完成した絵ではなく、描いている様子を見たい
昼下がりの日曜日。今日は大分暖かいので出かける人が多いはず。まだ、花粉の勢いは上り調子だからできれば屋内のがいいという人もそれなりにいるのかもしれない。普段の京都を知らないので、人通りが多いのか少ないのか判断できないけれど、2年前のトルナーレのときと比べればはるかに多い。
どんな人が見学しているのだろうか。この絵を見つけて立ち止まる前、何をしていたのだろうか。買い物だろう。子供が多いのだろうか。年配の方も魅かれるのだろうか。などと考えて辺りを見回す。
普段の生活で絵画とあまり接点がない。普通はそうだろう。電車の縦吊り広告に美術館での展覧会の案内があったとしても、それに添えてある絵は記号のようなもので、絵自体に今日をもつ人は少ないと思う。ルノアールやモネなどはビトンなとどと同じ、万人が良いと認めるブランドになっている。
大型ポスターであっても状況は変わらない。それは一種の広告であって、存在をめでる対象にはならない。単に絵が大きいだけなら、一瞬注意を引くが次の瞬間忘れ去られている。
しかし、人がその場で作成しているときは違うのだ。絵を描いている人がある。へぇ、上手だなあと感心する。それが小さな絵であっても、大型ポスターよりは印象に残る。
ところが、残念なことにというか、当たり前なことだがというか、そういうものは商売にからんでるのが普通である。いわゆる実践販売の流れを汲むものやTVショッピングのようなデモンストレーションだって、「これを使えばあなたにもできる」的な「広告」が最後に待っている。
そういう状況に慣れているから、都市に住んでいる人は自然に身構える。何があってもそれは「キャッチセールス」につながるのだろうと身構えてからのぞき込むか、あるいはパフォーマンス自体を無視するか。そういう防御策を無意識に行っている。そうでないと、生きていけないから、生活の工夫として身についたクセなのだ。
マドンナーロは商売と直接つながっていない。せいぜいコインを投げるくらいなものである。大道芸は純粋に楽しめる。広告と違うのだ。
もっといえば、絵を描いている過程を見ることができて、なるほどなぁという驚きときれいな絵だなぁという感心も一緒に味わえる。お得なパフォーマンスなのである。
しかし、あまり日本で見ない。どんなに綺麗な絵画であっても、だれかが描いたものなんだなぁと原点に立ち返って驚く。次に美術館に行ったとき、絵を見る側の視点が変わっていることに気付く。それって、以前より絵が好きになっていることなんだと思う。
描いている途中を絵を眺めてみる。顔はある程度できているが手はまだ輪郭どまり。なんだか不思議な気がする。一瞬、解剖図のような感じがする。子供手が解剖さているような気がして、戸惑ってをよく見るとなんてことはない、輪郭のままなのだ。
こういう絵を見る機会はほとんどない。始めてみるにちかい。というのは、この顔が描ける人ならばすでにプロの人であろうし、プロの人の絵は完成品しか見る機会がないから。どんなに上手な絵であっても、下絵から輪郭、色塗りという行程を経て完成するのだと確認できる。いや、実に当たり前なことなのだけど、実際目の前で作業を確認したので「そりゃそうか」と納得できる。そして、それはわかってはいても「不思議なものだ」という気分になる。
一方、その道具は何の変哲もないチョークだから不思議な気分がする。素晴らしい絵は道具も素晴らしいのだろう。そう思ってしまうものだが、そうではないみたいだ。絵を描くとき高い道具をそろえてたくなるが、道具が絵を作るわけではないのだとここで確認できる。いや、使い込まれたチョーク、実はすごい効果なものなのかもしれないが、素人目にはそう見えないだけかもしれないという疑問は残るのだが。
たくさん色があるが、実際使っているのは極少数だった。中間色は指でこすってグラデーションを出していた。極少数を使い込めばいろんなことができるのかもしれない。不思議なことだが、物事って大抵そうだなと描く様子を見ながら妙に納得してしまった。
実際の様子をビデオで見てみると色を混ぜる感じがつかめる。指でグラデーションをつくる動作は、ぼくにはPhotoshop的に見えた。本当にこういう作業やるんだと驚いてしまったくらい。
絵を描くには集中力が必要なのかと素人ながら思う。集中する。そのためには、人とおしゃべりしすることなどない。ただ一人の世界に没頭する。日本画の偉い先生なんかそうやってきた、と勝手にぼくは想像しています。
しかし、マドンナーロは逆だ。そもそもが描いている姿を人に見せることが目的とうことらしく、話しかければ手をとめて積極的に会話をする。聞かれたことには丁寧に答えてくれる。話をやめるのはマドンナーロではなく、話しかけた人である。もう話すことがなく、その場を去るとマドンナーロは再び絵に取りかかる。
顔が描けてしまうと仕事の峠は越えてしまうのかもしれない。考えてみれば、人は顔を探す。それが絵の中であってもそうだ。顔を探し、見つかると納得する。それが想像している以上の出来ならば満足する。身体や服や装飾など、あればあったでいいのだけど、どちらかといえば顔の装飾に過ぎないのかもしれない。だから、どういう絵であっても顔から描くのだろう。
描く目的が描くことを人に見せることならば、マドンナーロという仕事は画家というより音楽家に似ている。ストリートパフォーマンスとしてバイオリンやサックスを吹いている人をロンドンの地下鉄でよく見かけた。音楽は音楽を奏でているときにその場にいなければ意味がない。
ストリートで演奏している人はそれを録音されることに興味はないだろう。それをあとで聞かされたらどんな気分がするのだろうか。あまりいい気分ではないのかもしれない。そんな録音テープを聞き返すより、いま演奏してやると言われそうな気がする。
とすると、マドンナーロモ同じかもしれない。描かれた絵が残るのを嫌がるかもしれない。時間が経てば汚れるし、絵の具の定着も悪くなるだろうし。そんな絵を飾るくらいならばオレが描いてやると。そう言いそうな気分がする。
マドンナーロって誰ですか?
マドンナーロの描く姿

