論文を書くときの心得
これからD論をとりたいという人と話す機会があった。
一応は課程博士ということで大学の提供するコースに乗って社会人ドクターとして作業している人だった。
ぼくが博士号コースにいたときからもう10年以上経過した。
ぼくの頃の常識が現在でもどの程度意味を持つのか、いささか心もとない。
大学の研究室から離れてから久しいし、現在でも研究していると胸をはれるほどパッとすることをしていないし。
だから「おれのアドバイスを聞きなさいよ」と自信たっぷりに話して聞かせることはできない。
とはいえ、変わらない常識もあるだろう。
あれこれ説教するつもりはないけれど、それでもその人の話を聞いていたらふつふつと疑問と苛立ちが湧いてくる。
「こいつはドクターコースだね」と思うような感じがしてこない。
この人もそうか、と思う。
学位が取れる人と取れない人には明確な違いがある。
とくに「こいつには無理だろうな」と思う人は、ほぼ例外なく「調べることをしない」のである。
どうしてなんだろう。
たまに「調べました」と主張する場合にどの論文を読んだのかと問い詰めると、一本しか出てこなかったりする。
あるいは人からの伝聞で「誰もやっていない」などと主張する。
最初に調べなくてもいい。
調べることその結果に自分の研究が引きずられると主張する人もいるが、それはそれで構わない。
じゃぁ最後には調べろよな。
調べないでオリジナリティーを主張する人たちのアタマの中は「おれってすごい」が鳴り響いているのだろう。
自分は実はスゴイ人だと確信しているから、他人のやったことなどに興味がないのだろう。
もっといえば、研究の目的が「知りたい」ではなく、「おれってスゴイ」を示すこだったりするのかもしれない。
こういう人を相手には、何をどう説明しても無駄である。
一応は常識的なことをぼくも言うが、意味することは相手もわかっているはずで、指摘すること自体が無駄なのだ。
わかるわからないの問題ではないから、説明でどうにかなるわけではない。
この問題を克服する一番簡単で確実な問題は、学部や修士の学生の面倒を見させることであろう。
Dの学生として研究室に所属していれば、そういう機会は多い。
Dの学生からみれば雑用が増えるだけでメリットがないように感じるだろうが、学部や修士の学生は自分の未熟さの鏡のようなもので、面倒を見ているうちに「自分にもそういうところがあるな」と気づく機会に何度も遭遇するものだ。
研究室という制度は一つの工夫なんだなとと思う。
ところが社会人ドクターのように研究室活動にコミットしないで研究だけしようとしている人にはこの方法は全く期待できない。
すでに論文があり、それで学位獲得が可能な人には問題はないが、そうではない人にはなかなか手間取ることになる。
学費と学位が交換されると期待している人は大抵取れないで退学になるだろう。
研究室に所属して、修士2年、博士3年というのは、普通の人には必要な修業期間なのだと思う。
普通の人であれば博士号は取れる。
ただ、その時間と機会を得ることはなかなか難しいというだけなのだろう。
勉強すれば博士号が取れると考える普通の人には、なかなか壁は厚いだろう。
不思議なことだが、そういう人が毎年やってくる。
なんとかならないものだろうか。