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2011年1月10日

論文を書くときの心得

これからD論をとりたいという人と話す機会があった。
一応は課程博士ということで大学の提供するコースに乗って社会人ドクターとして作業している人だった。

ぼくが博士号コースにいたときからもう10年以上経過した。
ぼくの頃の常識が現在でもどの程度意味を持つのか、いささか心もとない。
大学の研究室から離れてから久しいし、現在でも研究していると胸をはれるほどパッとすることをしていないし。
だから「おれのアドバイスを聞きなさいよ」と自信たっぷりに話して聞かせることはできない。

とはいえ、変わらない常識もあるだろう。
あれこれ説教するつもりはないけれど、それでもその人の話を聞いていたらふつふつと疑問と苛立ちが湧いてくる。
「こいつはドクターコースだね」と思うような感じがしてこない。

この人もそうか、と思う。
学位が取れる人と取れない人には明確な違いがある。
とくに「こいつには無理だろうな」と思う人は、ほぼ例外なく「調べることをしない」のである。

どうしてなんだろう。
たまに「調べました」と主張する場合にどの論文を読んだのかと問い詰めると、一本しか出てこなかったりする。
あるいは人からの伝聞で「誰もやっていない」などと主張する。

最初に調べなくてもいい。
調べることその結果に自分の研究が引きずられると主張する人もいるが、それはそれで構わない。
じゃぁ最後には調べろよな。

調べないでオリジナリティーを主張する人たちのアタマの中は「おれってすごい」が鳴り響いているのだろう。
自分は実はスゴイ人だと確信しているから、他人のやったことなどに興味がないのだろう。
もっといえば、研究の目的が「知りたい」ではなく、「おれってスゴイ」を示すこだったりするのかもしれない。

こういう人を相手には、何をどう説明しても無駄である。
一応は常識的なことをぼくも言うが、意味することは相手もわかっているはずで、指摘すること自体が無駄なのだ。
わかるわからないの問題ではないから、説明でどうにかなるわけではない。

この問題を克服する一番簡単で確実な問題は、学部や修士の学生の面倒を見させることであろう。
Dの学生として研究室に所属していれば、そういう機会は多い。
Dの学生からみれば雑用が増えるだけでメリットがないように感じるだろうが、学部や修士の学生は自分の未熟さの鏡のようなもので、面倒を見ているうちに「自分にもそういうところがあるな」と気づく機会に何度も遭遇するものだ。
研究室という制度は一つの工夫なんだなとと思う。

ところが社会人ドクターのように研究室活動にコミットしないで研究だけしようとしている人にはこの方法は全く期待できない。
すでに論文があり、それで学位獲得が可能な人には問題はないが、そうではない人にはなかなか手間取ることになる。
学費と学位が交換されると期待している人は大抵取れないで退学になるだろう。

研究室に所属して、修士2年、博士3年というのは、普通の人には必要な修業期間なのだと思う。
普通の人であれば博士号は取れる。
ただ、その時間と機会を得ることはなかなか難しいというだけなのだろう。
勉強すれば博士号が取れると考える普通の人には、なかなか壁は厚いだろう。

不思議なことだが、そういう人が毎年やってくる。
なんとかならないものだろうか。

博士号=公認ライセンス

博士号について深く考えることはこれまでなかった。
が、何人かの人と話をしているうちに以前誰かが唱えていたことが身にしみてきた。

博士号とは、「研究をやってもいい」と見なされるためのライセンスだろう。

最初に聞いたときはピンとこなかったのだが、ぼくも今はそう思っている。

自動車の免許と同じで、公道で運転するために必要な決まりごとを知っており、また研究に必要な技術のベースラインを身に付けていますよという公認ライセンスとして博士号を理解すればいい。

場所が公道ではないならば自動車を運転してもいいのと同じように、学術雑誌にわけのわからないものを投稿したり研究費を公的なところから獲得しようとしなければ、だれがどう研究しようと問題はない。
けど、よのなかそいういう人ばかりではない。
ならば混乱を防ぐためにライセンス制度を適用したほうがいい。
そういうモノである。

自動車のライセンスを持っていれば「良いドライバー」というわけでも「上手なドライバー」というわけでもない。
それと同じように、博士号を持っているからといって「良い研究」や「上手に研究する」わけでもない。
ましてや、自動車免許と人格や人としての知性が関係しないように、学位もそういうものとの関係はない。

教習所では嫌な教官がいてもハンコを貰わないといけないので言われたことを身に付けるしかないのと同じように、大学院課程では教授と意見が合わなくても学位が取れるように淡々と作業をするよりないだろう。

こういう説明するとD学生でもわかってもらえそうな気がするのだが、そううまく話は転がらないのであるが。


学生さんから質問されたりすることは「教授からの指示の意味がわからない」ということに帰着される
要するに「なぜ、自分が納得できないことをしなければならないのか」というクレームになっている。
全てが全てではないが、学生に共通した不満のようである。

教授とD学生では圧倒的な差がある。
よくよく話を聞くと、「そりゃ、おめーが虫のいいこと要求しているだけだろ」という感想を持つことが多い。
そういう時はこう説明するのだが、納得される人は少ない。
ほんとに。
学位に対する夢があるようなのだ。

あんたの目の前にいる俺だってあるんだから、そんなたいしたもんなはずねぇだろう。
ノーベル賞ならば話は違うのかもしれないけどね。

ついついそう言いたくなるのだが。


ただこういうときはグッと堪えたほうが身のためである。
なぜなら、自分の主張していることがナンセンスかもしれないから。

先行研究の調査=未開地への地図作成

ついでだからメモ書きしておく。

なぜ先行研究を調査する必要があるのか。

一番全うな答えは「同一の研究が既に存在していたら、その研究を新たに始めて同じ結論に至った場合、努力が無駄になるよ」ということである。
オリジナリティーというものがないと研究自体の意味がない。

特許というものを例にあげれば、大抵の人はこの意味を理解してくれる。
どんな学生でも一応は理解する。
そりゃそうですと。

そう説明するのだけど、ぼく自身はそう思っていない。
誰かの本で読んだ比喩が一番しっくりしたので、そちらを本当の理由としているから。
それは次のような説明だった(自分流に変えている)。


研究したいということがある。
知りたいことがあって、それについて世間にある情報では不満足だと感じているから自分なりに答えを探してみようというわけだ。
未知の世界に足を踏み込むわけだ。

未知なのは誰も気づかなかったからではなく、そこへたどり着くのが困難だったからだろう。
暗黒大陸と呼ばれていた時代のアフリカ中部ヘの冒険や南極点への到達ようなものと同じわけだ。
チャレンジしていた人は存在したのだが、途中で遭難してしまった。
あるいは途中で諦めた人も結構いるのかもしれない。

冒険は生きて帰ってこないと意味がない。
ならば事前に「何が危ないのか」を知る方がいい。
これまでいろんな人がトライしたのなら、生還した例だって少しはあるだろう。
目的地が微妙に違っていたり、目的地が同じでも途中で戻ってきたのだろうけど。
そういう人がいるならばルートはいくぶん違っているはず。
いやそもそも、どんなルートがあるのかなんてよくわからないのだったけ。

まずは、生還した人がどれくらいいて、どんな人がどんな方法でどこまで行ったのか。
途中にはどんな危険が潜んでいたのか。
そういう冒険談を集めることから自分の冒険活動を始めるべきだ。

冒険談を手にいれたら、そのルートを白地図に記入し、危険なポイントに印をつけていく。
挑戦した人が実は意外に多数いたんだね、なんてことを知ることにもなるだろう。
季節によっての難易度もわかる。
毒虫や部族、気候などについてもいろいろわかってくる。

そういうものを集めてから自分なりの「ルート」を考えるわけである。
冒険の優先順位は生きて帰ること、成功すること。


つまり、研究における先行研究の調査は冒険談を集めることなのだ。
それらを集めてから自分のルートを確定させればいい。
それは成功して生き延びるために必要なことだろうよ。

自分が天才でもないかぎり、人間は似たような失敗を必ずする。
だったら、それを先回りしてしらべればいいじゃないか。


そう、D学生には説明するのだが、過去この説明で納得してくれた人はいない。
どうしてなんだろうと思うのだ。
だって、ぼくにはとてもピンとくる説明なんだけどなぁ。

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