしてもとても無理なことは、素人であるがぼくが自分で試して知っている。 安野さんの文章はといえば、気取らない調子で現地でのちょっとした思い出が書かれていて、まるで安野さんが椅子に座ってこの絵を写生しているときに、その横に立って話を聞いているような気分になれるものである。絵を描きながら話すことならば難しいことや面倒なことや嫌な気分になったことなどが一切話されない。この絵につけるには一番あった文章である。 とくにいいなぁと思ったのは塩野七生さんの『海の都の物語』からの話。安野さんはこの本をずいぶんと読み込んだそうだ。滞在先のホテルで忘れたこともあるが、そのたびにあたらしく買ったとか。 ぼくもヴェネツィアを訪れたとこがあるので、絵を見るとヴェネツィア独特の雰囲気とうか空気というものが思い出され、ページをめくりながら自分の楽しい思い出の中をぶらぶらと歩いているような気分になれた。 古本で150円程度でこの本を買った。ここ最近あった良いことので一番である。 |
八重洲にあるブリジストン美術館によく行く。年間パスポートがお得で、ほぼ毎週末立ち寄っている。喫茶店でお茶を飲むのと同じ感覚で絵を眺める。コローやモネの絵は眺めるだけで気分が楽になる。ルオーの絵は不思議な魅力がある。これといって何をすることもない休日の過ごした方としては最も気に入っている方法である。 この本はブリジストン美術館で購入した。ぼくは美術愛好家ではないので、全国を渡り歩こうという思いはない。それでも数は少ないとはいえ、過去何度か出張したおりに各地の美術館に立ち寄った経験はあり、良い絵は意外なところにあったすることを知っている。へぇ、こんな絵があるんだ。そんな驚きは意外に面白いものである。箱物の一部としてバブル期に購入しまくったのだろう。この本は、そんな美術館にある絵をピックアップした紹介の本である。 どのように絵を見るともっと楽しくなれるのだろうか。普通の人はその方法を知らない。ぼくもそう。そもそもそんな方法があるのだろうか。書名よりも著者を見てこの本を手にとった。赤瀬川原平さんならば教えてくれるかも知れないなと思ったのだ。 ざっと読んでみた。赤瀬川原平さんがどうしてこの本で紹介される絵を好きになったのかについて教えてくれる。絵画の知識や技術を理由とせず、かといって理解不明な感覚にたよるわけでもない説明。なんとか普通の人が理解できそうな、絵の中での注目点を提示するという方法である。とはいえ、果たしてそれが成功しているのかといわれると、もうひとつの感がある。少なくともこの本を読んだことが理由でこれらの絵に興味を持つということはないのであろう。 絵画の紹介。赤瀬川原平さんですら成功しない試みならば、おそらく不可能なことなのかもしれない。絵をみて、それをどう面白いと思うのか。そんなのは自分で考えるか感じるかしかない。感じ方にまで「正解」があると勘違いしてしまうところに問題があるわけだ。 紅茶の観賞の仕方などあるわけない。あったとしても人によりまちまちで、多くの人が納得するものはないだろう。ある人が推薦する方法を他の人は絶対にやってはいけない方法とするかもしれない。人によって似ているところもあるが、正反対のところもある。ならば、方法というものが人から離れて存在するはずはない。良いも悪いもそれは方法にたする評価ではなく、人の感じ方の説明でしかないわけである。 絵をどう見たらいいか。それも同じ。知識をつかって解析してもダメということは確かに思える。たくさんの絵を見ないとまとまった意見なり評価なりをするのは難しいだろうというところも同じ。 |
岡本太郎さんのしゃべりは長嶋茂雄さんと同じようなものだから、言葉が表現手段である著作は読めたものではないだろうと思っていた。が、読んでみるとその語り口はいたって分かりやすく、知性を感じられるものだった。 普通の人が抱く岡本太郎のイメージは、晩年のテレビCMをみた映像作家たちが、偉大な芸術家の偶像として作り上げたキャラクターを演じさせていたのかもしれない。なんだ、ちゃんとした、立派な人じゃん。 この本では、岡本太郎が若くして留学したフランスでの経験を語ったものである。芸術とは何か、どんな芸術に感動するのだろうか。そんな芸術の対象としての絵画に目覚めた様子と、その街で出会った真の芸術家像であるピカソについて語っている。 絵画に感動して涙を流す。そんなことあるのだろうか。よくわからない。絵を見てすごいなぁと思ったことはぼくにもあるが、涙を流したことはない。岡本太郎さんも初めはそうだったようだ。 フランスのルーブルでみたセザンヌに感動し、いいなぁと思ったのが始まりだそうだが、涙を流して歩いて帰ったのは、ある画廊にあったピカソの絵が原因だった。 ピカソの絵が名画だといわれるが、一方で普通の人が名画だとは思わないだろう。岡本さんの解説を聞いても、なるほどそうかもしれないが、だからといって自分もピカソを好きになってしまうことはない。 どうしてそうなのか。その理由をぼくは知っている。体験として知っているのである。それは、どのくらい絵を見たのかである。つ多くの絵を見ると自然と「カテゴリー」分類するようになる。単純には好き嫌い、いい感じ、もうひとつ。そいう感情的な反応が集積して、自分なりに「良い悪い」という判断基準ができあがる。そして、自分の経験のなかで見ることができる絵の種類は限れているので、でき上がった判断基準も限られることになる。そこに、これまで内容な絵を見るとどうなるか。判断ができない。どうしていいかわからないという混乱が起きる。その混乱を勘違いすることで、感動になる。 まぁ、そんな見解はどうでもいい。岡本太郎さんの言う芸術とは、おそらく泣いてしまうようなくらい感情を震わせるものなのだろう。おそらくそれは、美ではない。そんなことをぼやっと思った。 |
秦剛平先生の新刊がでたので迷わず購入する。この一連のシリーズは、朝カルの講義が元になっているらしく、どの本のあとがきにもそう書いていある。チャンスがあれば是非講義を直接聴きたいと思っていたのだが、金曜日の講義ならば上手に年休をとることで受講できることに気づき、昨年無理してとってみた。そのときの講義ノートがベースになってこの本ができているようだ。これまで秦先生の話は本で読んでいただが、この本の内容(旧約聖書外典)は、本よりも講義の方がおもしろかったと判断する。うん、だから無理して講義を聴いてよかった。だからといって、この本がもうひとつというわけではないのだけど。 それにしても、現代でも西洋社会の根底にある聖書の話は、ほんとうに信者に都合がいい話しばかりで、知れば知るほど困ったものだとこぼしたくなる。この本の範囲は、旧約の外典だから、キリスト教の人、例えばブッシュ元大統領の行動にはあまり影響しなかったと思いたい。とはいえ、旧約についてもべったりと読み込んでしまうキリスト教徒は今でもたくさんいるし、信仰のためなら他人がどうなろうとも問題ではないという人も大勢いるんだろう。 これまで多くの人を魅了してきた?聖書をつらつらと眺めていると、良い本の条件ってなんだろうかと疑問になる。本は結局のところ言葉である。言葉なんだから事実ではない。とすれば、言葉で述べられたことは「情報」になるか、感情を動かす「詩・物語」になるかかのどちらかの形で人に作用する。過去の出来事、現在の出来事、教訓、命令などは情報である。叙情詩、叙事詩、小説は感情を揺さぶるものである。この指標で判断するとしたら、旧約聖書、とくに外典の価値はどのようなものか。 あ、忘れていた。西洋絵画に「何が描かれているのか」、「どうして描かれているのか」などの動機を知るためにも、知識は必要だろう。そして、そのために普通の人は秦先生の講義を聴くのが一番良かろうと思う。 |
養老孟司さんの推薦文が帯にあったから衝動買いしてみたのだけど、あまり面白くなかった。著者は美術専攻の人で、後に医学博士をとったようなので、骨格についても美術についても玄人なのだけど、どうも説明方法が気になる。知識やその人の見方についてどうのこうの言いたくなるのではない。単に、「というのは私だけであろうか」的な表現が随所に見られ、心の底にあるであろう「私ってすごいでしょう感」が放つ嫌み感が目立っているのだ。編集の段階でもうちょっとどうにかならんもんなのだろうか、と思うのだけど。それが気になると、本文中随所にみられる「〜に携わった経験から」の発言にもちょっとヘキヘキしてくる。単純な「根拠の提示」であればいいのに、ある種の自慢臭がとれない。総じて、この手の本は他にもあるのであえてこの本を読む積極的な理由をぼくは見出せなかった。有名著者の推薦文の判断でついつい買ってしまうことで失敗することは多々あるし、多くの場合、それで面白い本に巡り合える。だから今後も止めはしないのだけど、それでも失敗すると結構哀しい気分になる。 |
山本書店の本に、先史時代の洞窟の壁画についての本がある。別の山本書店の本の後ろに宣伝が載っていて、なんだか気になったので購入した。日本の古本屋で1500円だった。届いた本は、カバーこそ付いているけどまさに「古本」という感じもので、神経質な人ならば手にとらないだろう。もっとも、ぼくは全く何ともないが、ベッドの上で読むにはどうかなと思うかな。ただし、本文には書き込みなどなく、読書にはなんの問題もない。こういう本でも1500円で売れるんだなぁ、ぼくは買うけどね。とまぁ、久々に古本の不思議さを感じた。 |
本屋のレジ近くの平済みコーナーに置いてあった。最近は建築関係者や建築が好きな人という建築に興味を持っている人以外にも安藤忠雄の知名度が上がり、安藤忠雄の名は芸術家としてマスコミに登場することが多くなっている。出過ぎな感もあるくらいだ。 |
極東ブログで紹介されていた一冊で、そのままアフェリエートのリンクをクリックして購入してしまった。その書評で何が書かれていたのか、実は覚えていない。この本は読む、と感じたので書評は見なかった。自分で読めばいいから。 本を読むときにガイドラインがあると助かることがある。プロの書評家のものより、普通の人のもののほうがよい。あえて紹介する必要もない本について語っているほうのが信用できる。一文の得にもならないのにわざわざ文章におこして語ってくれる内容のほうが信頼できる。もっとも、それが誰でもいいというわけではないけれど。その点、この本は極東ブログで紹介されている。読む価値は十分にあるだろう。
この本を読んでいるときも、学者と棟梁との意見の違いでもめるようなところをつい探してしまう。学者ってのは、自分じゃなにもできんのになぜ自分を信用できるのだろうか。役所は大抵学者の見かたで、結果的に棟梁がこっそり学者のアイデアのダメなところを補修するということが書かれている。現場でやっている人は、現物を相手にしているか誤魔化しがきかない。役人や学者は、適当に誤魔化す人生しか送っていない。結果的にどちらが長生きするかは明らかなんだけど、世の中はダメな方法を選択する。不思議な気がする。 なんでもそうなのだが、現実に接地している人が強い。アイデアは大切だけど、アイデアをきちっと現実につなげて、価値を計っておく必要がある。アイデアは人の頭の中で実行され構築されるけれど、現実のものは現実の世界で実行され構築される。実に単純な違いを、どうして気付かないのかと不思議に思う。
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永沢まことさんの水彩画教室。読むというよりも、見るために買って、通勤電車で眺めていた。普段見慣れているような場所が劇的な花のスポットとして描けてしまうのだと、固まったように見ていられる。座っている時間も忘れ、気付くと乗り換え駅についている。朝からいいものを見た、疲れて帰るときには元気のもとになる。軽くて紙が柔らかいので、普通の画集を眺めるよりもずっとよいと思う。 永沢さんの絵を見ていると、自分でも描けそうな気がしてくる。で、実際書いてみる。水彩画って、面白い。薄く色をつけていくだけならば、かなり綺麗な仕上がりになる。それが自分の絵だから満足できるのだが、他人から高い評価をもらえるような絵ではない。それでも、楽しい気分で我を忘れることができる。永沢さんの教本は、どれでもとてもやさしい。おそらく、自分自身が心底楽しんでいるからだろう。日本人にありがちな「道」を追求するという態度からは遠く離れている。 海外の風景の絵をみると、その場所へ行って見たくなる。しかし、そう簡単にはいけない。しかし、花の絵ならば、季節さえ合わせれば近所でも咲いている場所があるものだ。週末に気軽に行けるような場所だ。この気楽さは、何度も見返そうという動機になるので、本としては「買い」だろうと思う。 |
名画の鑑賞には知識が必要だと言われる。ヨーロッパの芸術って、キリスト教を知らないとピンと来ない。綺麗な絵だからということで興味を引かれることもあるが、でもそれならば日々の生活の中で出会うグラフィックアートやイラストあるいは漫画のほうがずっとピンとくる。それが普通の人の実感ではないかと思う。 それではもったいない。単に「綺麗かどうか」「面白かどうか」を頼りに西洋絵画が製作されてきたのではない。アーティストが自分の表現を行えるようになったのはほんの100年ちょっとなのだ。ちょっとした知識があれば絵の味方が変わる。もっと楽しくなる。そのためには、以外に思うかもしれないが、読解力が必要なのだ。それは、なぜか。 西洋の芸術は古代ギリシャに始まる。古代ギリシャが古代ギリシャなのは、精神活動のうちの理性を全面にだしてきた結果である。哲学から始まる「理性的」な活動に単を発しているギリシャ芸術と向き合うには、感情(あるいは感性)よりもむしろ理性による読解力が必要とされる。それは、ごく自然な話なのだ。この本は、このラインにそって絵画の歴史を紹介する。 そういう内容なのだけど、カルチャースクール的な内容だけで正直面白くなった。若桑みどりさんの方がよっぽど面白かなぁ。 |
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齋藤清貴 デジカメに興味をもった普通の人に向けてのメッセージ集として読める。技術のおかげで素人の人でも楽しめるカメラがたくさん市場にある。そうはいっても、シャッターを押しただけでは自分もうれしくなるような写真はとれない。知っている人に聞こうにも、プロの知り合いなどいないのが普通で、素人の先輩に聞く事になる。しかし、先輩はカメラが高価な時代から投資している人が多い。自然とオタク的な人になる。一昔からつづくPC好きの人と同じで「おれ様」見たいなのしかいない。さて、独学で上手になるにはどうしたらいいのか。こういう状況にある人は多いでしょう。 今のデジカメならば、内蔵コンピュータが写真技術をサポートする。それに、構図だのなんだのいうのは美的センスなので、長い時間かけないと獲得できない。となると、必要なアドバイスは体を動かすだけでできるちょっとしたこと。この本はそれをずばり指摘します。的を得ている。 じっくりと時間をかけて構図を考え、決定的な一枚だけをばしゃっと撮るなんてことをしていたら面白い写真は撮れない。フットワークよく、気軽にたくさん撮ってみる。その中の一枚が気に入れば、それがあなたの傑作となる。 なるほど。同じものをいろんな角度から撮ってみる。で、実際やってみる。構図なんて現場で判断できないので、ばしゃばしゃ撮る。体を動かしていろんな方向から撮る。すると、偶然よいものが紛れることがある。それが、プロでない人が良い写真を狙う方法だと。 この著者の簡単な略歴とスランプの経験が最後に紹介がある。いろいろあったようだが、要するに好きで写真をとらんでどうする、というメッセージに読めた。普通の人はプロではないので、好きでもなかったらまさに写真なんぞとる必要はないし、それで困らない。それでも撮るのだからそもそも遊びなのだ。そんな人でも上手になるには撮るよりない。 撮るときにいろいろ考えちゃって、枚数撮らない。そして、撮った写真をろくに見ない。もちろん、写真集も見ない、Flickrもあまり見ない。これでは上達しようにも不可能かもしれない。何かをするときに、何を持ってよいか悪いか決める基準は自分に中になければどこにもない。生まれつきには無いので、数多くの中から気に入ったものを見つける。そんなことを読んでいて思う。 そういう心構えみたいなものだけでなく、現実的なアドバイスもある。ホワイトバランスとストロボ、画角に関するTIPSだが、すぐに試せる簡単なものになっている。それでも、マニュアルから読み取れないようなアイデアだと思う。 |
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秦剛平 あれ、この間新刊がでたばかりなのに、また出ている。しかも美術のコーナーに。手に取ってみると、また「挑発的講義」と帯に書いてある。早速購入。 旧約聖書のトピックスを有名な絵画をつかってお話してくれる。絵画といっても「何を表現している」とかそういう知識を授ける系のものではなく、トピックの挿し絵として使っているだけ。要するに、旧約の話だと思って間違いない。ただし、そこは秦先生、有り難い話とか聖なる話とか大切な教訓なんかを見いだすのではなく、古代の娯楽もなにもない時代の「民話」として旧約を説明してくれる。最近出版される秦さんの本は、だんだん「ぶっちゃけ」トークが強くなり、いつか消されそうな気がするので心配なのだが。 ふざけた意味ではなく、旧約は本当に「民話集」なんだということが分かります。なぜそれが「聖なる」ものに転化するのか、なぜそれが「道徳」の規律本(教訓を分かりやすくした本)になるのか、まったくもって不思議です。しかも、内容は冷静に考えるとエロい。紀元前なのですから、人の娯楽なってなかった。お話が娯楽だった。だったら、この類の民話が普通大切にされます。だって、他にないんですから。七十人訳でもなんでもいいですが、文章通りよむと放送禁止になっちゃう内容です。どうやって、この話で説教のタネ本にするのか不思議ですね。 ヨーロッパ文明の基幹をなす資料です。その基幹について、かれらは深く問わないで生きてきた(あるいは目を背けてきた)ことがよく分かります。なるほど、ダ・ビンチならば馬鹿馬鹿しくなるでしょうね。そう思って、ダ・ビンチの絵なり発明なりを見ていくと、なんとなく驚嘆と同時に同情したい気分になれます。 |
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pen編集部(編) 佐藤可士和。正直知らなかったのだけど、彼の作品は知っていたなぁ。「クリエーター系」の人って、俺様的なところがあるから好きじゃない。とくに、グラフィック・デザインの人は。プロダクト・デザインなど「質量があるものを相手にしている」人は、現実と常に向き合っているから信頼できるのだけど。ただ、書店で平済みされている本をみて、ぺらぺらとめくったらユニクロのデザインの話があって、嫁さんに「佐藤可士和って有名?」と聞いたら「有名だよ」といわれたので購入してみた。 この人のバックボーオンはグラフィックのようだけど、ブランディング(一つのイコンから何を想起させるのかをデザインする)やコンセプトデザインが得意なことが分かった。というか、ブランディングとは何かという一端を知ることができた。すごいですね。ユニクロのニューヨーク店全体の企画などよりも、明治学院大学のブランディング、幼稚園のコンセプトデザインなど、すっごい仕事をしている。「あれ、いいやぁ」と思わせる物は単におカネを投入すればできるものではなく、背後にこういう人がいるかどうかできまるんですね。 ロゴの威力も想像できた。コンセプトがかまれば、それをイコンに集約させるためにロゴを作る。そして、コンセプト全体のタグとして言葉のかわりにロゴを使う。それを見る人は単にマークを見るのではなく、コンセプト全体として認識している。そういうものなんですね。 この人スゴイって、おもうところは、佐藤さんは自分で「デザイン」ができてしまうところ。美大をでているのだから、そうだろうとは思うけど。ステップワゴンのイメージ(あのカラフルな手書きのStep Wagonという文字)は、あの人が描いた。文字通り、自分で描いた。全体デザインをやる人って、いざとなれば「自分できる」というところが「非常に非常に大切」なんだけど、それができている。口だけの人ではない。そういうところに痛く感心しました。 |
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磯崎新・安藤忠雄・藤森照信・伊東豊雄 ひさびさに建築についての本を読んでみた。といっても、建築家の素養がない私は建築家の話を聞くだけのだが、それでも昔憧れていた職業の雰囲気を取り戻すことができるので休日には持って来いの本である。磯崎新を初めとしてこの4人は素人の私でも知っている有名人なので、ちょっとうれしい。 内容だけど、キャラクターって変わらないなぁと納得してしまう。磯崎さんや安藤さんは相変わらずキャラも発言内容も表現方法も7,8年前に建築に興味をもっていろいろ本を読んでいたときと同じである。「住宅は建築なのか?」なんて、磯崎新しか大声で言いそうもない気がする。この講演はプロの卵宛てにしてものなのだろうとは思うが、それにしてはちょっと物足りない感もある。もっと思想のようなものを語ってくれるといいのになぁ。 |
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トム・ケリー 発想する会社につづく第二段。働くのがすっごく楽しそうなIDEOという会社の中で考察された、「イノベーション」なことをする組織の分析。こんな人が必要なのだという人のタイプを10に分けて、どうしてそのような人が必要なのか、実際どのようなことがIDEOであったのかをもとに、楽しく解説されている。 この方法は、「辞令」で解決することはないことは読めばすぐにわかる。方程式ではない。むしろ、後付けに近いものである。10のタイプの人を集めようとしてもできるかわからないし、採用時点で10のタイプのどれかに当てはまる人を見つけたとしても、会社のかで3ヶ月も入れば、「会社に適した人」になってしまうのだから。つまり、もともと、IDEOの様な会社でないと、この本でしょうかいされているようなチームはできないのではないか、というのが私の感想ですね。 あるとき、IDEOのようなイノベーションメンバーを立ち上げるのだとしたら、全く新しくしかも旧態依然とした組織とは別に立ち上げないといけないでしょう。でも、それって結局新しい会社を作っているのと同じ。つまり、日々の業務をつづけていくのであれば、この本で書かれた世界は「見果てぬ夢」に終わります、たぶん。 |
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テレビ東京編 「美の巨人たち」というTV番組のナレーション原稿が本になっています。小林薫さんのナレーションで紹介する美術の案内番組。私は、ことに気に入っています。なぜって、毎週毎週高品質な番組をずっと続けてけるスタッフに興味があるからです。リサーチ一つとっても、半端じゃないです。本を圧縮してナレーション原稿を書いているような気がしません。ちゃんと、意図がある。紹介する対象を見つめる視線がある。そんな解説を毎週書けるのはすごい。 それに、小林さんの読む「日本語」が素晴らしい。NHKのアナウンサーのような「キレイかもしれないが薄っぺら」な日本語とは一味違う趣が小林さんの朗読にはあります。なぜでしょうか。そこが、役者とアナウンサーの違いなのでしょう。体言止めや倒置を自然につかった日本語には、いつも真剣に聞き入ってしまう。自分もそんなふううに話をしたいから。 |
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D・A・ノーマン インダストリアルデザインに興味がある人ならば書名くらいは知っているだろう有名な本である。要するに、良いデザインには、使いやすさと美しさとがうまく混ざり合っているものである、という主張が書かれている。使いやすさとは、便利な機能ではなく、アフォーダンスを自然にとりこんだ「無意識に使える」デザイン、そして、美しさとは「視覚的印象」のコントロール。 工学系の人間は、必要以上に機能を詰め込み、論理的に構成すればそれが「つかいやすい」だろうと想像している。ところが人間は、からずしも論理的に行動するわけではない。それに、使う前に決めた機能が実用場面で無駄なく機能するかといえば、そんなことはめったにない。この2点の事実を謙虚に受け止めることがでるかどうかが、工学側の学ぶべきことである。 インダストリアルデザインに興味を持つ人ならば、あるいは、人にとって使いやすさとはなにか、を真剣に考えるときには是非ともこの本を読んでもらいたい。話はそれからだ。 |
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深澤直人 佐々木正人 後藤武 三人の雑談をまとめた本である。深澤直人の本を探していて、それで購入してみた。深澤以外の部分がいまいちだったので、評価は低いかな。 佐々木正人さんの本は何冊か読んでいる。アフォーダンスの概念には魅了されている。にもかかわらず、佐々木さんの本はいまいちですよ。結局、ギブソンの話ばかりになるので。 深澤さんの本を読むなら、この本ではなく、「デザインの輪郭」の方が断然お勧めですね。 |
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深澤直人 深澤直人さんのデザイン論。まさに、ずばりです。あの「静かな佇まい」のデザインは、この本で紹介されている「意図」からでているのですね。つまり、「無意識に働き掛ける」という試み。私のようなで「単に、深澤さんの作品が好き」というだけの人間でも、「なるほどなぁ」とうなずける発言がいっぱいあります。 巷にあふれている「クリエーター」という部類の人たちと全く次元が違う世界がそこにありますね。 ”大学に入学する少し前まで、彼ら、彼女らは人一倍センスにうるさい、こだわりの若者だった。それを自負していた。Tシャツ一枚を選ぶために何件も店を見てまわった。それが、入学したとたんにデザイン学生という称号を得、こだわりのセンサは、自分のデザインしたみにくいデザインに理屈をつける、独りよがりの若者に成り下がってしまう。昨日の若者が、急にデザイナーになり、「私のデザインは」とは「ぼくのアイディアは」とか話し始めるのだ。いきなりデザイナーになって、とたんに自分がゼロからものを生み出さなければならないと思い込んでしまうのだ。” うーむ。デザイナーでない私にとっても、痛い言葉です。何かになる、とは、「自分を主張する」こととは違うのですが、まぁ、若いうちは仕方がない。その状態であることにいつ気がつくことができるのか。これが、ほんとの「運・不運」ですよね。 |
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木村伊兵衛 モノクロの写真集。写されているのは昭和。どちからといえば戦後。被写体は画家・作家・俳優・職人・舞台芸人。スナップ写真なのだが、吸い込まれてしまう。文庫本だから画質がどうこういうことはない。夜10時頃渋谷を通過する電車だから、車内は喧騒。だが、木村さんの写真を見ていると、無音になる。 芸者さんの写真があった。言葉で表現できない。かわいいと美しさ。なんでこんなしぐさをとらえられるのだろうか。一方で、岸恵子や山田五十鈴がいまだにもてはやされる理由もわかった。正直、ときめく。あの時代ならば、私も憧れたであろう。 ただいま現在に縛られるのはつまらないことだ。そんなことがわった。 |
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木村伊兵衛 文庫サイズの写真集。戦後20ー47年くらいの東京を中心に撮影されている。木村伊兵衛といえばスナップ写真。この本の写真も普通の町の出来事をさりげなく撮影している。なにより視点が等身大。もっと言えば、自分の目に写った映像である。まるでそこにいるかのうような気がする。 撮影場所は下町が多い。浅草、銀座など。とくに、浅草・向島は私の育った場所なので、どこで撮影したのかわかる。ただし、写っている人たちには違和感を覚える。着物・もんぺ・日本髪。普通の人でそんな人は見たことがない。しかし、昭和二〇年代ならばあったのだろう。いつもあそんでいた隅田川の堤防の写真に全く違う時代とおもわれる人が写っている。これは衝撃的である。このとき、インフラストラクチャーという意味を理解した。つまり、人や風俗が変わっても、残っていくものなんだということ。 |
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原研哉 デザイン論。熱く語る川崎さんとは異なり、水のようにさらさら流れる無音の論。こうしよう、ああしようという煮えたぎる感情ではなく、山奥の温泉で一人静かに考える。本当にそんな状況から生まれたものがどこまでいいものなのかはわからないですけど。 この本の中でいくつか紹介されていた「リ・デザイン」のプロダクトにとても興味を持ちます。四角いトイレットペーパー。丸いと使うときに紙を出しすぎちゃうけど、四角い筒だと引っ張り出した分だけしか出てこない。結果的に無駄がなくなる。こういう、制御、って私は感動するのです。僅かですが、またプロダクトを見る視点を教わった気がします。 |
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片桐頼継 最後の晩餐の細部を写真で見せてくれる小冊子。小さくて薄いので取っつきやすい。特徴的なのは、部分に肉薄して撮影されたものが結構あり、絵の表面の感触や絵の具の乗り具合、剥がれ具合がよくわかる。本物にはここまで近寄れないから、ちょっとしたうれしさがある。 遠近法をどうやって実現してたことがわかる記述がある。イエスのこめかみの部分に「釘」の跡がある。拡大写真で見ててとれる。本当だ。これは、この部分からヒモをひっぱって「消失点に向かう線」を書いていたという技術的な証拠になっている。糸に炭をつけて消失点からピンとはる。して、糸をピンとはじく。すると壁に黒い線がのこる。大工さんがやる墨壷と同じものだ。 じっくりみても観賞に堪えうる。全体もスゴイが部分に人の手の動きを感じる。そんなことがわかる本です。 |
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川崎和男 著者の考える「デザインという単語の意味する範囲」はかなり広い。「ファッション」やグラフィックアートといったものだけではなく、建築・映画などを含み、「医療機関の運営」まで含まれるようだ。この本で、「介護老人施設」をどうデザインするのか、という問題を考えるため、とある医療機関を著者が見学したときの驚きが書かれている個所がある。すこし引用してみる。 |
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川崎和男 川崎さんのエッセイは強い意志であふれている。だから、読んでいるとこちらもつられて熱くなっていくのが分かる。自分の美学にこだわり、それを主張し、相手に納得してもらえるような説明を考える。そして、喧嘩っ早くなる。そんな感じでしょうか。 |
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川崎和男 表題よりも著者を見ればどいう本なのか想像つくかもしれない。熱い。著者の意図が伝わってくる本である。だから、直接話を聞いているかのように面白い。教科書を眺めているのとはまったく違う。 プレゼンテーションでは「発想・表現・伝達」が基本。これらを重んじるならば、発表者の価値観、基準、といった内面がそもそも問題になる。意図がない、意志がない、価値があると信じていない発表には付ける薬がない。表現ではないのだ。PowerPointを使って、まいしてやテンプレートを使っていることそのことが、「この発表は聞く価値がない」ことを表現してしまている。とまぁ、こういう強い意志で書かれた本である。 |
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Leonard da Vinci レオナルドのドローイング60枚の画集。安いが、見ごたえはありますペンでかいたノートの断片です。有名な絵画のスケッチがあったり、発明品の考察中の線画があったりと、楽しめます。 「文字とイラストを適度に配置して、こんな風にノートがとれたらな」と以前から思っています。自分でとったノートはどんな感じですか? すべての学習の初めにノートの取り方が教えるべきなのに、小学校では先生の文字をコピーをすることばかりしていませんでしたか? 無駄な勉強方法でした、黒板を写す作業は。一生懸命黒板を写すことなど放棄して、まず基本を体得して、その後で自分の好きなように絵と文字とでノートをとればよかったと今では思います。 |