何といえばいいのか、不思議な感覚である。
そもそも映画をろくにみたことがないので、この映画について良い悪いの評論には興味がなく、ただ印象だけを記録しようにも、感想を上手く表現できないでいる。
鉄琴?の妙な音楽で始まり、手書きの味がある字幕(出演とかそういうことを表示するものをなんというのか?)がでる。モノクロの映像。
もしこれがテレビで放送されているところをたまたま見かけても、「これ見ようかな」とはならない。
そして、こういう白黒の古い映画を喜んで見るのは「おれって映画通」を自負する人か、ぼくの両親以上の年齢の人くらいなものと判断し、ニュースにでもチャンネルを合わせるのが落ちである。第一印象はそういうものだった。
ところが、そのまま見続けた。
ツタヤで借りたからということもあるし、今回は古い東京の街を見たいからということもある。とにかく見ようと思ってそのまま見続け、そして最後まで見てしまった。しかも見終わって感動している自分に気づく。
集中するのは不思議なことで、見えるものと見えないものがはっきりと別れてしまう。
古い映画で気になるところはモノクロだということだが、途中で映画が白黒の世界であることを「キレイさっぱり」と忘れてしまった。白黒の画像にリアリティを感じるはずはないと信じていたが、そんなことは「どうでもいい」くらいに問題ではない。全く気にならない。そういう自分のクセを再発見した。
自分では気づかなくても、映画を見るとき目的を持っているようだ。
お金を払って映画を見るわけだし、数多くある映画から選んだものにはそれなりの期待があるはず。この映画に何を期待し、何を吸収しようとしているのか、無意識であっても満足感を左右する大切なことである。それさえ満足できていれば、白黒だなんてのはどうでもいいことなのだ。
映画を見ているときに自分の意識は何を追っているのか。
僕の場合は声だったり、顔だったりと、そういうものだろう。だから白黒に注意が向かなかった。もちろん、夜の銀座という舞台設定だから白黒であることにあまり気にならないのかもしれない。
戦後の東京の風景を見たい。
これがぼくの目的だった。映画のワンシーンで千住の「おばけ煙突」が見れたから、その目的は達成された。それはそれで満足した。しかしそれだけでなく、なんだか予想しなかったスゴイものを見てしまったようである。発見とでもいうべきことに気づた。
昔に対する違和感のなさである。
自分の両親よりも上の世代の役者さん、文物や風景あるいは社会を見たことに、不思議と違和感がなかった。むしろその「違和感のなさ」に「違和感」を感じた。
古いテレビ・ドラマなどとても見れたものではないのだろうという思い込みがあった。
自分の生まれる前の古い時代の人がもつ感覚に感動するわけない。そう論理的に思っていた。だから、この映画のあまりにも「まともさ」に驚いてしまい、それどころが現代でもこんな映画あるだろうかと、「倍」驚いたわけである。
なるほど、人は現在の自分を中心に過去を評価しているのである。
なんどか読んだ子とのある言葉の意味をこれで理解できた気がする。現在は過去よりも優れているはずだ、昔の人よりも優れているはずだと根拠なく思い込んでいる。そして、自分がいる時代のものはなんでも過去のものよりはいいだろうという思い込んでいる。その矛先は科学や技術だけでなく、映像や音楽芸術、スポーツにまで広がっている。
自分の知らないことに対して、もっと真摯な態度をとらんといかんなぁ。